他人の星

déraciné

『リリーのすべて』(3)ーわたしの中の、“火掻き棒”ー

“あぁ、カン違い”

 

 漫画『サザエさん』の中に、とても興味深いエピソードがあります。

 

 カツオくんが、交通量の多い大通りに面した歩道を歩いていると、同じ学校に通う女の子に出会います。

 「ア!! 一組の岡さん」

 岡さんは、言います。

 「アラ このへんはじめてネ 案内してあげる」

 このとき、カツオくんは、自分の胸がドキドキしていることに気がつきます。

 そして、胸の内で、つぶやきます。

 「このむなぐるしさ……はげしいどうき 

じゃァ ボク 彼女を愛してたンだ………しらなかった!!しらなかった!!」

 すると、岡さんが言いました。

 「いき苦しいでしョ!はいきガスの一番ひどい交差点ヨ」

 カツオくんは、ホッとして、声に出さずに言います。

 「だろうな~ 好みのタイプじゃないもン」          

 

 そうです。カツオくんは、とても面喰いですから、カワイイ子にしか、興味がありません。岡さんは、その点からいえば、“カツオくんの好みではない”女の子でした。

 

 つまり、カツオくんは、本当は、ひどい排気ガスのせいで心臓がドキドキしていたのですが、その動悸を、目の前にいた女の子“岡さん”への、今まで気づいていなかった恋心のせいだと、誤って原因帰属してしまったのです。

 

 『サザエさん』には、ずいぶんあとになってから、科学的に解明されたり、説明できるようになった人間の性質について、鋭くえぐり出しているお話があって、しばしばギョッとさせられます。

 作者の長谷川町子さんは、きっと、人間に深い興味をもち、よくよく観察をしていた人なのでしょう。

 

 このエピソードは、後年、認知科学によって明らかになった、人間の感情と行動の関係を、よく現していると思います。

  

 私たちは、何かを選んだり、決めたりしたとき、それは「自分の意志」によるものだと考えます。

 そして、誰かや何かを「好きだ」(あるいは、「嫌いだ」)と感じたとき、「それはどうして?」と理由をたずねられれば、ほとんどの場合、明確な答えが返ってきます。

 

 ですが、それは本当でしょうか?

 

 答えは、「No」……である可能性が高いです。

 目に見えて明らかなものほど、あやしいものはありません。

 

 

 私たちは、家族や友人、あるいは、ぐるりとそれを取り囲む国や社会といったものの中で生きており、その意味では、否応なく、「社会的」に生きさせられます。

 この国では、大人になって働き始めると「社会人」と言いますが、変な言葉だな~と、常々感じていました。

 なぜなら、人間は、オギャーと生まれたときから、強引に「社会」の中に仲間入りさせられる「社会人」だからです。

 

 たとえ一人でいても、引きこもっていても、「社会」はいつもすぐそばにあって、ことの次第によっては、「ヤリをかまえて」、個人を取り囲みます。

 

 何かを選んだり、決めたり、「好きだ」「嫌いだ」と言った場合、私たちは、大抵、すぐにその理由を思いつき、自他に説明することができますが、それは、そうしたことには必ず理由があることが自明となっている社会に生まれたからです。

 

 それは、自分の選択や行動に責任をもたされる、厳しい「自己責任」の社会です。

 

 だからこそ、人間の「意識」は、無理矢理に、理由を捏造することさえあります。

 

 身体の生理的反応が意味する真の原因、自分の行動の、真の理由に、アクセスできないことなど、日常的によくあることなのにもかかわらず……。

 

 心臓のドキドキの本当の理由が「排気ガス」であるにもかかわらず、目の前にいる、決して好みではない女の子を「好き」なせいだと誤解したカツオくんのように。

 

 それは、稀なことでも何でもなく、私たちの社会が成り立つためには、個人が心の中で、気づきもせず、意識もせずに「嘘をつく」ことが、必要なのだと思います。

 

 自分が、どんどん嘘まみれになっていくことに、どれだけ耐えられるでしょう?

