他人の星

déraciné

『リリーのすべて』(1)ー「自分」でいようとすることが、どうしてこんなにも難しいのかー

 

「ごめんなさい」「すみません」は、最大の防御

 

 

  つい、一週間ほど前のことでした。

 

 バスの中で、女子大生が2人、そこそこの声量で(少なくとも、車内の人全員に、話の内容がすっかりわかるくらいの)、(マスクをして)、おしゃべりをしていました。

 

 「コロナのせいで、1年の時みたいに(ということは、大学2年生ですね)、自由に友だちと会ったり、ごはん食べに行ったりすることもできなくて、さびしい」

 

 「実家に帰るのは、いつも楽しいけど、いまは、こっちにいても一人だし、なおさら帰るのが嬉しくて、でもそれだけに、こっち戻ってこなくちゃならないのが、淋しくて、淋しくて。戻る二、三日前くらいから、もう、悲しくて」

 

 「家だと、お母さんがつくるあったかくておいしい食事食べて、みんなで話したりして、楽しいのに、こっち戻ると一人だから……」

 

 隣に座っている友だちは、しきりに、ああ、わかるわかるー、すごくわかるー、そうだよねー、と、心から共感している様子でした。

 

 「親の前で、泣く?」

 「ううん、泣かない。心配かけるし」

 「そうなんだ……。私は、泣いちゃう」

 

 そのとき、私は、思いました。 

 

 ……ああ、少なくともいま、互いに、ほんの束の間でも、淋しさを分かち合えて、よかったね、と。

 

 

 けれども、そのうちに話題は変わり、今度は、地元の方言のおかしさ、面白さの話になって、声量も上がり、笑い声も増えて、さらににぎやかになりました。

 

 その最中、一人の中高年女性が乗車してきました。

 

 運転手さんが、「新型ウィルス感染防止のため、車内でのおしゃべりはご遠慮ください」、と放送を流しましたが、彼女たちには、届いていないようでした。

 

 なんか、空気がぴりぴりしてきたな……、と、思ったときでした。

 

 さきほど乗車してきた中高年の女性が、席を立って、つかつかと、2人の女子学生のところへ行ったかとおもうと、鋭い声で、一言、言いました。

 

 「うるさい」

 

 女子学生は、黙りました。

 

 運転手さんは、その女性の声にかぶせるように、再度、先程と同じ文句を繰り返しました。

 

 「何とぞ、何とぞ」、という前置きを加えて。

 

 運転手さんというのは、とりあえず、そのバスの最高責任者ですし、「オマエ、ちゃんと注意しろよ」、という、客からの無言の圧力を、ずっと感じていたのだと思います。

 

 私もまた、「淋しさ」を分かち合うような話をしているときには、「よかったね」、と思いましたが、方言の話が盛り上がるにつれて、正直、耳障りだと感じるようになっていたのです。

 

 中高年女性が注意した瞬間、バスの中の緊張感は、最高潮に達し、そこから急激に、何かが急降下していったような気がしました。

 

 空気感が、その前後で、がらりと変わりました。

 

 私は、何か、ちょっとした騒動を目撃したときのような興味好奇心、そして、このできごとが、今後の彼女たちに、どんな影響を残すだろう、という気持ち、それに、中高年女性の声が、つららみたいに冷たく尖っていたので、自分の胸にまで、少し、刺さったような痛みも感じました。

 

 あるいは、彼女もまた、女の子たちの淋しさを聞いていたら、違っていたのでしょうか?

 

 いずれにしろ、解決しなければならないような、放置してもいいような、どっちつかずの問題が「片付いた」バスの中は、平穏に戻っていました。

 

 女の子たち二人は、降車するとき、運転手さんに、謝っていきました。

 

 ふと、思いました。

 

 謝らなければならないほど、悪いことをしてもいないのに、場の圧力によって“謝らせられた”人間は、おそらくその後、人間と人間社会への心の持ち方やかかわり方を、少し辛い方へ、少し“淋しい”方へ、軌道修正してしまうのだろうな、と。

 

 

 「ごめんなさい」、「すみません」、という言葉は、相手を黙らせます。

 それが自分の責任である、と認めて謝る人を、誰もそれ以上責めようとはしないでしょう。

 そしてそれは、謝罪を迫る人への“復讐”でもあると思います。

 

  以後、本心は、決して言うまい。

  私が本当は何を考えているか、どう思っているのか、私が本当はどういう人間であるかなど、決しておしえてやるものか。

  私は、おまえに対して、いつも、くもりガラスでいることにしよう。

  おまえは、おまえの姿を、私という鏡に映して知る機会を、永遠に失うのだ。

  ざまあみろ。

  ……………。

 

 

 

 ほんの短い間に、ころころ変わった自分の気持ち。

 たった一台のバスの中で繰り広げられた、たくさんの糸のもつれと駆け引き。

 乗客それぞれのなかに、渦巻いていた感情。

 

 

 帰り道、目的地のバス停で下車した頃には、あたりはとっぷり、暮れていました。

 

 私は、なんとはなしに、疲れを感じて、あと少しの道を、家へと急ぎました。

 

 

 

この上なく危険な、「私」さがしの旅

 

 このご時世、何でもかんでも「自己責任」、コロナにかかったのも「オマエの気のゆるみのせいだ」、「謝れ」、などと、本当のところ、どれほどの人が、まじめに本気でそう思っているのかは知りません。

 

 あの女の子たちのように、本当は、謝らなければならないほどのことをしてもいないのに(謝りたくもないのに)、「謝れば」場はおさまり、謝らなければ、もっと責められて、つるし上げをくらうのかもしれません。

 

 ずっと以前、私は、気を遣いすぎる上にもさらに念入りに気を遣う若い男の子に、「どうしてそんなに気を遣うの?」と、きいたことがありました。

 

 すると、彼は言いました。

 

 「あとでよけい面倒なことになるのを防ぐために、いま少しの面倒を我慢するんです」

 

 矢が、胸のど真ん中に刺さったような気がしました。

 

 

 

 人は、日常、自分で自分の感情や、行動の理由を意識もせず、あまり考えもせず、やり過ごしています。

 

 けれども、そのなかで、どうしてかわからないけれど、“そうせずにはいられない”ような、強い感情が湧きあがったり、ある行動に駆り立てられたりするとき、そこに、「自分」を感じるのかもしれません。

 

  ですが、この世は、あのバスの中に象徴されるように、たくさんの人の、たくさんの感情やその理由、事情や状況、利益不利益が、細い糸のように絡み合っていて、とてもではありませんが、自由には動けません。

 ほんの少しでも動けば、その糸で、どこかを切って血が出るか、悪ければ、首を絞めることにもなってしまうことでしょう。

 

 その「糸」で、何度も痛い思いをするうちに、人は、遅かれ早かれ、自分の天然自然をそのまま表に現せば、この世界に受け入れられないことを知り、どこかで妥協し、あきらめ、折り合いをつけていくのでしょう。

 

 それが、この世を、「この世にふさわしい人」として生きる術だからです。

 

 

 けれども、それでも、「あきらめきれない」何かを、どうしても放せない「私」がいたら?

 

 その道は、世界のどこかへ出かけていき、素晴らしい絶景を見たり、稀少なものを見たり、味わったり、いろいろな人と出会ったりして見聞を広めるような、「素敵に美しい」自分探しとは、似ても似つかないものになることでしょう。

 

 

 絡み合う細い糸は、いばらのトゲになり、あるべき「私」へ向かって、懸命に手を伸ばす「私」を容赦なく傷つけ、いずれ、その命さえ奪ってしまうかもしれません。