他人の星

déraciné

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』 (5)

“そのとき”が来るまで、誰も気づかない

 

 さて、ここからは、再び、ネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 前回ふれた、少数派は「悪」とみなされやすい、という人間心理の傾向は、『蠅の王』の物語でも、その後の少年たちの行動に徐々に影響を及ぼし始めます。

 

 その先に、大きな悲劇が待ち構えていようとは、少年たちの誰も気がついていなかったことでしょう。

 

 ラーフの側に残る者、ジャックの狩猟隊に加わる者、その流れにまだ柔軟性と弾力性が残っていた間は、ラーフとジャックの、緊張状態にありつつも、互いを補い合うような関係は、まだ完全には壊れていませんでした。

 

 彼らは、二つの群れに分かれて、島の別々の場所を根城としながら交流し、ラーフたちもまた、肉が食べたいときには、ジャックたちに分けてもらっていたのです。

 

 けれども、物語の後半で、決定的なできごとが起こってしまいます。

 

 「選ばれた」リーダーであるラーフのそばには、いつも“ピギー”が寄り添っているのですが、彼は極度の近視であり、ビン底のように分厚い眼鏡がないと、ほぼ何も見えません。

 

 実は、この「眼鏡」こそが、ラーフにとっては、救助を求めるための烽火、ジャックにとっては、とらえた豚を焼いて食べるための火を起こすために、絶対に必要なものなのです。

 火をおこし、それを自由自在に操ることができるようになったところから、人類の文化や生活が飛躍的に進化していったことを象徴していますね。

 

 生きていくために必要な“火”を起こすこの道具は、ピギーのものであり、ラーフの側にあったものなのですが、しだいしだいに仲間を増やしていったジャックは、その便利な“火”を自分のものにしようとして、急襲を仕掛け、ピギーから、眼鏡を奪ってしまいます。

 

 「火がほしいとさえいえば、いつだって分けてやる」つもりだったラーフは、ジャックの強引で暴力的なやり方に憤りを覚え、ジャックのところへ抗議に行きます(ラーフの仲間は、もはや、ピギーと、双子の兄弟サムとエリックだけになっていました)。

 

 ラーフとジャックの、お互いへの憎悪の感情には、この機に至ってもなお、温度差があります。

 ラーフは、ジャックが激しく自分を忌み嫌っているらしい、という話をきいて、「なぜ」と驚いてしまうほど、まだ余裕を保っていますが、ジャックの側には、もはや、そんな余裕はないようです。

 

 相手と対話や交渉をする気などないからこそ、力ずくで、“火”を奪っていったのでしょう。

 

 ラーフとジャックの間には、最初から、意見や態度の違いによる緊張があったのですが、彼らの関係が(特に、ジャックの側に関して)、いつの間にか、修復不可能なまでに悪化してしまっていたのだ、と、読み手が気づくのも、おそらくこの事件によってではないのでしょうか。

 

 

 

すべては、“無意識”の導くままに…

 

 一見して、“急変”したかのようにみえる現象の多くが、現実にはまったくそうではなく、潜在下で、確実に、ちゃくちゃくと用意が進められていたことに気がつく者は、ほとんどいないと思います。

 

 例えば、様々なアレルギー症状なども、その一つです。

 よく、「コップの水があふれる」現象に例えられるように、アレルゲンとの接触が、知らないうちに、コップの中に一滴、一滴、蓄えられていき、その水が、臨界点に達して、コップからあふれ出たときが、症状の出るときなのだそうです。

 それだけでなく、地震などの災害、温暖化、加齢の影響、病、その他多くの身近な現象も同じで、私たちが気づけるのは、誰の目から見てもそれとわかるような状態になってからです。

 

 

 つい先日、NHKテレビで放映されている番組『チコちゃんに叱られる』を見ていて、気づかされたことがありました。

 

 たしか、「オーケストラに指揮者はなぜ必要か」?「指揮者はなぜ手を振るのか」?という問題だったような気がします。(ちがったら、ごめんなさい)

 

 その答えは、「指揮者は、一瞬先の未来を演じているから」でした。

 指揮者の頭の中には、すべての楽譜のみならず、指揮者それぞれのとらえ方による、その作曲家らしい楽曲の演奏の在り方があって、そのとおりに、オーケストラを導くために、常に、一瞬先、一瞬先の楽譜の流れを、指揮で示している、というのです。

 

 そうです。

 指揮者と、オーケストラを、人間の心の構造に例えれば、指揮者が“無意識”で、オーケストラが“意識”なのです。

 観衆が聴くことができるのは、指揮者の頭の中で、一瞬先に流れているであろう音ではなくて、実際に、その指揮どおりに演奏されている楽器の音だからです。

 

 

 ものごとは、いつも、潜在下、あるいは無意識下、つまり、私たちが気づいたり、注意を向けたりする前に、すでに起こり始めています。

 

 それを、私たちは、「ものごとは、いつでも、自分で意識して、自分で考えて決めている」、と思い込んでいます。

 だからこそ、「自己決定」だの、「自己責任」だのいう言葉が、これほど横行しているのでしょう。

 

