他人の星

déraciné

映画『メランコリア』(2)

 

 

 「結婚しちゃいけない!まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」

                 デルモア・シュウォーツ『夢で責任が始まる』

 

 

 

 “しあわせ”、と聞いて、多くの人が思い浮かべるものは、何でしょう?

 

 それは、テレビのコマーシャルを見ていると、わかるかもしれません。

 

 人間が、良いイメージの中でも、最高に良いイメージをもつのは、「幸せ」であり、コマーシャルは、人間が無意識的に“快”と感じるものを、繰り返し、しつこく何度も見せることで、その商品と、企業へのイメージアップをはかります。

 

 なぜなら、通常、人は、良い気分のときに、お金を使いたくなるからです。

 

(ですが、イライラしていたり、むしゃくしゃしているなど、“不快”なときにも、購買意欲は高まるそうです。私は、何かを「買いたい」、という欲求と、何かを「食べたい」、という欲求は、とてもよく似ていると感じます。「買いたい、でも、節約しなきゃ」、「食べたい、でも、ダイエットしなきゃ」、どちらにも後ろめたさ、いわゆる“罪悪感”が伴います。実は、この罪悪感という堰を自ら壊すという背徳感が、強い快感を生み出し、これがクセになると、食行動の異常や障害、買い物依存などにつながりやすいのです)。

 

 商品と、企業のイメージアップ。そして、購買意欲の促進。

 コマーシャルは、一石二鳥ならぬ、一石三鳥を狙うことができるわけです。

 

 ところで、食品から、家具家電、車、家に至るまで、コマーシャルで多用されているものは、何でしょう?

 

 そう、家族です。

 親子楽しそうに遊んで、笑って、憩って、親が子を思い、子が親を思う、幸せ家族、ですよね。

 

 (少し前には、親子デート、なんてものまでありましたね!私は、もう少しで、吐くところでした!)

 

 もっとつきつめて言うと、しあわせとは、“愛”、をイメージさせるもの、ではないのでしょうか。

 

 たとえば、恋愛、その先に約束される、幸せな結婚、そして、家族愛。親子愛。

 

 その、“愛”、の一文字ほしさに、人は、誰かを好きになったり、結婚して、家庭をもって、子供を産んで、(ついでに、家と、車と、大きいテレビがあれば、なおけっこう)、いつまでもいつまでも、家族一緒に、幸せに暮らすのよ、と、夢を思い描くのでしょう。

 

 

 けれども………

 

 

 

家族は不幸のはじまり

 

 

 さて、映画『メランコリア』に戻ります。

 

 職場の同僚、マイケルと結婚し、人生の中で、最高に幸せな時間を過ごすはずだったジャスティン。

 

 誰の目から見ても、彼女の人生は、輝きに満ちているようにしか見えなかったことでしょう。

 

 幸せな結婚と、豪華な披露宴。そして、(両親を除く)招待客たちの祝福と笑顔。

 

 それだけではありません。ジャスティンは、仕事の面でも、芸術的才能を活かし、輝かしい業績によって、招待客の一人である上司から、昇進を約束されていました。

 

 けれども、彼女の両親の“祝いの言葉”(呪いの言葉)が引き金となり、ついに、心のダムが決壊します。

 

 

 彼女は、会場からいなくなり、夜の闇の中で、一人、ゴルフカートを走らせたり、姉の息子を寝かしつけに行って、それっきり、自分も眠ってしまったり、これから新郎新婦揃ってケーキカットというときに、客室で風呂に入ったり、まるで迷い子のように、一人勝手にふらふらと、動き回ります。

 

 夫のマイケルは、ジャスティンの調子が良くないことに気づき、「二人きりで話したい」と言い、「りんご園の土地を買った、十年後には実がなる、気分が沈むことがあっても、りんごがきみを幸せにしてくれる」と、そのりんご園の写真を彼女に贈ります。

 ジャスティンは、表面上は喜び、「肌身離さずもっているわ」、と言いつつ、その写真も、マイケルもおきざりにして、部屋から出て行きます。

 

 自分が仕切っている披露宴で、身勝手な行動ばかり取る妹ジャスティンを、姉のクレアは責めます。

 「時々、あなたがたまらなく憎くなる」、と言って。

 

 人知れず、今にも底なし沼に落ちていかんとするジャスティンは、母に「こわいの」、と訴えますが、彼女は、「誰でもそうよ」、と冷たく突き放します。

 わらにもすがる思いで、今度は、帰ろうとする父を引きとめますが、結局彼は、二人のベティを送りがてら、ジャスティンをおいて、帰ってしまいます。

 しかも、彼が娘に残した手紙には、「愛する娘 ベティへ」と、(たとえ酔っていたにしても)、自分の娘の名前すら、正しく書かれていません。彼は、その手紙に記したとおり、“愚かな父親”なのです。

 

 

 

 フロイトによれば、「メランコリー(うつ病)は、心の状態としては、深い苦痛に満ちた不機嫌と外的世界への関心の撤去とによって、愛情能力の喪失によって、および何事の実行をも妨げる制止と自尊感情の引き下げとによって特徴づけられる」、と説明されています。(『喪とメランコリー』)

 

 「自尊感情の引き下げ」とは、自分は何の価値もない、恥ずべき存在であり、そのせいで、まわりの人にひどく迷惑をかけているという確信と、だから自分は罰せられるべきだという妄想に近いレベルの強い罪悪感をもっている、ということです。

 

 そして、その強い自己否定は、実は、「患者が愛している、あるいはかつて愛した、あるいは愛しているはずの別の人物に当てはめることができ」、「自己非難は愛情対象への非難がその対象から離れて患者本人へと転換されたもの」なのです。

 

 こうした心理的な傾向は、よく知られているように、生育環境、特に、生まれて初めての人間関係(それは象徴的には、世界そのものとの関係を意味します)であるところの、両親との関係の中で、形づくられていきます。

 

 

 従って、「患者が愛している、かつて愛していた、あるいは愛しているはずの別の人物」とは、多くの場合、両親のことを示します。

 

 

 ジャスティンに当てはめてみると、彼女が示した、他者から見れば「めちゃくちゃで」「自分勝手な」行動は、この晴れ晴れしい、光の当たる場所から自らをしめ出し、自分を罰するためのものなのですが、無意識的に、本当に罰したいのは、「かつて愛していた・愛しているはずの」父と母、ということになるでしょう。

 

 

                                《つづく》