他人の星

déraciné

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(5)―「それでも、やっぱり、“エヴァ”が好き」

 

 

“親は、他人のはじまり”

 

 

 自分と、「世界」―多くの場合、それは、「他人」の存在に象徴されますが―との間に、どうしても感じてしまう、違和感。

 

 それを、「おそろしい」、「こわい」、「こころぼそい」、という感覚でもって、私が初めて意識したのは、たしか、まだ5歳くらいの頃のことでした。

 

 私は、小さい頃、体が弱く、よく高熱を出して、病院へ連れて行かれたのですが、その帰り道でのことでした。

 

 具合の悪い私を、なるべく早く家に連れて帰らなければ、と思ったのでしょう。

 

 母が、ふいに片手をあげて、タクシーを止めたのです。

 

 たったそれだけのことなのに、私は、ひどく驚いてしまいました。

 

 この世界で生きていく、ということは、あんなに速いスピードで走っている車を、自ら手をあげる、という気力と体力を使い、ほとんど無理矢理にでも止めて、そこへ(まったく知らない、赤の他人が運転する、得体の知れない乗り物に)、乗っていかなければならない、ということなのか……。

 

 こわくなったのです。

 

 おそらく、それまでにも、様々なできごとによって、うすうす感じていたのだと思いますが、決定的だったのが、そのできごとでした。

 

 そのとき、私は、親と、親の肩越しに見える“世界”から、はじき飛ばされたのです。

 そこから、「私はひとりだ」という感覚が押し寄せ、私を圧倒してしまうまで、さほど時間はかかりませんでした。

 

 

 私は、親になったことがないのでわかりませんが、親にとって子どもは、自分の一部のようなものなのかもしれません。

 

 私には、自分の心身の成長とともに、どんどんはっきりしていく、「私はひとりだ」という事実、つまり、「親とは違う、一人の人間だ」という私の主張を、親があまり喜ばない、ということも、感じ取って、知っていました。

 

 「きょうだいは他人のはじまり」、とはよくいいます。

 それはもちろんですが、私は、親こそが、「他人のはじまり」だと思います。

 

 親子には、血のつながり、情のつながり、つまり「絆」があるとか何とかいいますが、「絆(きずな)」とは、そもそも「絆し(ほだし)」のことで、馬とか牛とかをつないでいる、あの縄のことです。

 

 上下関係、というものは、上位のものにとっては、あまり意識されないことが多いようです。

 親子関係もまた、明らかに、力や勢力、立場の上で、上下関係に違いないのですが、それをわかっている親は、いったいどのくらいいるのでしょうか。

 

 関係に無頓着に見えて、好き勝手する側の方が、関係のゆくえを左右してしまうのが、人間関係というものです。

 

 誰が「馬や牛」なのでしょう?

 それを、縄でつないでおこうとするのは誰なのでしょう?

 

 自覚があるにしろ、ないにしろ、多くの場合、つながれるのは子どもで、つないでおこうとするのが親だと、私は思います。

 

 つまり、絆というものは、両者合意の上で、好き好んで“つながれ合っている”ことだと誤ってイメージされやすいのですが、決してそうではないのです。

 

 上に立つ者が、その縄を放したがらないことが、圧倒的に多いのでしょうか。

 

 

  “誰が、親と、縄でつながれていたいもんか!

  冗談じゃねぇ!”

 

 

 

“世界は私を愛さない”

 

 エヴァの世界観の軸になっていたのが、碇ゲンドウとシンジの親子関係であったこと。

 

 最後のエヴァンゲリオンを見て、あらためてそのことに気がつきました。

 

 ゲンドウは、人間嫌いですが、決して強い人間ではなく、自分と違う他人をおそれ、怯えていました。(ちなみに私は、強い人間よりも、弱い人間が好きです。人間らしいと感じるからです)。

 

 そうして、他人という、いかんともしがたい違和感や気持ちの悪さを、自分の息子であるシンジにも感じるからこそ、彼を、冷たく突き放したり、自分の思いどおりにしようとしてみたりするのです。

 

 シンジは、そんな父に、反発や憎しみを抱きつつも、父に自分を見てもらいたい、認めてもらいたいという執着でもって、“縄につながれ”、父ゲンドウのまわりをぐるぐるめぐっては悩んでいます。

 

 親が、他人のはじまりであって、世界が「ひとりの私」を受け容れてくれるのか、それとも、受け容れてくれないのか―愛してくれるのか、くれないのか―、そのいちばん最初の経験であるゆえ、それ以降の、人間関係へののぞみ方の雛型になるのです。

 

 そうして、この父子の物語は、息子のシンジが、父ゲンドウを、横暴な親ではなく、ただのひとりの人間として理解しようとしたとき、父の呪縛の縄から自由になり、「大人」になることで、大団円を迎えるわけです。

