他人の星

déraciné

映画『はちどり』(1)

 

 

 七面倒臭い人生を生きてきた人は、七面倒臭い性格になるのか?

 単純明快な人生を生きてきた人は、単純明快な性格になるのか?

 

 そう、かもしれない。

 けれど、そんなに簡単でもないのかもしれない。

 

 七面倒臭い人生を生きてきたのに、わりと無頓着な性格になる人もいる。

 単純明快な人生を生きてきたのに、何かとまわりくどい性格になる人もいる。

 

 できごとそのものや、経験そのもの、ではないのかもしれない。

 社会や世間、他人などの、自分の外側の世界の、どこをどんなふうに見て、自分の内面の世界で、何を感じたり、考えたりしてきたのか…?

 

 いや、けれども、それすら、必ずしも、自分のコントロール内ではない。

 

 

 人間というものは、ひどく視野が狭い。

 外界を知覚し、認識する「意識」の働きが、著しく歪んでいて、ひどく偏っている。

 

 たとえば、バスケットボールのゲームに興じていると、コートのど真ん中を堂々と、ゴリラの着ぐるみを着た人が横切っていっても、ほとんどの人は気がつかない。

 

 優先的に意識を向けなければならない刺激に集中し、確実に処理するために、不必要と判断された情報は、かなり大胆に切り捨てられる。

 

 なおかつ、「意識を集中せよ」、あるいは、「無視せよ」、という命令は、当人が自覚できない無意識から発せられている。

 

 脳の奥で(心の奥で)、私ではない、別の誰かが、操縦席に座り(「パイルダーオン!」)、私の心身を支配し、勝手気ままに操っている……。

 

 しかも、そんな偉そうに命令している操縦士は、外側から、刺激の強い情報が入ってくると、やすやすと操縦桿を譲ってしまったり、いとも簡単にハイジャックされてしまったりする。

 

 

 ……ねぇ、ねぇ、それ、本当に好き?

 

 これ、本当に好き、なんて思っているそれ、ほんとに好き?

 知らないうちに、なんかの影響、受けてない?

 どこかで、刷り込まれてない?

 絶対、そんなことない、……とは、言い切れない、と思う。

 

 

 ゆえに、表向き、私は私だけれども、実は、私は私ではない、と言った方が、正しいのかもしれない。

 

 

 故・高畑勲氏は、現代の「物語」が、その受け手を甘やかす方向にどんどん傾いていくのを、憂えていた。

 主人公が、たとえば失敗したり、何かを失ったりしても、結局最後に待っているのは、それらを取り返して余りある「予定調和」な結末なので、受け手は「安心して、主人公に感情移入し、ついていける」結果、手痛い挫折を味わわずに終わってしまう。

 

 何だよ。たかが、つくりもの、「物語」の世界の話じゃないか。

 その場で面白く見られれば、それでいいんだよ!

 

 そう、かもしれない。物語は、面白くないと、ね。

 けれども、私は、「物語」と「現実の世界」は、深いところでつながっていると思う。

 

 物語のつくり手は、いわば、その物語世界の創造主、つまり、カミサマだ。

 登場人物を、いかすも殺すも、煮るも焼くも、カミサマ次第だから。

 

 カミサマに気に入られた主人公サイドの人物は救済され、彼、もしくは、彼らがかぶるはずだった災難は、どこかへ吹き飛ばされる。

 けれども、自然の摂理として、誰かがかぶるはずだった災難を、どこかへ吹き飛ばしたら、その代わりに、他の誰かが、その災難をかぶることになる。

 

 そのへんを、よく描けていたのが、『時をかける少女』(奥寺佐渡子脚本/細田守監督作品)だったと思う。

 

 人生、そううまくはいかないんだよ、と、言ってくれるのが、物語であってほしい、と私は思う。

 

 なぜなら、良い受け手が育たなければ、良い物語は生まれないからだ。

 

 せっかく大切なことを言ってくれていても、それを読みとり、理解する力が受け手になければ、その物語は、無視され、誰にも知られずに埋もれてしまう。

 

 だから、受け手に阿ったり、すり寄ったりするのではなくて、受け手の体力を鍛えてくれるような物語に出会いたい、と、私は思う。

 

 そうして、物語によって鍛えられた体力は、物語を読むときだけでなく、現実の生活にも、大いに役立ってくれる。

 

 たとえば、ものごとの因果関係や、わかっているようでわかっていない、自分の気持ちを、文脈によって読み取り、理解することにも役立つ。

 

 本作は、そんな映画だと思う。

 

 言ってみれば、何の変哲もない物語だ。

 

 よくありがちな、思春期の少女の、もやもやした気持ち、不安定に揺れ動く日常を描いている。

 

 主人公ウニの家は、小さな餅屋を営んでいる。

 両親も、仕事が忙しくていらいらしたり、夫婦げんかをしたかと思えば、いつの間にか、仲直りしたり、めんどくさいと、自分の子をぞんざいに扱ったりする、ごくふつうの人々だ。

 

 姉のスヒは、方々遊び回って帰ってきて、両親から叱られまいと、ウニの部屋に隠れ、いつもウニがかくまうことになる。

 

 兄のデフンは、進学のことでストレスをつのらせ、その鬱憤を、妹のウニに、暴力を振るうことで発散させている。

 

 ウニには、親友もいるし、ボーイフレンドもいるし、憧れてくれる後輩もいるが、それらの関係は、決して安定した信頼と居場所を与えてくれはしない。

 

 親友のジスクは、一緒に万引きして捕まり、親の連絡先をきかれたとき、裏切って、ウニの親の連絡先だけを言う。

 

 ボーイフレンドのジワンは、ウニだけでなく、他の女の子と親しくなって、ウニから離れたりする。

 

 後輩のユリは、「先輩のことが誰よりも好き」、と言っておきながら、学期が変わった途端、ころりと心変わりして、ウニを無視する。

 

 そして……。

 

 通学路の途中には、“私たちは 死んでも 立ち退かない”という横断幕が貼られている住宅地がある。

 おそらくは、自分たちの居場所を、理不尽に奪われようとしている者たちの、怒りと抗議の声だろう。

 

 けれども、その横断幕は、いつしか時の流れに破れ、廃れていく。

 “私たちは 死んでも”………

 その願いは、聞き届けられなかった、ということだろう。

 

 

 14歳の少女、ウニの表情は、いつも静かだ。

 

 自分の身に受ける暴力にも、心ない親友や後輩の言動にも、母親からの無視にも、自分の感情をぶちまけることなく、淡々としている。

 

 けれど、何も反応しないからといって、何も感じていないわけじゃないし、それらの経験や見たもの、きいたものが、すべてどこかへ消えてしまうわけではない。

 むしろ、出力せずに、溜め込む一方だから、感情面での体験は、他の人よりも強烈に、彼女の心や魂を刺激しているはずだ。

 

 まるで、むかしは栄えて、いまは衰退した都の上に、しんしんと、雪が降るように、目に映るもの、感じるものが、少しずつ、降り積もっていくように、彼女の心の深部を形成していく。

 

 

 美しく、完璧だったガラス細工に、キズがつき、繊細な部分から欠けていき、ああ、生きるって、そんなものなのね、ひとって、そんなものなのね、という人生の理不尽さを、自分自身が傷ついていくことによって、知っていくことになるのだ。

 

 

 

 

                                 《つづく》