他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(3)―「彼女が農作業着に着替えたら」

 

アヤナミが、農作業着なんか着ちゃったら、おしまいですよ、そりゃ。

 

水着なら、ともかくも………。

綾波には、やっぱり白が……)

 

 

 

新しい“自然”—都市型無秩序

 

 繰り返しになりますが、私がウルトラマンや、ウルトラセブンに感じていた郷愁がいったい何だったのか、その正体をおしえてくれたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』、という、テレビアニメでした。

 

 その、新しい「自然」「故郷」というものは、いわば、都市型無秩序、とでも言い換えられそうな景色でした。

 

 戦後の、高度経済成長期。もくもくと、工場から立ちのぼる、灰色の煙。

 

 電柱と、電線とに仕切られ、不自由になった空。

 

 どこまでも行けそうに見えて、そうではなく、いつまでもどこまでもどうどうめぐりする、電車と線路。

 

 人間であるがゆえ、人間本来の曖昧さ、無秩序さを忌み嫌い、人間そのものから外へ追い出し、それを、街の景色に転化していった結果生まれた、新しい「自然」への、ノスタルジィだったのです。

 

 

 …ちなみに、「郷愁」、というからには、今ではもうその景色も失われて、今度は、その無秩序や混沌が、街の景色や、あらゆる表層から隠され、奇妙にすっきりと片付いた無機質さにとって代わられつつあるようです。

 近年の家電のデザインも、昭和ちっくな「花柄」、とかじゃなく、ごくごくシンプルなものになってきていますよね。

 

 

 けれども、人は、生きている以上、有形無形、様々な意味での“ゴミ”を出さざるを得ず、それはたとえば、心や内面のどろどろであったり、家や街がモノでごちゃごちゃしているような“片付かなさ”なのですが、いまでは、それすら「見た目が汚い」と忌み嫌われ、隠されて、はじめから無かったかのように抑圧されてしまっていることが、実は少し、気がかりなのです。

 

 

 そういうごちゃごちゃ、ごたごたは、むしろ、顕在化、可視化しておいた方が、何かが起ころうとしているとき、対処しやすいと思うのですが、隠されてしまうと、何もわからなくなるので、“不意打ち”をくらうことになるのではないか、と………。

 

 

 

“意図せざる再帰

 

 「今や、あなたはその土地にのろわれている。………あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

                                                          『創世記4-11-12』聖書

 

 

 

 映画の冒頭、絶望してよれよれのシンジが、アスカに連れてこられたのは、「みんな笑顔」、「みんないい人」、「みんな働き者」の、農村共同体でした。

 

 私はそこで、胃液が逆流するような不気味さを感じたのです。

 (簡単に言えば、「ゲッ」、という感覚です)

 

 

 精神分析創始者フロイトは、ホフマン作の『砂男』をもとに、“不気味”、という感覚について、こんなふうに分析しています。

 

 それは、「抑圧を経験しながら再び抑圧から立ち戻ってきたなつかしくも故郷的なもの」であり、どこか家庭的な雰囲気を帯びており、たとえば「濃霧によって大森林で迷子になり、くり返し同じ場所に戻ってしまう」ような、「意図せざる再帰」、として説明できるようなものです。

 

 わかりやすくいえば、最初にいた場所(おそらくそれは、アダムとエヴァがいた楽園のようなものでしょう)を追われ、永遠に失われたその場所を、記憶の奥に、鍵をしめて閉じ込め、無いことにしたはずなのに、なぜか急に、目の前に現れる。

 

 それが、“不気味”、という恐怖を感じさせる、ということなのです。

 

 

 14歳の頃のトウジは、テレビ版では、使徒化してしまうエヴァ3号機に乗り込むことになり、エヴァでの戦いで自分の妹に大けがを負わせたシンジを許せずぶん殴った、という自分の過去との、複雑な葛藤が描写されていました。

 

 ケンスケは、戦争ごっこをしつつも、それが何の意味もない戯れ事にすぎないこともよく知っていて、様々な意味での強者に対しての、自分の無力さを明らめていました。

 

 そして、ヒカリは、思いを寄せるトウジのためにお弁当をつくったり、エヴァでの戦いに勝てず、自尊心ズタズタのアスカが、自分の家に入り浸り、朝から晩までゲームをしているのに文句は言わずとも、内心では迷惑に思っている、ごくふつうの女の子でした。

 

 少なくとも、1995年に放映された、テレビ版で、彼らはそれぞれに、自分自身や他人に対しての複雑な感情や葛藤を抱えていたわけです。

 

 

 ですが、今回の劇場版に関していえば、それらはすべてなかったかのように、彼らはすっかり好人物の、さわやかな大人になっているのです。

 

 

 たとえば“委員長”ヒカリは、いまや、トウジの良き妻、愛娘ツバメの良き母であり、突然訪れてきた、昔の姿のままのシンジやアヤナミを歓迎し、特に、(仮称)アヤナミレイを「そっくりさん」、と呼び、喜んで迎え入れます。

 

 そして、アヤナミが、初めてきいた言葉を、まるで子どものように、いちいち説明を求めるのに、イヤな顔一つせず、にこにこ笑いながら、優しく、明るく、応えてくれます。

 

 それだけではありません。

 

 畑仕事をするおばちゃん軍団は、何も知らないアヤナミに、「汗水垂らしてはたらく」ことをおしえ、かわいい、かわいいと言っては、いろんな服を着せまくったり、とにかくよく構うのです。

 

 誰一人、彼女が何も知らないのも、慣れない田植えを失敗しても、仲間はずれにしたり、文句を言ったりもしません。

 

 その間、対照的に、ずっとどん底にいて、動きも食べもしないシンジに対して、アスカは手厳しく責め、アヤナミさえも、「碇くんは、仕事しないの?」と言いますが、大人になったケンスケが、彼を優しく見守ります。

 

 

 誰も仲間はずれにしない。誰もひとりにしない。

 みんな笑顔。みんないい人。

 

 それが、私には、あまりに“不気味”だったのです。

 

 田園風景(ジブリっぽい!!)だけではありません。

 

 まるで、ホフマンの『砂男』に出てくる、美しい自動人形オリンピアさながら、リアルさが、感じられないのです。

 

 再び、フロイトの言葉を借りていえば、「みかけは生きているように見える存在に実は生命がないのではないかという嫌疑、あるいは逆に、生命のない物体がなんだか生きていそうな疑い」です。

 

 もうすでに死んだか、あるいは、そんなユートピアのようなものは、人間の妄想の中にしかないにもかかわらず、まるで生きているかのように存在している不気味さ、でしょうか。

 

 そして、その“不気味さ”は、同時に、観る側である、自己存在にもふりかかってきます。

 

 そうした笑顔や明るさ、強い仲間意識と連帯感からは、暗に疎外され、抑圧されている、例えば、「人間らしい」激しい感情の爆発や、癇癪、場合によっては、精神錯乱、正気と狂気のはざまを綱渡りするような人間は、命がない存在にさせられてしまうのではないのか?

 

  

 失われたはずの、もう二度と戻れない、(そして、戻るべきではない)“楽園”の、突然の出現、そこへの再帰に、私は思わず、背筋が凍るほど、ぎょっとせずにはいられなかったのです。

 

 

 

                                 《つづく》