 実際には、私たちが、何かを判断したり、決めたりして、実行に移す、その常に一歩先を、“無意識”が決め、先行し、導いているとも知らず………。

 

 「無意識」とは、具体的にいえば、生まれてから現在まで、たった一度でも、見たり聞いたり、感じたり考えたりしたこと、実際に経験したこと、自分自身の取った言動や態度、反応、そのすべてです。

 

 私たちは、そのほんの一部しか覚えておらず、それが“意識”と呼ばれるものを形成します。

 

 私たちは、自分の身に起きたことや、自分の内面で起きたことのほとんどを忘れてしまいますが、だからといって、それらの経験や体験が、どこかへきれいさっぱり消えてしまうわけではありません。

 

 「私」「自分」という意識がたとえ忘れても(思い出すことができなくても)、それらは、音もなく静かに心の奥底に降り積もり、沈殿し、巨大な無意識層をつくり、ふだんの、何気ない言動や判断、考え方、気持ち、あるいは性格と呼ばれるものに至るすべてに影響を与えます。

 

 私たちは、「自分のことは自分がよく知っていて」、自分で考えた上で「自分が決めた」と思っていますが、実は、すべてのリーダーシップをとり、その船がどこへ向かうのか、舵をとっているのは、“無意識”だということになります。

 

 “意識”は、永遠に、“無意識”を追い越して、その上に立つことはできないのです。

 

 

 

指揮者が、手を振るとき

 

 前回書いた、一連のマスク騒動についても、同じことがいえると思います。

 

 2010年代後半以降、特に20代、30代女性を中心に、「マスク依存症」が少しずつ知られるようになりました。

 風邪やインフルエンザの予防など、確たる目的がないにもかかわらず、日常的にマスクを着け、やがて、マスクを着けないでは不安で落ち着けなくなる、というのが中心的な症状です。

 社会不安症や、対人恐怖症との関連が指摘されており、マスクを着けることで、一つには、他者の視線から自分(とくに、素の感情)を読み取られることがないよう、身を守ることができる、というものです。

 鼻から下は、相手に表情で気持ちを伝える際、重要な部分であり、日常的に他人に気を遣って、無理に笑ったりすることに疲れてしまっている人は、気が楽になれるのだと思います。

 

 マスクのもう一つの効用は、その人がどんな顔なのかが隠されるので、「匿名性」が高まり、安心が得られる、ということでしょう。

 本来、「顔」は、その人をその人たらしめているアイデンティティの中でもかなり重要な役割を果たしており、他者とは違う独自の「私」であることをアピールする、いちばん目立つポイントとなるものです。

 本でいえば、「表紙」でしょう。

 それを「隠す」ということは、むしろ、「他者とは違う、独自の存在であること」を隠し、気づかれないようにする、という意味を帯びます。

 

 通常、人は、ほかの誰とも違う特別な人間でありたい(他の人と一緒にされたくない)、という欲求をもっています。

 けれども、そうした自己顕示欲による自己主張が、むしろ、社会で生きていく上で邪魔になったり、場合によっては、生活と生命に危機をもたらしかねない場合には、自分の身を守るために、「隠そう」「隠さなければ」という無意識の衝動が働くようになります。

 そこで、マスクを着けるわけです。

 

 つまり、マスクを着けるのは、「外界から身を守り、安心するため」なのですが、ことのことは、人間が、たとえ黙って何もせずともつながり合い、関係し合わずにいられない、社会的動物である以上、他者との関係にも当然影響を及ぼします。

 

 「すすんでそうしたかったわけじゃない」、「こんなはずじゃなかった」、という気持ちが強い場合、錯誤帰属(ものごとの原因がどこにあるかを見誤ること)が起こりやすくなります。(「私がこうなったのは、いったい誰のせい?!」という怒りや憎しみは、コントロールしたり、簡単に消したりすることができるものではありません)

 

 繰り返しますが、人は、もともと、自分の思いのままに行動したい、他者とは違う(優れた)自分を誇示し、それを他者から認められたい、という欲求をもっています。

 

 しかし、そうした人間らしい望みや希望をあきらめざるを得ず、固い鎧に身を包み、自分を押し殺さざるを得ないのは、いったい誰のせいか、その原因を、他者(場合によっては人間全体と人間社会)に向けるのです。

 

 自分より立場や力の強いもの、逆らったり、歯向かったりすれば、自分に不利になるような存在に対して、こうしたフラストレーションは、火を噴きません。

 

 自分に身近であったり、自分より弱い立場の者(たとえば、少数派の人など)に対して、火を噴きやすいのです。

 

 

 

 私は、いま、“コロナ禍”と呼ばれる状況の中で、大多数の人がマスクをしているのを見て、胸の奥が、むずむずする感覚をおぼえます。

 

 おそらく、その、先行してちらほら見られていた「マスク依存症」が、すでに現在の、コロナ関連の○○警察出現を予言していたのであって、さらにその少し前、誰も“マスク依存”などという現象に気がついていなかった、そのとき、すでに、指揮者が手を振りはじめていたのではないか、と。