他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(4)―「僕たちの、失敗」

 

 

「何十日も仕事して、その持久戦に耐えていくあれがなくなって。だからしんどくなってきて。あの状態で生きていこう思ったら、誰か他人でも親戚でもね、僕がその時点でも思っとったんやけど、十二万円の障害年金渡すから、上げ膳据え膳でずっと一つの部屋にかくまってくれるような人間がもしおったら、生きとったと思うけどね。」

  岡江晃 『宅間守精神鑑定書ー精神医療と刑事法のはざまでー』亜紀書房 2013年

 

 

 

“極限環境微生物”

 

 今回の新劇場版で、私が、いちばん気持ちをゆさぶられたのは、実の息子・シンジへ向けて語られた、碇ゲンドウの、初めての内面の告白でした。

 

 ゲンドウは、幼い頃から、人間の集まる場所が苦手で、本ばかり読み、誰とも交流をもとうとしない、孤独な青年でした。

 それというのも、本来、人間というものが、ひどく曖昧かつ不確実、無神経、無責任な存在だからであり、「その時は、本当にそう思った」か、あるいは、「心にもないのにその場の流れで」、コミュニケーションするからです。

 

 彼にとっては、そのコミュニケーション自体、というよりも、その場かぎりでころころ変わる、相手の言葉なり素振りにふりまわされ、自分の心が動揺し、かき乱されることが「しんどかった」のではないのでしょうか。

 

 相手は、たいして考えもせず、意識もせずに何かを言ったり、しぐさや目つき、表情を変えたり、行動したりするのでしょうが、それをいちいち真に受けてしまうような人間は、どうなるのでしょう。

 

 たとえば、それが、相手の自分への敵意や悪意からではないのか、と疑心暗鬼になったり、あのときの、自分の視線が、しぐさが、行動が、相手を不愉快にさせたのではないか、果ては、じゃあ、相手にそう取られないよう、「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」と、頭の中で、勝手に、エンドレスぐるぐる思考がはじまるのです。

 

 これではもう、頭が疲れてしまい、神経がすっかりやられて、とてもではありませんが、日常生活に(まして、対人関係に)対処することはできなくなります。

 

 

 けれども、そんなゲンドウに、転機がやってきます。それが、ユイでした。

 彼女は、ゲンドウを、ありのままに受け入れ、包み込んでくれた、まるで聖母のような女性でした。(そんな女性は、現実には存在しませんが)。

 

 ですが彼女は、エヴァ起動実験中の不幸な事故によって、死んでしまったのです。

 

 もともと居場所がなく、世界への期待をもたずして生きていた人間が、一度抱いた希望は、救いようもなく膨張し、行き場を失って、この世に希望があるなどと思いもしなかったむかしよりも、さらに苦しむことになります。

 

 自分を受けとめてくれた存在を喪ったゲンドウの心は、まるで迷子になった子どものように、ユイを求めて嘆き、泣き叫びます。

 それが、実の息子だけでなく、大勢の人を巻き込んだ、とてつもなく自分勝手ではた迷惑な行動へと、彼を駆り立てたのです。

 

 ただ、ただ、もう一度、愛するユイに逢いたいがために……

 

 

 私は、そんな碇ゲンドウに、宅間守元死刑囚を思いました。

 

 彼はもう、(やっと死なせてもらって、楽になって)、この世にはいません。

 

 彼もまた、そのエンドレスぐるぐる思考の持ち主で、身も心もすり減らし、自殺を試みて失敗し、人間同士の和を基調としているこの世から疎外されて居場所をなくし、追い詰められて、あのような、悲惨な事件を引き起こしました。

 

 本を読む限りでは、よくそこまで生きていたものだ、と思うほど、彼の神経は、とうに限界を超え、すりきれてぼろぼろでした。

 

 冒頭にあげた、彼の言葉は本音だと思います。

 

