他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2)—「大人になんか、なりたくないよ」

 

 

 

  「大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。……見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。」

                           太宰治 『津軽

 

 

 

 

 私は、すでに5歳にして、もっとも自分が理想とし、憧れる生き方をしている人に出会いました。

 

 それは、叔父でした。

 

 女ばかりの母のきょうだいの、たった一人の男で、いちばん末の弟だった叔父は、結婚することも就職することもなく、自分の母親であるところの祖母の家に暮らしていました。

 

 料理上手な祖母の料理を一日三食食べ、布団は万年床、四畳半の部屋いっぱいに、鉄道模型ジオラマをつくり、気が向けば、木工細工をしたりして、お酒が好きな人でした。

 

 祖母は、そんな彼の手仕事ぶりを、「たいしたもんだ」、といつもほめていました。

 

 けれども、叔父の姉であるところの私の母も、父も、叔父のことを、「困ったものだ」、としか見ていませんでした。

 私より7つ下の妹は、子どものとき、叔父のことを、「なあに、この人。男の人なのに、一日中家にいて。」と思ったそうです。

 

 おそらくは、父や母、妹の見方の方が、「ふつう」なのでしょう。

 

 けれども私は、幼稚園から祖母の家に寄ると、いつも布団の上でごろごろしている叔父を見るだけで、なぜかとても楽しく嬉しくなって、叔父がいるにもかかわらず、自分もふとんへ飛び込んでいきました。

 

 叔父が、言葉を明瞭に話せない障害をもっていた、ということにすら、私は、気づいていませんでした。

 ずいぶんあとになって、妹が指摘したことで、「そういえば、そうだったかな」と思ったくらいでした。

 

 私も、話し言葉が得意ではなかったからかもしれません。

 

 子どもの頃の私が、なぜ、何をそんなに嬉しく思ったのか、よくはわかりません。

 ただ、私は、幼稚園だの、学校だの、時間を決められて、そのなかで、きちんきちんと、決められた予定なり課題を、ほぼ強制的にやらされることが、とにかく窮屈で、いやだったのです。

 

 簡単にいえば、なまけもの、ということになるでしょう。

 

 幼稚園で、こちらの気持ちも気分も無視して、お絵かきだの、お遊戯だの、面倒な人間関係だので、子どもなりに、くたくたへとへとになって、その目で、叔父が、布団の上で、気ままに寝たり起きたり、のんびりすごしているのを見て、「ここは天国だ!」と感じたのかもしれません。

 

 何より、叔父が、叔父のままでいることを、祖母は、責めることもなく、おおらかにかまえて、認めてくれていたのです。

 

 私の家の空気が、いつもどこか緊張していたせいでしょうか。

 祖母の家に流れるゆったりとした時間と、叔父や祖母の穏やかな表情に、ほっとしていたのかもしれません。 

 

  

 母は、ことに、身内であるゆえか、叔父のことを恥ずかしく思っていたらしく、「落伍者」、「人間失格」とまで言っていました。

 

 もちろん、生い立ちをともにしてきた中で、きっといろいろなことがあったのだろうと思います。

 

 けれども、ものごころついて、最初に私が「いいなあ」、と思った生き方をしていた叔父を、両親が否定し、よく思っていないのを感じたことによって、私は、人生初の挫折を味わいました。

 

 「家庭は社会の縮図」、とは、よく言ったものだと思います。

 

 いいな、きれいだな、こんな絵を私も描きたいな、と思ってながめていた絵を、目の前で、びりびりと、無惨に破かれたようで、強い不安と恐怖を感じました。

 

 この世は、そんなにもおそろしく、厳しく、さびしく、何より、自分でいてはいけない、冷たい場所だということなのだろうか……。

 

 

 結婚もせず、就職もせず、外へも出ず、もちろん他人と交流もせず、経済的にも、身辺的にも自立していないこと。

 生産的な存在たりえず、何の、誰の役にも立っていないこと。

 

  父と母、妹が示した拒絶と嫌悪感は、そうした叔父の生き方が、社会一般の価値観に照らして、決して望ましい生き方ではなく、「他人に迷惑をかけ」、「面倒をかける」、自立した「大人」の生き方ではないことを、私に教えたのです。

 

 

 

「面倒だから、手間をかけさせるな」

 

 映画の冒頭、シンジが連れてこられたのは、“ニアサー”で死んだかとばかり思っていた、シンジの同級生、トウジとケンスケのいる、農村共同体(!)でした。

 

 しかも、彼らはすっかり、「他人の役に立つ」「仕事をしている」大人になっていました。

 

