他人の星

déraciné

アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(3)―苦しい「個」の生は、いったい何のために?―

 

過ちは去りゆく………

 

 この間、何気なく、テレビ(いずれ去りゆく運命にあるじじばばメディア、と私はよく、パートナーに言っていますが)を見ていて、いまさらのように気がついたことがありました。

 

 そうか、「過去」とは、「過ちが去る」、と書くのだっけ………

 

 拡大解釈して考えるのならば、過去とは、間違いややり損じ、失敗の“金字塔”(決してすぐれた業績ではなくて、ちりあくたやヘドロの山ですが)であって、人類の過去、これすべて過ちなり、ということになります。

 

 不思議ですね。

 年を取ると、人はよく、「昔はよかった」、なんて言うようになるのに。

 

 私も、うっかり自動的に言ったり思ったりしてしまい、「どこが、昔はよかったんじゃい、このクソが」と自分で自分にツッコミを入れること、しばしばです。

 

 そうです。ヒトは、相変わらず、ずっと何も変わっていないのだと思います。

 

 チャウチャウ犬の(たぶん)、巨大なもりもり山盛りウ○コに、思いっきり片足を突っ込むような過去(私の実体験です)しかないにもかかわらず、どうして放っておくと、ヒトは、過去を美化したがるのでしょうか。

 

 その実、過去、という漢字に、「成功」とか「栄光」に関係する漢字を入れず、わざわざ「過」の字を当てて、「過ちが去る」としたのは、ヒトが、本質のところで、自分の生きてきた時間のほとんどに、自信をもつことができない生きものだからなのかもしれません。

 

 「これでいいわけがない」、「過ぎたことは仕方がない」、だから、「まだ失敗のない新しい明日から、今度こそ、本当に正しい、善き日々を送ればいい」、と、いつもいつも、繰り返し繰り返し、どこかで思い、願っている、ということなのでしょうか………。

 

 

 

「個」の終わりに待ち受けているものは

 

 さて、ここからは、またネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 子どものような人類をあやし、成長、成熟させるため、地球にやってきたオーヴァーロードたちは、その幼さ、未熟さゆえ、「間違いだらけの日々」から、一向に抜け出す気配のない(抜け出せない)人類を「救う」ことに成功します。

 

 憎しみや争いごと、不平不満から解放され、人類ははじめて、公平にして平等、平和な世界を手に入れ、幸福の中で暮らしています。 

 

 

 自分たちを、幸福に生きられるよう導いてくれたオーヴァーロードたちに感謝しつつ生きる人間たちの間に、やがて、“新人類”ともいえるような子どもたちが生まれてきます。

 

 彼らは、未来、というよりも、まるで時間の流れなど関係ないかのように、先のことを知ることもできますが、個々の感情やコミュニケーションをもたず、親である大人たちには理解できない、不思議なリズムで、他の子どもたちと同調し、親たちのもとを去って行きます。

 

 そんな子どもたちを理解できず、子どもから“捨てられた”親、つまり、もはや過去の遺物となった、“「個」であること”を、到底今さら脱することができない大人たちは、絶望し、自滅していくのです。

 

  けれども、その先には、いったい、何が待っていたのでしょうか。

 

 実は、オーヴァーロードたちは、宇宙の最上位に君臨する存在“オーヴァーマインド”―「巨大な燃える柱」―に仕える身であり、地球へ派遣されてきたに過ぎないのです。

 

 何のために?

 

 それは、人類、個々の人間を“個”から「解脱」させ、物質の限界を超えたエネルギーとなって、オーヴァーマインドと一体化させるためです。

 

 そうして最後には、天体として存在していた地球のすべてが、“新しい子どもたち”の後を追うかのように、彼らのメタモルフォーゼのためのエネルギーとして吸収されます。

 

 かくして、地球と、人類含むあらゆる生命体の「過去」は、永久に失われてしまったのです。

 

 

 

 私たちは、ヒトとして、この地球上に生まれ、歩みはじめたときから、当たり前に、「汝」と「己」を区別しています。

 

 人々が、人間というものを、「個」としてとらえる世界に、産み落とされたからです。

 そうして、ヒトは、「己」よりも「汝」、あるいは近しい第三者が得をしていると感じると、嫉妬や憎悪で、いてもたってもいられないほど苦しみます。

 

 “個”であること、すなわち、「私」はこの世に一人だけ、という感覚は、何かがうまくいったり、目的が達成できたり、欲するものが手に入ったりしたときには、満足や快感のもとになりますが、他方、ものごとがうまくいかない苦痛や悲しみを味わうほどに、「どうして『私』だけが」という七転八倒の苦しみを、たったひとり、孤独のうちに、いやというほど味わわなければならなくなるもとでもあるのです。

 

 

 私は、この『幼年期の終わり』を読んで、いちばん、じわじわとした消化不良のようなものを感じたのは、その点についてでした。

 

 

 思いどおりにならない、満たされない、決して叶うことのない思い、悲しみ、心の傷つきや痛み、悩みに責め苛まれてきたこの身を、いったいどうしてくれようか?

 

 単なる“苦しみ損”で終わってしまうというのでしょうか?

 

 

 たしかに、人間が“個”であるということは、決して「現実」などではあり得ません。

 

 ヒトの脳が、身のまわりの情報を処理するためには、まず、ものごとを区別・分別・判別しなければならず、そのため、ヒトやモノの物質的な境界線は、便宜上、脳(という、いわば幻灯機)によって生み出された「幻の」概念に過ぎないという事実は、本さえ読めば、知識として知ることはできます。

 

 けれども、それを知ったところで、いったいどうなるというのでしょうか。

 

 ヒトからヒトへ、子々孫々、脈々と伝えられてきた「世界の見方」は、私たちの体や脳のすみずみまで、深々と埋め込まれており(この埋め込みこそが、ヒトを人間にする養育や教育のプロセスといえるでしょう)、まるでパソコンのOSのように、あらゆる情報を処理、制御しており、このOSが破壊されたり失われたりしてしまえば、外界に適応して生き延びることはもはや不可能となるでしょう。

 

 

 最初に書いたように、もし、「過去」が、やり損じや失敗、目を背けたいような汚物にまみれた時の流れであって、「まだ失敗のない明日」、傷が癒やされ、思いや願いごとが叶い、すべて昇華されることを、この身のまま、たとえ祈るように夢見ても、何の意味もないのだ、としたら…………。

 

 

 罪を犯した罪人が、あとで支払わなければならない代償のように。

 年を取るからだと心を抱えて、生きることそのものが、刑罰であるかのように。

 

 

 生きることは、あまりに苛酷すぎると、私には、そうとしか、思えなかったのです。