他人の星

déraciné

映画『象は静かに座っている』(4)

 

 

どうしてこんなことに……

 

 むかし読んだ漫画なのですが、誰の、何という作品だったか、覚えていません。

 とにかく、なぜか、その場面だけが、強く印象に残っているのです。

 

 ある女性が、キャットウォークのような、地上から少し高くて狭い通路を歩いています。

 何かに気を取られているか、考えごとをしている彼女は、たまたまそこにあった長いロープが自分の足に絡みついたことに気づかず、そのまま歩いていきます。

 

 実は、その狭い通路に、もう一人、男性が立っていたのですが、彼女は、気にもとめず、彼のそばを通り過ぎます。

 

 ところが、彼女が、自分の足に絡みついたとも知らないロープが、その男性の足にも絡みついていて、彼の両足首を締めあげ、彼女がそのまま歩き続けたせいで、ぴんと張ったロープの勢いで、彼は、下へ落ちて、死んでしまうのです。

 

 彼女は、まさか、一人の男性の死に、自分がかかわりをもってしまったなどとは、思いもせず、そこを去って行くのです。

 

 

 “怖い……”、と思いました。

 

 その男性の、あまりにもあっけない死は、どこからはじまっていたのでしょうか?

 

 直前のきっかけは、ぼんやり歩いていた女性ですが、そもそも、どうしてそんな高くて狭い通路に、ロープがごちゃごちゃと乱雑に置かれていたのでしょうか?

 

 それをここへ持ってきた誰かが、きちんと巻いておくひまもないほど、急いでいたのでしょうか?

 

 では、それほどまでにその人を急がせていた原因は、何だったのでしょうか?

 

 あるいは、その女性が、何にも気づかないほど、ぼんやりとしていたのは、なぜなのでしょうか?

 

 上司か誰かに、こっぴどく叱られたあとだったとか、恋人とのちょっとしたいさかいのあとだったのでしょうか?

 

 いずれにせよ、その男性の死は、誰も知らないうちに、遠くからひたひたと、少しずつ忍び寄り、引き起こされてしまったのです。

 

 

 

 一見して、何の関係もないように見えるものどうしの間に因果関係があったり、ちょっとした小さな現象が、思いもよらない大きな変化を引き起こすかもしれない、という予測不可能性については、それを表すいろいろな言葉があるようですね。

 

 例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」、という言葉があります。

 

             風が吹く

              ↓

           地面から砂埃が立つ

              ↓

       砂が目に入り、目を悪くする人が増える

              ↓

    (むかし、目の悪い人が就く職業であったことから)、

  三味線弾きを生業とする人が増え、三味線が多く売れるようになる

              ↓

    三味線をつくるには猫の皮が必要なため、猫が捕らえられ、

          往来から猫がいなくなる

              ↓

   天敵がいなくなり、ネズミがあちこちで桶をかじりまくる

              ↓

        桶がたくさん売れるようになる

 

 ……というようなことですね。

 

  これと似たような表現として、「バタフライ効果」という、洒落た表現もあります。

 こちらは、1972年、気象学者エドワード・ローレンツが、“ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を起こしうるか?”という講演を行ったのが最初、とされているようです。

 

 

 その場限りで終わってしまい、誰の記憶にも残らないような、何気ない、ほんの些細なできごとや変化が、最終的に、どんな大きな変化やできごとに行き着いたとしても、それはまったく、驚くに値しない、ということなのでしょうか……。

 

 

 

誰のせい? 

 

 映画『象は静かに座っている』では、高校生の少年ブーが、“アオミ”、という名称の、ビリヤードのキューを持っています。

 

 それは、彼の持ち物の中では、もっとも高価なもので、同じ集合住宅に住む高齢男性ジンが、「満州里の動物園に行きたい」というブーに同情し、お金をあげたときに、そのお返しとして、ブーがジンに贈りました。

 

 ビリヤードのキューは、ビリヤード、つまり、玉突きゲームの際に、球を突く道具なわけですが、ブーのもっていた“アオミ”は、私には、物語の核を担う、一つの象徴のように思えたのです。

 

 

 『象は静かに眠っている』は、4人の人物の、たった一日を追った、4時間にも及ぶ映画です。

 

 そのたった一日のうちに、彼ら4人―高校生の少年ブー、同級生の少女リン、ブーと同じ集合住宅に住む高齢男性ジン、さびれた町の不良たちのリーダー、チェン―、この4つの球が、どのような因果で、どう転がっていくかが描かれているともいえると思います。

 

 たとえば、ブーと同じ集合住宅に住んでいる高齢男性ジンの一日をみてみます。

 

 彼はその朝、子どもの教育のために有利な地域に引っ越したい、けれども、あまり広い場所は借りられないし、経済的にも余裕がないので、老人ホームへ入ってくれ、と、娘夫婦に言われます。

 

 けれども、彼には、自分になついている可愛い孫娘のほかに、何より彼の生きがいになっていた小さな白い犬がいました。

 

 ところが、その犬が、散歩の途中、誰かが不用意に放してしまった大きな迷い犬にかみ殺されてしまいます。

 

 彼は、生きがいを失い、あきらめて、老人ホームを見学に行きますが、まるで生ける屍のような、そこへ捨てられたきりの老人たちを見て、とてもそんなところへ入る気にはなれませんでした。

 

 かといって、家に帰っても、自分を、強引にでも老人ホームへ入れようとする娘夫婦がいるだけです。

 

 そこで、彼は、スキをねらって、自分になついている孫娘を連れ出し、ブーが言っていた、満州里の動物園へ一緒に行くことにするのです。

 

 重要なのは、それは、彼自身が、強く望んだことでも、願ったことでもなく、そこしか行き場がなくなったために、何かに押し出されるようにして、そのような行動を起こさざるを得なかった、ということです。

 

 

 まるで、キューで突かれた球が、勢いに押されて、ころころと転がっていくように。

 

 

 いったい、どこから、いつから、ジンの行く末が決められていたのでしょうか。

 

 娘が、自分の父親であるジンに、冷たい態度を取るのはなぜなのでしょうか。

 

 ジンが父親で、娘がまだ子どもだった頃の、親子関係、家族関係に何か問題があったのでしょうか?

 家族関係が問題だったとするなら、ジンが子どもだった過去へもさかのぼって、原因をさぐることもできるかもしれません。

 

 あるいは、経済的に窮している家庭を支援することに対して、まるで無関心な政治や社会のせいでしょうか?

 だとしたら、人々の命にもかかわるような事態を平然と見過ごし、いわば“社会的殺人”を無視できてしまうという悪い癖は、どこでつき、なぜずっと維持されているのでしょうか?

 

 

 どこで、何が、どのように動いたか、それが、どんなふうにジンの人生を左右することになったか、もとをたどっていけば、いくつかの原因らしいものは、みつかるかもしれませんが、そのときどきの、気まぐれな風向きによっても、人生は、思いもかけない方向へ流されていきます。

 

 それらすべてを制御することは、まず不可能でしょう。

 

 ほんとうに、たまたま、球は転がって、そこへ落ちていった、それだけなのです。

 

 

 

 

                              《つづく》