 部屋を一つやる。おまえは、外へ出なくてもいいし、人と関わりをいっさいもたなくていい。めしのことも含め、命、日常生活の心配ご無用。安心して、ここにいていい。

 

 もし、誰かから、そう言われていたら………。

 おそらく彼は、尊い子どもたちの命を奪わずにすんだことでしょう。

 

 

 

人権思想が人権を蹂躙する

 

 しかし、「人権思想」、などという、見せかけのヒューマニズムが大きな顔でまかりとおっているいま、人を、ある種の“座敷牢”に一生とじこめておくことなど、不可能でしょう。

 

 かつて精神障害者の家族は、家に座敷牢をもうけ、そこに本人を一生閉じ込めておくことを、公然と許可されていました。

 当時、富国強兵を急ぐ軍国主義国家日本は、世の中の治安を乱しかねない人間を、家族に一生背負わせるという、最も安あがりな方法で、社会的に抹殺したかったのです。

 

 無論、個々の人間の尊厳を、社会全体の利益のために犠牲にしてしまうことには断固反対です。

 

 ただ、その一方で、画一的な人権思想ゆえに、多くの生物が生きられる“普通”の環境では生きられず、生息条件を極端に限った“極限環境微生物”のような、少数の人間の懇願の声―「私は日常がおそろしい、生活がこわい、外社会も、人間関係もしんどい、だから、どうか一生私を閉じ込めておいてくれないか」―が、かき消されてしまった、という現実もあったのだ、ということに、気づかせてくれたのです。

 

 

 昨今では、引きこもりの人たちを農業に参加させたり、人づきあいに不安を感じる若い人たちを、笑顔0円対人サービス不要の農林水産業への就職を斡旋したりしているようですが、そうした“お誘い”に、たとえ家族にすすめられてしぶしぶではあっても参加する人たちは、たまたま人間関係につまずいたことをきっかけとして、引きこもっただけで、環境さえ整えば、十分に、人の中で生きていける人たちなのかもしれません。

 

 

 けれども、人間に生まれながら、人の中でやっていくことのできない人も、本当にいるのです。

 

 人とやっていけないにもかかわらず、人間に生まれてしまったことを、何かの呪いか、罰のように感じる人たちが……。

 

 

 そうした人たちが、どのくらいの数かはわかりませんが、たとえごく少数であっても、確実に存在するのです。

 

 

 ウィキペディアで、「極限環境微生物」を調べてみると、こんなふうに書いてありました。

 

 「極限環境条件でのみ増殖できる微生物の総称、なお、ここで定義される極限環境とは、ヒトあるいは人間のよく知る一般的な動植物、微生物の生育環境から逸脱するものを指す。ヒトが極限環境と定義しても、極限環境微生物にとってはむしろヒトの生育環境が『極限環境』である可能性もある。」

 

  

  そうです。

 

 人間がよく知っている、ごく普通とされる生育環境とは、多数の生きものが生きられる環境のことであって、多数派から見ると、逸脱していて、異常な環境=極限環境と見えますが、「極限環境微生物にとっては、むしろ、ヒトの生育環境の方が極限環境」に見えるのです。

 

 あんな、不安定で不確実、曖昧で、あやふやで、無責任、無神経な、その場限りの関係やコミュニケーションの中で、いったいどうしたら、平然と、平静を保って、生きていけるんだ?

 そんな空気にふれただけで、僕なんか、もう、息もできなくなってしまうよ……。

 

 

 

 ヒトは、他の動物と比べても、外見にあまり大きな違いはなく、よく似た姿形をしています。それにひきかえ、内面は、想像以上に、多様すぎるほど多様なのです。

 

 けれども、それすら、ある種の“呪い”かもしれません。

 

 もし、外見からして、それとわかるような多様な姿形をしていれば、こんなにやっかいで、面倒で、煩わしい、しかも、あまりに残酷な現実におそわれることなど、なかったかもしれないからです。

 

 

 

                                 《つづく》