 

 もし耐えられなければ、「これは正しいことだ」、「自分は本当にそう思っている」という合理化、正当化という心の防衛機制を総動員して、嘘を何重にも塗り固める、という方法だって、用意されています。

 

 (ものごとを決めたり、判断したり、防衛機制で心を守ろうとするのも、無意識的潜在的意識という、心の中に存在する大海のしわざなのですが………。)

 

 

 内奥から響いてくる、声にならない声や、言葉にならない思い、煙のように立ちのぼってくる、確たる理由のない何かを理解したり、待っていたりするだけの余裕を、この社会はもちません。

 

 ものごとの真偽を問わず、とにかく「急いで」理由をつけ、振り返りもせず、ただひたすら走っていくことが、良いとか悪いとかの話をしているのではありません。

 

 人間社会というものが、人間個々人の心を、規格通りの定型の箱に入れ、次から次へと、効率的に処理することを前提としてできあがっている以上、夏目漱石が言ったように、誰もが「涙をのんで、上滑りに滑って」いかなければならないのです。

 

 

 

「たとえ命にかえてでも」

 

 さて、ここからは、再びネタバレになるので、ご注意ください。

 

 完全に「リリー」になれる道をみつけたアイナーは、早速、第一段階目の手術、男性器切除手術を受けます。

 けれども、主治医が言ったとおり、この手術の成功例はまだない時代です。

 

 手術後、「リリー」は、激しい痛みに必死に耐えます。

 

 ただそばにいて、見守るしかないゲルダとハンスも、(そしておそらく「リリー」自身も)、もうこれ以上、手術を受けるのは危険だと、わかっていました。

 

 けれども、彼女の希望は変わりません。

 

 「時が来たの」。

 

 やつれた、蒼白い顔の「リリー」は、とても静かに、喜びをかみしめるようにそう言いました。

 

 そして、第二段階目の手術、子宮形成手術にのぞんだ「リリー」は、ゲルダに寄り添われつつ、死んでいきます。

 

 

 リリー/アイナーを、そこまで駆り立てたものは、いったい何だったのでしょうか。

 

 アイナーは、女装した自分に恋をした、ナルキッソスだったのでしょうか?

 

 あるいは、幼い頃、ハンスからキスされて以来、女性になって男性に愛されたい欲求を、一度は閉じ込めたものの、どうにも止められなくなったゆえでしょうか?

 

 あるいは、ゲルダとの結婚生活の中で、「強くて美しい」彼女への憧れが、知らずに、アイナーの中に、消えない炎を宿すことになったのでしょうか?

 

 いかようにでも、「理由づけ」をすることはできるでしょう。

 

 けれども、本当のところ、リリー/アイナーにも、なぜこんなにも「女性になること」への憧れが、強く自分を引きつけ、自由にしてくれないのか、わからなかったかもしれません。

 

 もしかしたら、「女性になること」は、アイナーの中の、何か、もっと深くて真なる欲求が、たまたまそういう形をとって現れたにすぎないのかもしれません。

 

 

 アンデルセン童話の中の雪だるまは、ちらちら赤い炎を見せるストーブの中へ、入りたくてたまらない衝動に、死ぬほど苦しめられていました。

 なぜなら、彼の身体の芯には、“火掻き棒”があったからです。

 彼は、それを知らないまま、溶けて消えてしまいました。

 

 

 何かに強く心惹かれたとき、そこへ行きたい、近づきたい、あるいはそのものになりたいという、どうにもならない、ひどく不条理な衝動に、がんじがらめに絡めとられて、身動きができなくなることがあります。

 

 頭の中は、そのことだらけ、たとえどんなに苦しくても諦めきれず、ときには奇跡を願ったり、あるいは、「リリー」のように、たとえ命を落とすことになっても、このまま、「自分ではないまま」生き続けるくらいなら、と思うその姿に、私は、雪だるまの恋を重ねて見ずにはいられませんでした。

 

 自分の中の、“火掻き棒”がいったい何なのか、雪だるまと同じように、人は、おしまいまで知ることができません。

 

 気まぐれに、真剣に、ゆらゆらゆれて、輝いて見える赤い炎の中に、命などかえりみず、身を投じてしまいたくなるほどの何か。

 

 

 そうしたものは、大抵の場合、その人をひどく苦しめることになるでしょう。

 けれども………。

 

 分厚い雲の層を抜けて、空高く、まっすぐに飛んでゆこうとする、伝説の生きもののように。

 あるいは、遠く懸け離れた何かと何かの間に幻の橋をかけようとする、強い憧れ。

 

 そういうものを、どこかに隠しているのでしょうか。

 

 ならば、たとえ命をかけても惜しくはないと、時に人は、われ知らず、思うものなのかもしれないと、私は思ったのです。

 

 

 

                             《終わり》