“私の生まれた日は滅び失せよ。”
—『ヨブ記』
「新しい朝が来た、希望の朝だ」……
目覚めた瞬間から、さあ、大変。
はるか彼方まで、ずらりと並んだ、数えきれないほどたくさんのハードル。
今夜の眠りにたどりつくまで、いくつ、ちゃんと飛べるかな?
まずは、布団から、身を引きはがすようにして、起床。
それから、服を着て(えーっと、今日は何を着よう?)、顔を洗い、トイレに行って、食事の支度をしたら、ご飯を食べて、歯を磨いて。
今日は、何曜日?あぁ、家庭ゴミの日だ!ゴミ出さなくちゃ。
大変、もうこんな時間!
「行ってきます」。
バスが来た、さあ、乗って。
どこで降りなくちゃならないか、わかるね?
居眠りなんかして、寝過ごしちゃだめだよ!
さあ、着いた。しなくちゃならないこと、山のごとし。
勉強。仕事。雑用。
必要なことも、そうでないことも。
コミュニケーションも、とらなくちゃ。
ようやく、ランチの時間。
お腹がいっぱいになれば、目の皮がたるむ、とはよく言ったもの。
眠いのをがまんして、午後もがんばらなくちゃ……。
戦い終わって、日が暮れて。
さあ、帰ろう。
帰るのだって、ひと苦労。
もう少し、もう少しだからね……。
「ただいまー」。
ああ、疲れた………
顔でも洗って、食事の支度して、ご飯を食べて。
今日は、テレビ、何か、おもしろいのやってるかな。
それから、お風呂に入って、歯を磨いて、お布団敷いて、寝~ま~しょ。
お・め・で・と・う!
“ぱーん”と、クラッカー鳴らして、お祝いしても、いいくらいですよ。
えらい、あんたはエライ!
今日を生ききったじゃないか、えらい!
さすがだねぇ!天才だねぇ!
よくやった!よくがんばった!
……ところが、この世界では、そんなことで、誰もほめてくれません。
あたりまえだろ、そんなの。
誰も気にも留めないし、本人も、そんなことはよくわかっています。
けれども、これがかなりすごいことなんだということは、病気になってはじめて、身にしみてわかるのかもしれません。
身体の病はもちろんですが、心の病にかかっても。
そして、『メランコリア』の主人公の一人、“ジャスティン”のもつ、ある心の病もまた……。
“地獄へ ようこそ”
「メランコリア」、というのは、言わずもがなうつ病のことで、「ギリシア語のメライナmelainaまたはメランmelan(黒い)とコレchole(胆汁)の合成からなることでもわかるように、体液のなかで黒胆汁が過剰になる」病のことです。
古代ギリシャ・ローマでは、ヒポクラテスやガレノスが、人間の体液を、粘液、血液、黒胆汁、胆汁(黄胆汁)の4種類に分け、それらが調和と均衡を保てれば健康、いずれかが過剰になると病気になり、メランコリアは、黒胆汁の過剰による病であり、憂鬱質、心配性、生真面目、内気で寡黙、消極的で不安が強いなどの傾向を引き起こす、と考えられていたのです。(参考『コトバンク』)
さて、映画は、姉のクレアと妹のジャスティン、それぞれの立場から描かれています。
最初は、妹のジャスティン。
映画のタイトルどおり、彼女は、うつ病を患っています。
けれども、今日は、職場の同僚マイケルとの結婚披露宴。
しかも、お金持ちの学者と結婚した姉クレアの、ゴルフ場付き豪邸が会場です。
ジャスティンは、純白のウェディングドレスに身を包み、夫マイケルとともに、豪華なリムジンに乗って、会場へと急ぎますが、田舎の細い道に、小回りのきかないリムジンでは、どんな名ドライバーでも、カーブをうまく曲がれません。
それでもジャスティンは、幸せそうな笑みを浮かべ、時折、マイケルとキスを交わし、しまいには自分がリムジンを運転しますが、うまくいかず、途中で降りて、徒歩で会場へ。
予定より、2時間も遅れての到着に、式を取り仕切るクレアの機嫌は悪く、はじめから、雲行きは怪しいのです。
招待客は、それでも祝福ムードを盛り上げますが、その空気を壊し、花嫁の表情を暗く曇らせたのが、誰あろう、ジャスティンとクレアの、(離婚した)母親と父親なのです。
父親は、どこか頼りなさげで、自分の両隣に座った若い女性で同名の、二人の“ベティ”に気に入られようと、テーブルのスプーンをくすねてみせたりして、おどけています。
そしていざ、娘への、お祝いの言葉を求められると、「私の大切な娘よ」と、父親らしいことを言いつつも、自らの、悲惨だった結婚生活と、「威圧的な女だった」と、元妻への不満をもらしてしまいます。
言われた元妻も、黙ってはいません。
「いまのうち、せいぜいはしゃいでおくがいい(結婚なんて、地獄にすぎないのだから)」と、娘に向けて、言うのです。
ほかでもない、自分たちの「大切な」娘の、人生最高の幸せの日に、この元夫婦は、これ以上はないというほどの、“呪いの言葉”を吐きかけ合ったのです。
けれども、ジャスティンは、それでも笑みを浮かべ、この牛頭馬頭の責め苦に、何とか耐えます。
………ですが、傷つきやすく、繊細で、(おそらくは、うつ病の寛解期にあった)ジャスティンの心が壊れるまでのカウントダウンは、誰も知らないうちに、だいぶ前からはじまっていたのです。
《つづく》