他人の星

déraciné

『パラサイト 半地下の家族』(4)―どっちが“パラサイト”?―

「平和」はいつも犠牲者の屍の上に

 

 私は、子どもの頃からウルトラマンが大好きで、特撮シリーズに夢中になったまま、大きくなりました。

 

 中でも、今でも見るたびに、どうしても涙が出てしまう作品があります。 

 

 それは、『ウルトラマン』の第23話「故郷は地球」です。

 

 とある国の科学者「ジャミラ」は、国際宇宙開発競争が激化する時代、宇宙飛行士として、人類の科学の発展のために宇宙へ送り出されますが、予期せぬ事故により遭難、行方知れずとなってしまいます。

 ですが、科学のために人間を犠牲にしたことが明るみに出れば、大変な批難を浴びることとなるのは必至、そのため事実は隠蔽され、ジャミラの存在も、その犠牲も、“はじめから何もなかったことに”されてしまったのです。

 

 それから時が経ち、「ジャミラ」は怪獣となって、地球人類に復讐するために「帰って」来ます。

 水のない星に不時着したジャミラは、そこで生きていくために、長い時間をかけて、水がなくとも生きていけるよう、自分の体を順応させていった結果でした。

 

 科学特捜隊パリ本部のアラン隊員は、怪獣がジャミラであることを明かし、彼を「秘密裏に葬り去れ」、と科学特捜隊に命令します。

 折しも、日本では、国際平和会議が開かれようとしており、ウルトラマンは、水のない星に順応したがため、逆に水が彼の命を奪うことを知りながら、やむなく、ウルトラ水流で、怪獣となった彼を殺します。

 

 最期のとき、国際平和会議会場にゆれていた万国旗をへし折り、叩きつけながら(皮肉ですね)、泥と水の中でもがき苦しむジャミラは、怒りと悔しさと悲しみのあまり、赤ん坊のような泣き声(演出として、わざとその声にしたそうです)をあげて死んでいくのです。

 

 私は、この場面で、どうにも、涙が止まらなくなってしまうのです。

 

 なぜ、「故郷は地球」の「同じ人間」でありながら、誰かを“犠牲にする”側と、誰かに“犠牲にされる”側に分かれてしまうのか………

 その理不尽さが、あまりにリアルに描かれているからでしょうか。

 

  セレモニー的な、見た目だけの「平和」。

 そのために、ジャミラは、永遠に口を封じられてしまったのです。

 

 物語の中だけの話なら、どんなによかったでしょう。

 けれども、これが人間社会の現実なのだと思います。

 「平和」(特にセレモニー的な「平和」)というものは、大抵いつも、決して小さくはない、誰かの犠牲の上に成り立っているのです。

 

 

 

弱者にパラサイトする社会

 

  ところで、この映画のタイトルは、『パラサイト』=寄生となっていますが、それと似たニュアンスを持つ言葉に、「甘え」、「依存」があると思います。

 

 甘え、依存、寄生。

 この3つの意味について、ネット上の辞書からまとめてみます。

 

 甘え=相手の好意に遠慮無くよりかかること、慣れ親しんでわがままに振る舞うこと

 

 依存=他に頼って存在、または生活すること

 

 寄生=一個の生物が、他の生物についたり内部に入り込んだりして、そこから栄養を     

    取るなどして生活すること

 

 

 映画『パラサイト』は、表層の話の展開を、裏側からなぞるように、もう一つ、もっと深いテーマが潜ませてあるように感じたのです。

 

 たとえば、経済的に貧しく、半地下の狭い住居にしか住めないキム家は、パク家に全員が潜り込むーパラサイトーすることによって、(正当に自分の労働と引き替えに得たお金で)、生活の質の向上や、将来の希望を手にしようとします。

 

 けれども、この構造について、もっと視野を広げて見てみると、どうなるのでしょうか。

 パク家も、キム家も、様々な社会階層の中で生き、生活を営んでいる一家族として、物語という生地を編んでいくのに使われている糸の一本にすぎません。

 

  富裕なパク家は、(雇われている側という弱い立場にある)キム家の(何か不満を言ったり不手際があればクビになるので何も言えない)「好意」に遠慮無く寄りかかり、(雇い主だという強い立場にある)ゆえに、キム家の人々に対して、炊事洗濯掃除、買い物、車の運転、子どもの教育など、生活の自立のほとんどすべてを依存して生活しています。

 

 もちろん、富裕なパク家には、お金があるので、報酬をきちんと払うわけですが、それは、資本主義の仕組みがあるからこそ成り立つ取引きです。

 つまり、お金と引き替えに、キム家の労働エネルギーを、生活に必要な「栄養」として取り込み(寄生する)ことによって、パク家の生活は成り立っているのです。

 

 一時期、よくきいた「トリクルダウン」理論(上の杯が満たされれば、あふれ出た富のしずくは下の杯にも落ちてくる)は、陳腐な理想論にすぎず、上の杯が満たされれば満たされるほど、上の杯はどんどん膨張し、富をすべて吸収し、下の杯には、一滴たりとも落とさない、というのは、強者が強者であり、弱者が弱者であるがゆえ、でしょう。

 

 金力と権力の集中により、そこにあずからなければ生きていけない弱者が、何も言えないのをいいことに、強者が、いつ、いかようにも、弱者を無視し、場合によっては口を封じることができるのは、何も、いまにはじまったことではありません。

 

 いつの世も、同じでした。 

 

 上下関係や勢力関係、立場や地位、腕力、権力や金力にものを言わせて、相手が弱者であるゆえ、何も言わない・言えないのをいいことに、その権利を奪い、搾取し、その分の利益を、(たとえその自覚がなくとも)自分のものにすること。

 

 これを、「パラサイト」と言わずして、何というのでしょうか。

 

 もう一つ。

 これも、どの時代、どの社会にもほとんど言えることですが、強者が(多くはそのありあまるほどの富によって)何かに依存したり、パラサイトしても何も言われませんが、弱者が依存したりパラサイトしたりすると、途端に、「自助努力が足りない」「自立しろ」などという、自己責任論が出てくるのも、やはり、強者が強者で、弱者が弱者であるがゆえ、ということなのでしょう。

 

 

 強い者をいじめれば、あとで大変なことになりますが、弱い者をいじめたって、何も困ることはありませんものね。

 

 

 映画のラスト、パク氏を殺してしまったギテクは、警察の手を逃れ、パク邸の地下に隠れることに成功します。

 重傷を負った息子ギウは、回復後、パク邸を見おろすことができる山へ登り、ちらちらと、地下から発せられるモールス信号により、父がそこにいることを知ります。

 

 そして、誓うのです。

 

 自分は、たくさんお金を稼ぎ、きっと、パク邸を買う、と。

 そうする以外に、父ギテクを救う手段はないのです。

 

 背景に、経済的格差の問題が介在している事件の「加害者」(社会的には「被害者」)である父の救済手段もまた、「お金」しかないとは、なんという皮肉でしょうか。

 

 そうして、その誓いを現実のものとした日には、キム家もまた、お金で自立を買い、自分たちよりも弱い者に「パラサイト」できる身分となるのでしょうか。

 

 

 

                               《おわり》