他人の星

déraciné

アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(2)―ヒトがヒトの正体を知らなさすぎる、という謎―

 

 数週間前の土曜の夕食時、テレビを見ていて、思わず、カレーを食べる手が止まりました。

  見ていたのは、NHK・Eテレの『地球ドラマチック』で、『ハッブル宇宙望遠鏡~宇宙の謎を探る30年間の軌跡~』です。

 

 ハッブル宇宙望遠鏡は、宇宙が始まったばかりの頃の宇宙の姿から、星々が集まり、銀河系をつくり始めた頃の姿まで、宇宙の過去の姿を、すべて、たった一枚の画に、写しとって見せてくれたのです。

 

 ああ、そうか、何十億光年とか、何億光年とかいうのは、それくらい前に発した光が私たちの目に届くまでの単位であって、つまり、私たちが夜空を見上げたとして、見ることができるのは、すべて、過去の姿なのだった……、と、いまさらのように思いました。

 

 私は、理数系がからきしだめで、数字だの、数式が出てくると、体がむずがゆくなってくるので、知りたい知識がそっち系の場合、子どもにもわかるような、初心者向けのやさし~い本しか読めません。

 

 その中に、こんなことが書いてある本がありました。

 

 「われわれは過去を憶えているけれど未来を憶えていない。

 あたりまえだ、などと言うなかれ。よくよく考えてみれば、なぜ、時間の一方向だけを記憶しているのかは、大変に難しい問題なのだ。」

 

   竹内薫『図解入門よくわかる最新時間論の基本と仕組み』秀和システム 2006年

 

 

 同書によれば、時間の考え方には、過去から未来へ一直線に流れるという直線的時間と、ドーナツみたいな形をしていて、ある程度の時間がたつとまたもとのところへ戻ってくる円環的時間とがあるらしく、それどころか、時間も空間も、本当は存在していない可能性さえあるらしいのです。

 

  

 

未来は、過去に、予告する

 

 さて、ここからは、ネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 『幼年期の終わり』は、簡単にまとめてしまえば、身体的にも精神的にも、政治的にも経済的にも、科学的にも知性的にも、つまり、あらゆる意味で、生きものとしてあまりに未熟で幼なすぎる人類のおもり役として、「オーヴァーロード」なる生命体が、地球へ派遣されてくるお話です。

 

 人類は、「オーヴァーロード」の支配を、甘んじて受け入れるのですが、ヒトは視覚の囚人であるゆえ、どうしてもその姿を見たい欲求にかられ、あれこれ策を練って実行するのですが、いかんせん、「未熟」すぎて、オーヴァーロードに先を読まれ、ことごとく失敗します。

 

 なぜ、オーヴァーロードたちは、その姿を、人間に見られてはいけなかったのでしょう?

 

 それは、人類が、その姿を目にしたとしても、驚いたり、恐ろしがったりして、抵抗したり、反逆を企てたりすることのないよう、人類が少しでも成熟するまで、(あるいは、オーヴァーロードの存在に十分慣れて、その支配を当たり前だと思うまで)、時間をかせぐ必要があったからなのです。

 

 なぜなら、オーヴァーロードたちの姿は、“悪魔”そのものだったのですから……。

 

 人類は、オーヴァーロードたちのおかげで、はじめて、“幸福”な世界を築きあげることに成功します。

 互いに憎しみ合わざるを得ないような格差や不平等、あらゆる差別偏見はぬぐい去られ、それぞれに、生きがいや、やりがいある仕事に恵まれて、すべての争いごとや、破滅的な戦争から解放されます。

 

 

 そりゃ、誰だって、平和が好きに決まってる。

 人間だもの。

 

 ……なんて、また、嘘ばっかり、言っちゃって。

 

 

 平和なんてキライ。

 ただし、オレさまの言うことに、みんな黙って従ってくれるなら別だがね。

 平等なんてキライ。

 いつだって、オレさまの方が、ほんの少しでも、優位じゃなくちゃ。

 人間なんてキライ。

 だって、オレさま以外、みんな、ばかばっかりじゃないか。

 

 

 

 ……なんていう人類を、いったいどうやっておとなしくさせたのか、そっちの方が、ずっとずっと知りたかったです。

 

 

 オーヴァーロードたちが支配する、新しい世界では、英語を話せない者は一人もおらず、誰もが皆、誰とでも、満足したコミュニケーションをもつことができるという、実に、絵に描いたような“ユートピア”が実現するのです。

 

 なんで英語?…と、正直、思いました。

 英語圏でつくられたお話ですから、仕方がないのでしょうけれど、もし私だったら、テレパシーとか、そういうたぐいのものの方が、いいのにな、と思いました。

 たとえば、互いに、手のひらをかざし合うだけで、気持ちが通じたり、会話が成立したりするなら、すてきなのに……。

 

 (なぜかというと、私は、口を開いて、声を発し、言葉を話すことに、しばしば、疲れを感じるからです。ああ、なんと、気力と力がいる動作であることか、そのくせ、こちらの言わんとすることが、きちんと伝わらなかったり、誤解されたり、あああ、コミュニケーションって、不毛すぎるっっ!……と、よく思います)。

 

 

 彼ら、オーヴァーロードたちの、本当の目的がなんなのか、物語の終盤にさしかかるまで明らかにされないため、物語全体に、不気味な影さしていて、緊張感があります。

 

 だからこそ、おしまいまで、面白く読めるのでしょうね。

 

 

 

何にも知らないのに……

 

 そして、さきほどの、円環的時間―あるいは、もっと他の、私たち人類が知りもしないたぐいの、“時間の流れ”―は、終盤、とても重要なはたらきをします。

 

 知り得ないはずの「未来」が、主要登場人物の中の、一人の女性―正しくは、その女性が将来産むことになる子ども―の口を借りて、あらわれるのです。

 

  あり得ない!と思いますが、前掲書によれば、人間が、過去のことは憶えていて、未来のことは憶えていない、というのは、当たり前ではなく、大きな謎なのですから、あり得ない話ではない、ということになります。

 

 しかし、問題は、それだけではありません。 

 

 私たちヒトは、驚くほど、ヒト、という自分たちそのものについて、何も知らなさすぎるのです。

 

 

 たとえば、主に視覚に頼って外側の世界を捉えている私たちに見えるのは、空にかかる、あの虹の波長の範囲だけです。

 人間には、この世界のほんのごく一部しか見えていないので、そういう意味では、ほとんど盲目のまま、この地球の上を、せかせかと、歩き回っているようなものです。

 

 よく、天才的なドロボーさんが、博物館とか、美術館とかに、貴重品を盗みに入って、編み目のように張り巡らされてるレーザー光を抜けて、まんまとお宝を手に入れたりしてますよね。

 もし、世界が、あんなふうに、実は、あちこち、隙間がないくらい、いろんなもので、“混雑”しているとしたら?

 ほんとうは、そこに何かあるかもしれないのに、見えないからといって、適当に、あっちこっちほっくり返してみたり、ぼこぼこ建物を建てたり、乗り物走らせたり飛ばしたりするのって、実は、この上なく大胆で、無謀なことなんじゃないかと、時々思います。