他人の星

déraciné

アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(1)―ヒトの戦争好きは、ヒトの幼きゆえなのか―

 

 昨年8月、NHK・Eテレの『100分で名著』、ロジェ・カイヨワの『戦争論』が取り上げられたとき、指南役の西谷修氏は、「現代(いま)は、冷凍庫の中で戦争しているようなもの」、と言いました。

 

 私は、なんてうまい表現だろう、と思いました。

 

 あるいは、『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインフロイトの往復書簡』(花風社 2000年)の解説で、養老孟司氏は、「戦争とはつまり土建のことです」、と言いました。

 

 私は、目の前で、シュッ、という音がして、的のど真ん中に矢が当たったのを見たような気がしました。

 

 

 なぜ、戦争は起きたのか、なぜ、取り返しのつかない多大な犠牲を払っても、その本当の理由にも真実にも目を背けていられるのか、そしてなお、こりもせずに、あれからずっと、この国が戦争をやめる気配はありません。

 

 もし今度、持てる限りの科学技術と兵器を実際に使用した世界大戦が起きようものなら、人類も地球も終わりであることは、誰もが知っている事実です。

 

 だからこそ、戦争は水面下で、あくまでも「冷凍庫の中で」、やらなければならないのです。

 

 私は専門家でも何でもないので、詳しいことはよくわかりません。

 

 けれども、日本も含め、いくつかの国内外で、利権がらみの問題(つまり、お金、マネーですね)をめぐって、互いに牽制し合ったり、口げんかをしたりしているのを見て、困ったものだなあ、と(のんきに)思います。

 私などは、「生産性のないヤツ」として、深海魚のごとく、海の深いところに沈められたままなので、海の上で何が起きているのか、本当は何も知らないのでしょう。

 

 

 そして、このコロナ禍でも、あるいは、あの震災のときでも、いつも変わらず元気なのは、“土建”です。

 

 これを書いている、まさにいまも、ついこの間、更地になったばかりの土地で、アパートを建てようと、せわしなく動く重機の音、何かを掘る音、作業員の大きな声が飛び交っています。

 

 本当に、元気そのものです。

 

 

 私は、といえば、夏目漱石の、「みんな金が欲しいのだ、そうしてそれ以外には、何も欲しくないのだ」、という名言を、頭の中で、数え切れないほど、繰り返し、繰り返し、つぶやいています。

 

 

 つまり、みんな、おんなじものが欲しいから、喧嘩になるんだよね~。

 

 

 

 先頃(といっても、70年立ちますが)起きた戦争だって、そうです。

 

 「お国のため」、「家族のため」、「大切な人を守るため」(あれれ~?どこかできいたことがある言葉だなぁ?←コナンくん風に)、多くの若者たちが、命を散らしていった、ということになりますが、そんなの、真っ赤な嘘です。

 

 財閥や軍閥のお金儲けのためだけに、殺されたのです。

 しかも、「戦死」した日本兵の6割は、戦闘死ではなく、餓死と病死です。

 どれだけ無謀な戦争だったかわかりますし、「死ぬとわかっていて戦場に送り、そのまま死ぬにまかせた」、まさに、その行為こそが、“殺す”ということだと言っているのです。

 

 戦争すれば、大変お金が儲かります。

 飛行機やら、船やら、道路やら、武器。たくさんつくって、売れれば売れるほど、利益が上がる。

 戦争は、破壊行為ですから、せっかくつくったものが、あっという間に、どんどん破壊されて、需要はうなぎ登りですから、ウハウハです。

 

 

 しかし、だからといって、国民の側も、「だまされた」、なんて言っちゃあいけません。

 

 日々、メディアが報じる「勝利」の言葉にあおられ、国民は、「空虚な熱狂」(姜尚中氏が、『サンデー・モーニング』で使った言葉です)に酔い、軍上層部では、もともと日本にそんな力はなく、絶対に米英開戦は避けねばならないと考えていたのに、「はよ米英開戦せんか、この東条の腰抜けめ」、と猛プッシュしたのは、国民です。(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』NHK 2011年3月放映)

 

 こうした日本の未来を、明治時代、すでに見抜いていた「外国人」がいました。

 

 「日本帝国の軍事的復活―それが新日本の真の誕生なのだ―は日清戦争の勝利とともに始まった。……中略……今度の戦争よりもさらに雄志をのばして、もっとずっと永続する成果をあげるために、どれほどの難関が前途に横たわろうとも、日本はもはや危惧したり逡巡したりすることはないに違いない。

 しかし日本にとっての将来の危険はまさにこの途方もなく大きな自信の中にあるともいえよう。それはなにも今度の勝利によって創り出された新しい感情ではない。それは一種の人種的国民感情で、戦勝の報せのたびにひたすら強められ高められてきたものである。宣戦布告の瞬間から、最後には日本が勝つということについての疑いはまったく生じなかった。」

 

         小泉八雲ラフカディオ・ハーン)「戦後に」 1895年5月(彼曰く、「この輝かしい皇紀二千五百五十五年のこの春」)

 

 

 

 

 私が言いたいのは、いまなお、この日本は、戦争まっただ中だ、ということなのです。

 

 コロナ禍の禍(わざわい)は、あきらかに天災ではなく、人災だと思います。

 新型コロナウィルスに感染した人、クラスター感染を出した施設、医療従事者、あるいは、マスクをしない人に向けられるバッシングは、戦時中の思想・言論統制に、とてもよく似ています。

 戦時中の、「非国民」、という言葉は、お上から、ではなくて、同士であるはずの、同じ国民から国民へ向かって発せられたものです。

 

 言ってはいけないこと、というよりも、言ったら叩かれるとか、いじめられるとか、見せしめとして、さらしものにされたり、人格否定されたり、社会的に抹殺される可能性のあるものは、あらかじめ“自主規制”、つまり、“自粛”することがあたりまえになっているのです。

 

 マスクをするということは、「口を封じる・封じられる」象徴ですらあるのではないか、と思ってしまうほどです。

 

 それに、生活困窮者の救済をせず、「死ぬにまかせて」いるのは、何も、新型コロナウィルスにはじまったことではありません。

 (どこかの朝の番組で、スウェーデンのコロナ対策、「集団免疫」を、高齢者や持病のある人、重症者、死亡者を軽視しているのではないのか、スウェーデンの死生観「助からないものを無理に助ける必要はない」という、日本とは違う死生観によるものかと批難していましたが、それは、スウェーデンという国が、助かる命を、社会政策によってきちんと助けているからいえることであって、日本のように、助かる命も社会政策で救わず、死ぬに任せているのとは、まったく状況が違うことを理解していないからでしょうね)。

 

 

 問題は、先頃の戦時中よりも、見えにくく、深刻であるようにも感じます。

 

 冷凍庫の中で、何も知らずに、“見えない戦争”を戦わされている、私たち。

 そのことに、いったい、どれだけの人が、気づいているのでしょうか。

 

 

 私たちが、いつまでもいつまでも、滑車の中のネズミのように、同じ輪の中から抜け出せないのは、幼児のように未熟だからなのでしょうか。

 

 人間が人間を正しく導くことは、不可能なのでしょうか。

 

 もっと成熟した、知的生命体でなければ、私たちを救い出すことは、できないのでしょうか……。