他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(1)―「あの日の夢を、花束にして」

 

 「人間同士の信頼感を利用するとは、恐ろしい宇宙人です。でもご安心ください、このお話は遠い遠い未来の物語なのです。え?何故ですって?我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから」

 

                  ―『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」

 

 

 

  「♪あれから、ぼくたちは、何かを信じてこれたかなぁ…♪」と、思わず、何だったかの曲の歌詞を、思い出します。 

 

 そうですヨ、奥さん!←ここらへん、昭和っぽくね。

 ド派手な原色カラーのボディに、サイケなデザインの、超クレバー宇宙人、メトロン星人と、ウルトラセブンことモロボシダンが、昭和のぼろアパートで、ちゃぶ台囲んで話し合う、シュールなあの回ですよ、あの回!

 

 話を簡単にまとめれば、地球人を滅ぼすなんて簡単だ、人間同士の信頼関係さえめちゃくちゃにしてやれば、勝手に自滅する、と考えたメトロン星人が、自販機のタバコに宇宙ケシの実をひそませ、それを吸った人間は、急に凶暴になって、女をタコ殴りにしたり、街中で銃を乱射したり。

 メトロン星人の思うツボ、みな、疑心暗鬼になって、世の中ぎすぎすしていくのですが、そのメトロン星人をして、「唯一こわい」と言わしめたウルトラセブンが登場し、メトロン星人はあっさりまっぷたつ、ああよかった、よかった……ではなくて、最後に流れるのが、冒頭のナレーション、というわけです。

 

 やだなァ、もォ、ほんとのことばかり言っちゃって……。

 

 

 子どもの頃の記憶など、曖昧なものです。

 手足のびきって、無駄に年ばかり重ね、「大人」になってから見たとき、(ナレーションの言葉に、頭をナイフで切り落とされた気がした、ということの他に)、映像のもつ雰囲気に、何だか、じわじわと、胸にこみあげてくるものを感じました。

 

 畜生。なつかしいぜ。なつかしすぎる……

 

 でも、どうして?何が?

 

  その「どうして?」「何が?」にはっきりと気づかせてくれたのが、実は、『新世紀エヴァンゲリオン』というテレビアニメーションだったのです。

 

 ウルトラマンウルトラセブン。そして、エヴァンゲリオン

 それらを見て、じわじわと胸にこみあげてきた、あの感情の正体が、「ノスタルジィ」、「郷愁」である、ということ。

 

 少なくとも私にとって、郷愁を感じる風景というのは、田んぼや畑、森林や、澄んだ空が広がる、人間がつくった「田園風景」ではありませんでした。

 

 昭和高度経済成長期。

 きれいな青空だけを、写真に撮りたくても、どうしても写り込んでしまう、縦横無尽に張り巡らされた電線。

 道の両脇に立つ電信柱と、地面に伸びる長い影。

 もくもくと、工場からたちのぼる煙にかすむ、あかね雲を背に、やつれ顔の日本。

 そして……。

 どこから来て、どこまで行くのだろう?

 踏切りに立てば、線路づたいに、ずっとずっと、どこまでも歩いていけそうで、歩いていきたくて。

 でも、危険だから、あぶないから、絶対そんなことしちゃいけない(できない)、血管みたいに張り巡らされた線路。

 

 駅のホームに立ってると、何だか、ふらりと、落ちてみたくなるような、でもそんなことしたら、世間の大迷惑、人身事故になって、莫大なお金がかかるから、身内に復讐したい人は轢死するといい、みたいな辛口ジョークに、大笑いした(大笑いできた)、そんなむかしが懐かしい、そう、あの線路のことですヨ、奥さん。←ここも、昭和っぽく。

 

 

 私にとっては、それこそが、涙が出るほどなつかしい、郷愁を感じる風景だったのです。

 

 ちょっとかっこつけていえば、都市型無秩序の時代、とでもいえるでしょうか。

 

 駅前付近に、乱雑に置かれたたくさんの自転車とか、壁や電柱に、いつから貼られていたのか、貼ったら貼りっぱなしの、色あせて破れた広告とか、スーパーとかサービスエリアの、薄暗くて汚いトイレの、相合傘とか、卑猥な落書きとか。

 

 そういえば、出来立てほやほやのオフィスビルそばの一角で、知らないおじさんが、卵を産まないからいらないオスのひよこをよく売っていて、何度か、母に買ってもらって帰ったこともありました。

 可愛いのは、ひよこのうちだけで、少しでも大きくなると、エサの葉っぱをやった指ごと、くちばしで噛むし、早朝、大きな声で「クォケコォォー!!」と鳴くし、ああかわいくなくなったなぁ、と思いはじめた数日後には、いつも父がどこかへ連れていって、それっきりでした。(食べられたんだろうなぁ、どこかで…)。

 

 

 そういうものも含めて、きれいなものも、汚いものも、新しいものも、古いものも、全然相容れないようなもの同士が、雑然として、一緒に、同じ風景の中にとけ込んでいる、ある種の“自然さ”が、とても懐かしく感じるのです。

 

 それは、人間そのものをあらわしていたから、かもしれません。

 からだもこころも、「きれい」になんか整っていなくて、渾沌としていて、いわゆるエントロピーが増大した状態(専門じゃないのでよく知りませんが)、とでもいうのでしょうか……。

 

 人間は生き物、ナマモノなので、放っておくと、どうしても怠惰になり、無秩序になってしまいます。

 たとえば、生活態度がだらしない、とか、時間を守れないとか、片づけられない、とか。

 けれども、その、とても人間らしい無秩序を嫌う、裏切り者がいるのです。

 それが、誰しも頭蓋骨の中に1個ずつ飼っている、あの「脳」です。

 

 秩序といえば自然、特に、天体がもっているような、規則的な動き、つまり「秩序」にあこがれ、そこに“美”を感じ、懸命に、そこへ近づこうとしてしまうのです。

 

 

 さて、近年では、私たちの中の裏切り者が、ますます勢力を拡大中のようで、「ロハス」(もう古い?)だとか、断捨離だとか、「都会のモダン邸宅」などといわれるものは、雑然とした様子を嫌い、より無機質っぽく、モノは少なく、家電のデザインは無地が主流(花柄ポットはもう古い)になってきました。

 

 

 そしてある日、とうとう、シンジくんが、こう言うときが来たのです。

 「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」。

 

 「さよなら?……それは、もうこれっきり、キミに会えない、ということなのかい?」

 

 私は、心の中で、自然に、カヲルくんの、あの、さらりとした、風のような声で、たずねていました。

 

 「……そうか。ついに、そのときが来てしまったんだね。」、と。

 

 

                                  《つづく》