 トウジは、もう、「あの筋肉バカ」(テレビ版でアスカいわく)ではなく、独学で医者になり、クラスの委員長だったヒカリとの間に、ツバメ、という子どもまでいます。

 

 ケンスケも、あの頃の「ひとり戦争ごっこ」を卒業し、今では、村を守るための重要な仕事に就いています。 

 

 対照的に、世界を破滅させ、目の前で、自分のせいでカヲルくんが凄惨な死を遂げたのを見て、いつまでも立ち直れず(ふつうに考えたら、むしろあたりまえじゃないでしょうか)、何もせず、いじいじ、うじうじするシンジの「ガキっぷり」が目立ち、アスカからは、「ガキに必要なのは、恋人じゃなくて母親ね」、アヤナミからは、「碇くんは仕事しないの?」と責められる一方なのです。

 

  

 もし、人が「大人になる」とか、何らかの変化がおとずれることがあるとした場合、当然のごとく、他者との関係、とくに摩擦のなかで、それが徐々に起こっていく、ということになるでしょう。

 

  エヴァの世界で「大人になる」とは、自分にできることを自らみつけ、人を信じて積極的にかかわり、他人や共同体から必要とされ、役に立つ「生産的存在」となることのようです。

  そうした「大人」像は、今回はじめて示されたものではなく、テレビ版、旧劇場版を通して、一貫して示されてきた大人像であり、結びとなる新劇場版で、さらに明確に提示されたといっていいでしょう。

 

 ですがそれは、本人の気持ちや状況はどうであっても、他人から見たときに「手間のかからない」、「面倒をかけさせない」、「都合のいい」、「害のない」、「扱いやすいやつになれ」、ということに他ならないのではないでしょうか。

 

 

 自分勝手な期待をしても、他人は、こちらの思いどおりに動いてくれるわけもなく、特別扱いしてくれるわけでもなく、自分と相手は仲間だ、同じ側の人間だ、と思っていても、時と場合、状況によって、人の言動は左右され、思いもよらない影響や結果を招き、「ああ、裏切られた」、といやになるほど痛い思いをしても、人はそんなに元気で前向きでい続けられるものでしょうか。

 

 そんな“裏切り”を繰り返し経験するうちに、(人が学習する生きものであるがゆえ)、すっかり懲りて、用心深くなり、相手やまわりの人の反応や空気をうかがい、本音を言わないようになり、心の扉に、何重にもカギをかけ、簡単に心を開かないようになるのです。

 

 テレビ版で、14歳のケンスケが、「勝てないケンカする奴は馬鹿なの」という名言を残しています。

 いくら、相手との間に信頼を築き、心を開いてかかわりあいたくても、現実は、赤木リツコが言ったところの、“ヤマアラシのジレンマ”が関の山です。

 相手を信じすぎ、近づきすぎれば、互いの個性というトゲで傷つけ合い、かといって、用心しすぎて離れてしまえば、互いの熱で温め合うことができない、というあの葛藤です。

 

 人と人との間に存在している壁や、深い溝をなくそう、越えてみせようとすること自体、「勝てないケンカ」をするようなものであって、だからこそ、“大人とは、侘しいもの”なのではないでしょうか。

 違う人間である以上、相手と融けあうこともできず、それを明らめて、遠慮がちになり、相手との間に、自分も相手も傷つかない、適切な距離をおこうとするようになるのです。

 

  

 何か大切なものをうしなったり、おそろしい思いをしたりして、落ち込んでいる人を、最初は誰も責めはしません。

 けれども、いつまでも落ち込んでいて立ち直らず、いじいじ、うじうじしている人に対しては、「いい加減にしろ」、と、徐々に、手厳しくなってきます。

 そういう人を見ていると、だんだん不愉快になってくるし、辛気臭くて、ウザくて、めんどうになってくるからではないのでしょうか。

 

 落ち込んでいるから、落ち込んでいる様子を見せる。悩んでいるから、悩んでいる様子を見せる。苦しんでいるから、苦しんでいる様子を見せる。

 そういう本心の暴露を、自分が自分のままであり続けようとするための心の闘争を、いつまでも闘うようなやつは、自立も成長もできない「ガキ」扱いされて終わりだとしたら、かなしすぎると、私は思うのです。

 

 だったら、大人になんか、なりたくないよ、ならなくていいよ、と………。

 

  

 現実には、他人との融合の不可能性を明らめ、遠慮がちになった淋しい「大人」たち、そして、その不可能性を、自らの心の葛藤もろとも抑圧し、人の役に立つ「生産性」をアピールする「大人」たち、きっと、いろいろな大人たちが歩いていて、知らずにすれ違っているのでしょうね。

 

  

 

 

                                  《つづく》