他人の星

déraciné

『パラサイト 半地下の家族』(2)―自立?-

 

 

 「めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、なんだか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。」

                         ―太宰治人間失格

 

 

 少し前に、知り合いから聞いた話です。

 

 ある精神科に通院する主婦が、医師に、こう訴えたらしいのです。 

 「これから毎日、お弁当をつくらなければならないと思うと、死にたくなるんです」

   医師は、もちろん、本人の前ではそんなことは言わないでしょうが、別の患者である彼女へ向かって、ハハハ、とおかしそうに笑いながら、言ったそうなのです。

 「そんな患者もいるんだよ」

 

 彼女の表情は、かなしげにくもっていました。

 「わたし、その人の気持ち、よくわかるから…」

 

 精神科医、というのは、職業上、負のオーラをまとった人たちの話をどっさり、次から次へと聞いて、それにふさわしい薬を処方しなければならないのですから、いちいち共感したり同情したりしていたら、仕事になりません。

 心の治療専門家?ゆえに、心の問題に対して鈍感にならざるを得ない、という矛盾が生じてしまうわけです。

 ですが、その主婦に共感した彼女にしたら、自分の苦悩を否定されたような気がしたのだろうと思うのです。

 

 

 私も、よく、考えます。 

 生活。生活って、何でしょう?

 生活。生命を維持するための、あらゆる諸活動、でしょうか……。

 

 せっかくこの世に生を受けたのだもの、大切に生きなくっちゃ、などと、簡単にいえども、命ある限り、生活は、待ったなし、問答無用で襲ってきます。

 

 たとえ、大きな災害があっても。どんなに大切なものをなくしても。

 大切な人に、死なれても。

 

 生命を維持するためには、最低でも、食べ、眠り、排泄しなければなりません。

 そして、「健康」を心がけ、生をなるべく長引かせようとするのなら、なおさら、生活に気を配らなければなりません。

 食事は、栄養バランスを考えて、規則正しく三度。

 睡眠の量と質、排泄の量と質は?

 

 そうして、「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ」のです。

 

 要するに、最低限、生命を維持するにしても、生活を、なるべく安楽に心地よくするにしても、「ぜに」がなければだめなのです。

 そうして、「ぜに」を得るに、多くの人は、労働しなければなりません。

 

 

  ふん、そんな、生活の垢にまみれた人生なんて、ごめんだね!

 愛。それこそ、わが命を捧げるにふさわしい!

 

 ……などという人は、おそらく、(ロックスターのように)、遅くとも、27歳くらいまでに死んでしまうことでしょう。

 (逆に言えば、そうした短命のロックスターたちはつまり、“愛のみに生きた”人たちだったのでしょう、超絶カッコイイ~!!)

 

 かっこよくありたい、と憧れつつ、結局凡庸、フツーな(のラインにも達していない)私のような人間は、意味もわからず、「命」という“聖火”をともすトーチの重さに息も絶え絶え、でも、死ぬのもこわいので、そのトーチを捨てることもできず、ひいひい言いながら、たとえ鈍足でも、かっこわるくても、みじめでも、走り続けるしかないのです。

 

 

 毎朝、子どもと夫を送り出さなければならないであろう、その患者であるところの奥さんは、精神的に参っているにもかかわらず、青息吐息で、毎日、懸命に、お弁当をつくる。

 それも、白飯に梅干し一個の日の丸弁当とかじゃダメ。

 彩りもきれいに、バランスよく。(当世風に、見た目にも気を配って、いわゆるキャラ弁とか)。

 

 考えただけで、倒れそうです。

 

 

 『人間失格』で、葉蔵は、他の人の気持ちをはかりかね、輾転します。

 「めしを食えたらそれで解決できる苦しみ」、そんな、プラクティカルな悩みこそが、実は、自分などにはわかりっこないほど、最強の苦しみなのか?

 「しかし、それにしては、良く自殺もせず、発狂もせず」、「屈せず生活のたたかいを続けていける」、他の多くの人は、「道を歩きながら何を考えているのだろう、金?まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という言説は聴いたことがあるような気があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……」…………。

 

 彼は、自分以外の他の人が、いったい何を考え、何に苦しんでいるのかがわからないために、隣人と何を話したら良いのかもわからず、孤独の淵に沈み込むしかないのです。

 

 

 

 「自立」はお金で買える

 

 さて、話を映画に戻します。

 

 人はそれぞれ、異なる精神的身体的特徴をもっており、それゆえ、得意不得意や、向き不向きがあります。

 

 たとえば、あの大きい素晴らしい豪邸に住むパク夫人は、料理があまり得意ではなさそうです。

  けれども、彼女には、夫が稼いでくるお金がどっさりあるので、先々の生活の不安などこれっぽっちも感じる必要はありませんし、そのどっさりあるお金で家政婦を雇い、食事の支度をしてもらっています。

 むろん、炊事だけではありません。彼女は、お金があるおかげで、洗濯も、掃除も、ゴミ捨ても、自分でやる必要がありません。

 移動手段にしても、運転手がいるので、自分で車を運転する必要もありません。

 つまり、お金さえあれば、身辺生活の自立は、他の人がほとんどすべて引き受けてくれるのです。

 

 これが、炊事洗濯掃除ができないフツーの人は、「社会的に自立できていない」と、批難され、ゴミ捨てができなければ、社会のメーワク「ゴミ屋敷」などと言われるでしょう。

 

 たとえば、先にあげた主婦でも、もしお金があるのなら、毎朝のお弁当も毎日の食事も(しかも彩りも栄養バランスも素晴らしいものを)、家政婦につくらせればよいのですし、それで誰かから「自立していない」などと批難されることもなければ、精神科医に笑われたりすることもないのです。

 

 つまり、このご時世、炊事洗濯掃除、その他、生命を維持するための諸活動=生活を、たとえそれらについては幼児同然、何もできずとも、お金さえあれば、人並み、あるいは、人並み以上に「自立」しているとみなされるのです。

 

 自立、イコール、「経済的自立」とは、まさにそのとおりで、生命を維持するための諸活動を、すべて自力で行っているかどうかという内容の問題ではないのです。

 

 

 よく、災害の被災者や犯罪被害者に対して、「心のケア」が重要だ、などといわれますが、本当に必要なのはお金のケアであって、それは、実に都合のいいすり替えになっていないかと、私は常々思っています。

 

 生活の自立は、とても“プラクティカル”な問題なのに、ここだけ急に“心”をもちだしてくるのは、あまりに不自然すぎる、と感じるのは、私だけでしょうか。

 

 被災者や被害者を元気づけ、明日の生活に立ち向かう力を与えるのに、お金は相当な威力を発揮します。カウンセリングや向精神薬などよりも、ずっと。

 

 何せ、お金さえあれば、先々の不安や、襲いかかってくるまったなしの生活から防御してくれる、立派な盾を買えるのですから……。