他人の星

déraciné

『シン・ウルトラマン』(3)

 

 「ではなぜ我我は極寒の天にも、まさに溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか?救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう?より大きい快を選んだのである。」

                        芥川龍之介侏儒の言葉

 

 

 

 ウルトラマンが、地球人とコミュニケートする意志をもつに至ったきっかけは、神永新二が、怪獣ネロンガの攻撃によって、命を落としかけた子どもを、「自己犠牲」によって救ったのを見たことでした。

 

 たしかに人間は、ときに、自分の命を捨ててでも、他人を助けようとすることがあります。

 

 こうした援助行動、つまり、「利他的行動」は、人間だけのものではなく、他の動物にも広く認められ、進化の過程で淘汰されずに生き残ってきた行動です。

 

 

 ですが、「生命は自己完結しているもの」、という概念をもつ異星人、ウルトラマンの目には、新二の行動は、不思議、かつ、新鮮に映ったのかもしれません。

 

 あるいは、この宇宙のなかで起こるあらゆる現象の中でも、格別、美しいものを見たような気持ちになったのでしょうか……

 

 

 

「自己犠牲」?

 

 マーク・トウェインは、晩年、老人と青年の対話の形をとった、『人間とは何か』を著していますが、この作品は、彼自身の家族にショックを与えただけでなく、世間一般からも、病的なペシミズムだと叩かれ、公刊されたのは、彼の死後七年も経ってからのことでした。

 

 

 「つまりは、同じ人間が溺れかかってる、しかも、それを見ていて、助けに飛び込まんてのは、とうていたえられなかったってことだろうな。それは彼等にとって苦痛になる。」

                    マーク・トウェイン『人間とは何か』

 

 

 それが人間の良心、道徳心というものでしょう、と、人間の心や感情というものに理想を抱く青年に、老人は、「それはどうかな」、と問い返します。

 

 人間というものは、何より「自己否認」をおそれ、だからこそ、どんな犠牲を払っても「自己是認」が欲しいのであって、それは「自己満足、自己陶酔の現れ」にすぎないのに、ありもしない「『自己犠牲』なんていう、辞書の中にあっちゃならん言葉までが、こっそり辞書の中に入れられちまったってことだよ。」、と言うのです。

 

 つまり人は、「ああ、人間って、なんて素晴らしい生きものだろう!」と、他の人たちから思われ、称賛されるようなこととは何かを、「自己是認」の基準として、幼い頃からすり込まれており、そういう「善いこと」をして、ぜひとも(他の人から見て)自分の価値をあげたいばっかりに、そういう行動を取るよう、動機づけられているのです。

 

 逆にいえば、自分の所蔵集団から「人でなし」と蔑まれ、仲間はずれにされるのが、命を失うことよりもこわくて仕方がないのです。

 

 

 冒頭の『侏儒の言葉』は、1923年から『文藝春秋』に掲載されており、マーク・トウェインの『人間とは何か』が一般公刊されたのは1917年なので、芥川は、もしかしたら、読んでいたかもしれません。

 

 

 

心のままに生きる」生命体と、「心のままに生きられない」生命体の出会い

 

 前回、私たちは、誰しも、他人の世話にならなければ生きていけない存在ではあるけれども、その事実と、「自分がコーヒーを飲むときに、一緒に他人の分も持ってくること」は、どう結びつくのだろうか、と書きました。

 

 新二が、自分の分のコーヒーだけを持ってきたのは、彼の論理では、生命というものは自己完結しているのであって、そうした意思決定や行動に関して、相互干渉の義務はないからです。

 

 ですが、「弱い、群れる生命体」の浅見は、新二が飲むコーヒーも、着ている服も、他人がつくってくれていて、私たちは、他人の世話にならなければ生きていけない存在なのだから、そういう気遣いをしてもバチは当たらないんじゃないの、と言いたかったのでしょう。

 

 自己完結型の生命体であるウルトラマン=神永新二と、相互依存型の生命体である浅見弘子。

 

 この両者の、行動規範は真逆ですが、心の方は、どうなのでしょう?

 

 心は、勝手な生きものであって、たとえばその社会で、「不謹慎」だとか「不道徳」だとか言われるようなもの、あるいは、場合によっては犯罪まがいのものであっても、そんなものはどこ吹く風で、自由で、勝手気ままです。

 

 けれども、人間集団である「社会」は、都合の良い秩序のために、自由な心を、外から縛ります。

 

 「他人の世話にならなければ生きていけないくせに」、の縛りは、人間社会で、しばしばその意味や範囲が拡張され、「だから」、「お前だけが勝手なことをするのは許されない」と、その人の自由な考えや価値観までもが抑圧されることも、決して珍しいことではありません。

 

 もし、「他人の世話になって、助け合って、生きていかなければならない存在なのだから」、ときには、命を投げ出してでも、他人を救う、それが「人間の素晴らしさ」だと、すべてが美談で片づけられてしまったとしたら?

 

 人生という理不尽な戦場で、(それはしばしば、実際の戦場よりもずっと残酷だったりします)、「世話になっている」「他人のために」「自分を殺せ」、という“自己犠牲”が推奨されるとしたら?

 

 相互依存によって成り立つ生命体であり、社会である、ということと、個々の意思決定への干渉が、もし、安易につながり合ってしまったとしたら?

 

 

 


 きっと、ウルトラマンが住む世界では、それぞれが、心のままに単独行動をとったとしても、誰もそれを責めたり批難したりすることなく、それでいて、本当の意味で、互いに助け合って生きているのだろうな、と思います。

 

 そんな自分たちと違って、人類は、弱さゆえに群れて、その群れの中で、自分の居場所をなくさないために、しばしば「自由な心」を押し殺す生きものだからこそ、ウルトラマンは興味をもち、守ってやらなければ、という気持ちになったのかもしれません。

 

 


 

 

                                  《つづく》