「そう、人間の生きる時間にはかぎりがあるし、生きている場所や行動半径にもかぎりがある。
けれども、夢だけは、現実を忘れさせるほどに飛翔してゆく。
それは、かなえられることもなく終わってしまうから、まさに“夢”なのだろうけど、人間の生き方をささえてくれる想像力だ。」
ひとは、夢を見る。夢を見ている。
昼も、夜も、絶え間なく。
たとえ、意識が忙殺されていても、苦痛や苦悩、かなしみを抱えていても。
ひとの心は、欠けて、いびつなかたちをしている。
だから、たとえどんなに、“充実している”、“満足している”などと、思ってみても、必ず、どこか、さびしいし、むなしい。
ひとは、“幸せ”、ということばが好き。
なぜって、幸せな感じがするから。
でも、幸せって、何?
それは、実は、だましだまし、自分を生きながらえさせるための、嘘や、口実でしかないのかもしれない。
だから、本当は……。
日常の、何もかもを投げ捨てて、探しにいきたくて、たまらない。
高い、山の上にも。
深い、海の底までも。
遠い、遠い、宇宙(そら)の果てまでも。
“わたし”を、まるごと愛してくれる、美しい夢を。
“シン”の意味するもの
“シン・エヴァンゲリオン”、“シン・ウルトラマン”、そして、来年に公開を控えている“シン・仮面ライダー”。
この、「シン」が意味するものって、何なんでしょう?
私は、最初、何となく、新しい、という意味の、「新」、を思い浮かべていました。
でも、それだけではないのかもしれませんね。
たとえば、本当のもの、を意味する、「真」。
感情や感覚、思考、精神の働きを意味する、心、すなわち、「心」。
自己と他者を隔てる、かたちある肉体を意味する、「身」。
そして、万物の創造主であるところの、「神」。
まだまだ、たくさんありますが……。
故・高畑勲氏は、言っていました。
そこが、他の言語にはない、日本語の面白いところだ、と。
つまり、読み方を意味する音だけでなく、その音をもつ漢字がいくつもあるので、その組み合わせで、“キラキラネーム”が可能なわけです。
……『シン・エヴァンゲリオン』のときには、思いつきもしませんでしたが、今回、『シン・ウルトラマン』を観て、私は、そんなことを考えました。
どれもあり、なのかな、と。
“見返りウルトラマン”
美しい、夢。
そう、美しいのです。
映画の中で、長澤まさみ演じる浅見弘子が言ったとおり、ウルトラマンは「きれい」で、美しいのです。
私は、『帰ってきたウルトラマン』~の、第2次ウルトラ世代ですが、当時は再放送というのを何度もやっていて、『ウルトラマン』を見ました。
学校では、必ず男子の誰かが、赤白帽のつばの部分を上にしてかぶって、「うるとらまん」になっていましたし、やっぱり男子の誰かが、体操着の襟首部分から顔を出して、「じゃみら」になっていました。
そのくらい、「ウルトラマン」は、私たち子どもの日常にすっかりとけ込んでいて、身近で、親近感のある友だちのような存在でした。
けれども、私にとっては、この『シン・ウルトラマン』の、少なくとも、最初の印象は、そうではありませんでした。
映画のポスターを見て、ぎょっとしたのです。
こ、これは………
“見返り美人”、ならぬ、“見返りウルトラマン”ではないか、と。
少なくとも、私の記憶にあるウルトラマンは、こんなポーズを取ったことはありませんでした。
何というのか、人間っぽすぎるのです。
精神分析の創始者フロイトによれば、人は、よく見知った、懐かしい感じのするものに、(そこにあるはずのないような、あるいは、あってはならないような)、新奇の刺激が合わさったものを見ると、「不気味さ」を感じるのだそうです。
ぎょっとした、というのは、つまり、私にとっては“不気味”だった、ということになるのでしょう。
それが映画の宣伝用ポスターになっている、ということは、これが、映画のコンセプトを表す一つの重要な鍵概念、の可能性があるわけです。
そして、映画公開されて、約1週間後、私は、この「見返りウルトラマン」について、こう思いつくに至りました。
あれは……
あの、こっちを振り返って見ているウルトラマンというのは、人間とコミュニケートする意志をもった宇宙人、という意味だったのかな、と。
《つづく》