映画『象は静かに座っている』(5)
どこかの森で、一本の木が切られると、遠く離れた、どこかの森で、もう一本、まったく別の木が、同時に倒れる―。
こんな現象を、「シンクロニシティ」、というらしいですね。
(「粒子Aの性質を変化させると、物理的なつながりがない、遠く離れた粒子Bの性質も変化する」、という量子力学のジョン・ベルの理論を、アインシュタインはひどく不気味がった、とか………)
かなしいことに、理数系がまったくダメな私には、いったい何がどうなっているのか、まったく歯が立ちませんが、興味だけは、ものすごくあるのです。
この話を読んで、私は、『百匹目の猿現象』を思い出しました。
ある島で、一匹の猿が、泥の付いた芋を川の水で洗って食べたのを他の猿が真似しはじめ、やがて、百匹目の猿が、その方法で芋を食べることを学んだようになった途端、遠く離れた、真似のしようもない他の地に住む猿たちが突然、次々に、同じ方法で芋を食べるようになった、というものです。
この不気味さは、なんなのでしょう?
木だって、猿だって、ヒトだって、それぞれに、まったく別個で、つながりがないはずの個体として存在しているはずが、しかも、すぐそばにいて、震動とか、模倣とか、そうした影響を受けようもないはずのものが、突然、連動して動くなんて………。
そんなの、オカルトでしょう?と、一笑に付すのは簡単ですが、それがどうやらそうでもないらしい、ということが明らかになる一方のようです。
(うまく説明できる自信がないので、省略しますが)。
だいたい、いまでこそ、「科学」と呼ばれるものや現象は、もとはといえば、「そんなの、オカルトでしょう?」と笑われ、相手にもされなかったものです。
電話。電気。ファクス。テレビ。パソコン。コピー機………。
あげたら、きりがありません。
「そんなの、オカルトでしょう?」と言われていたものが、科学的立証によって、根拠が明らかになれば、「科学」となって、「現実」の仲間入りをして、そうなれば、もう、誰も疑いを抱かなくなるのです。
たとえば、ビリヤードをしていて、キューで球をついたとき、どこか、遠く離れた別の場所で、何らかの形で「シンクロニシティ」現象が起き、その結果、何かとんでもないできごとが起こっているかもしれない………。
こわくないですか?
私は、ひどい臆病者なので、とてもこわいです。
『象は静かに座っている』で、高校生の少年ブーは、その日の朝、大けがをしているために仕事ができない父親に八つ当たりされ、「出て行け」、と言われます。
そして、ブーは、学校で親友をかばったことで、たまたま、チェンの弟シュアイの死にかかわりをもってしまいます。
家に居場所がないブーは、唯一の自分の理解者の祖母をたずねると、彼女は孤独死していました。
シュアイの兄、チェンとその仲間に狙われたこと、あるいはそれだけでなく、間接的に他人の死に関与してしまったことで、“人殺し”にされてしまったブーは、追われるようにして、町を出ていかなければならなくなったのです。
また、ブーの同級生の少女リンは、家のトイレが壊れて水浸しになっても、それを修理する時間的精神的余裕のない母親との生活に嫌気がさし、学校の副主任と親しい関係になりますが、SNSによって、その事実が学校中に知れ渡り、母親にも知られ、あげく、副主任とその妻が家にまで押しかけてきて、彼女は、彼らを野球のバッドで殴り、逃げだします。
家にも、学校にも、副主任の家にも、居場所をなくしたリンもまた、町を出て行かなければならない状況に追い込まれたのです。
また、シュアイの兄で、その町の不良たちを束ねるチェンは、その朝、親友の妻と不実を知られ、そのせいで自殺してしまった親友の死に対する、強い罪悪感に耐えかねて、自分を拒んだ恋人を責めてみたり、あるいは、自分の罪悪感をかき消すように、ブーを逃がしてやったり、(それまではおそらく親しくしていた)親友の母親に、“自分のせいだ”と罪を告白したりします。
最後には、一度はブーを見捨てたブーの親友に銃で撃たれ、大けがを負い、そのあとどうなるかについては描かれていませんが、彼の行く末も、少なくとも、明るいものではなさそうです。
人は日頃、何でも自分でコントロールできたり、自分で考えて判断したり決めたりしているように思っているのではないでしょうか。
だからこそ、自己選択だの自己決定だの、あげく、自己責任だのという言葉がまかり通っているわけです。
でも、本当にそうでしょうか?
私たちは、社会正義に反した行いをみるや、嫌悪感をあらわにし、これ幸いとばかりに、批判したり、批難したり、場合によっては、いわれのない誹謗中傷の嵐に発展することもあります。
けれども、自分はそこにまったく関与していないといえるのでしょうか?
何気なく、自分がキューを動かして球を突いたことが、めぐりめぐって、何かの空気や雰囲気が、ある方向へ大きく動くきっかけを与えてしまうことも、ないとはいえないのではないでしょうか。
人間は、正当化の達人だと思います。
「自分で決めたことだから」「これは正しい、良いことに違いない」、と思わなければ動けないほど、ヒトというものは、もともと、自信をもつことが難しい生きものなのかもしれません。
自分の、ちょっとしたふるまいや不注意が、どこかで何か、とんでもなく悪い結末を引き起こすかも……?などと考えはじめたら、もう一歩も動けなくなってしまうことでしょう。
深刻で、おそろしいできごとの、その一端を自分が担っている可能性があるだとか、自分のやってきたことは間違いかもしれない、などと思いはじめたら、そこに待っているのは、どうにも背負いきれない、押しつぶされそうな罪の意識に責め苛まれる、生き地獄しかないわけですから………
《つづく》