 

 

 風呂敷の、布の四隅を丁寧につまんでいき、最後にきちんと結ぶことができてはじめて、物語の世界がほころびなく「完結する」のですから、シンエヴァは、実に見事にそれをやってのけた、といえると思います。

 

 そして、布を包んでいく、その過程に、物語世界を創った「神さま」の、「人間かくあるべき」とか、「世界かくあるべき」とか、「大人かくあるべき」など、言いたいことや主義主張、思想、信条が色を添えていきますから、そこには、見る人見る人によって、賛否あって当然なのです。

 

 私自身、ここまで書いてきたように、そのへんでは、この物語世界の「神さま」の思想主義主張、信条には同意できませんでした。

 

 けれども、物語としての「エヴァンゲリオン」の閉じ方については、おみごと、としか言いようがありません。

 

 

 私は、物語の醍醐味は、自分の現実や日常を離れて、その世界の中に、まるで泥の中にでも埋まるようにどっぷりとつかり、登場人物に感情移入し、一緒に旅をして、帰ってくることができることだと思うのです。

 

 そうして、登場人物の、どうにもならない気持ちや悩み苦しみが、リアルに生々しく、こちらの胸をしめつければしめつけるほど、こちら側に戻ってきたときに、何かをやり遂げたような爽快感や、こちらの感情が浄化されたようなすっきり感があるのです。

 

 

 

 

“けれども、物語は私を愛してくれる”

 

 

 1995年。

 友人から、噂を聞き、ビデオで見たときから、私は、エヴァの世界に夢中になりました。

 つき合いが、こんなにも長くなったこともあるでしょう。

 シンジも、カヲルくんも、ゲンドウも、アスカも、ミサトさんも、現実世界の知り合いや友人などより、ずっと身近で、親密に感じられます。

 

 なかでも私は、綾波レイがとても好きでした。

 

 エヴァを見はじめた当初、綾波レイこそが、エヴァの象徴だと感じていたので、今回、シンエヴァでの綾波の扱いや存在感が、あまりに軽すぎたことも、決して小さくはない不満です。

 

 あんなふうに、渚カヲルと何となく一緒に駅のホームにいて、何となくのハッピーエンドではなく、もう少し何とかならなかったのか、と……。

 

 

 それというのも、私は、たとえ、真希波マリの言うように、「あんたのオリジナルは、もっと愛嬌があったよ」、であっても、私が好きだったのは、愛嬌があって、聖母のようなユイではなく、愛想もへったくれもないレイの方でしたから。

 

 だから、綾波もまた、碇ユイのクローンという縄から自由になり、きちんと救済されてほしかったのです。

 

 表情に乏しく、寡黙で静かな、謎めいた青い少女の、そのままで。

 

 

 

 現実、結論をいえば、世界は私を愛さないのだと思います。

 

 無条件に受け容れ、許すことが「正しい愛しかた」であるのなら、そんなものは、この世に存在しないと、私は思います。

 

 人間は、神ではないのだし、人の世で、人が人を愛するのは、いつだって、「条件付き」です。

 

 

 そして、「私はひとりだ」、という事実には、とてもいろいろなものが混じり合っていると思います。

 

 とても悲しくて、孤独で、さびしくて、「ひとりなんて絶対イヤ」なのに、同時に、「ひとりでないのも絶対イヤ」なのです。

 

 それは、赤木リツコが言ったところの、“ヤマアラシのジレンマ”であって、生きている限りは解決しない、ずっとずっと、人の中で、押したり引いたりし続けなければならない、片付かない苦悩なのではないでしょうか。

 

 

 

 

      「キミはひとりじゃないよ」 とか

      そんな嘘は もう つかないで

      ただでさえ 悲しいのに

      もっと 悲しくなる から

 

      「絆だから」 と言った

      あの 紅い瞳の少女は きっと 命がけで

      世界(みんな)と つながれていたかった

      なぜなら 彼女の命は

      つながれていなければ ほんとうに 尽きてしまうから

 

 

      「キミはひとりじゃないよ」と 嘘じゃなく

      ほんとうに 言ってくれるのは

      物語 だけ

 

      人はみな 急いで 来て 急いで 去って行くから

 

 

      子宮から はじき出された あの日から

      「私は ひとりだ」 を抱え

      膝を抱えて 座ってる

      けれども 決して もとには戻れず

      戻りたいとも 思わない

 

      「心は 痛がりだから」 と

      あの 紅い瞳の少年は 言った

      人は こわがりで さびしがりだから

      となりにいて 愛してくれるのは

      物語 だけ 

 

      そう

      ライナスの 毛布のように

      お気に入りの ぬいぐるみのように ね

 

 

  

 

 

                            《おわり》