他人の星

déraciné

映画『はちどり』(3)

 

 この時期になると、いつも思うことがある。

 

 どうして、クリスマスには、ごちそうやケーキを食べなくちゃならないんだろう?

 

 どうして、おおみそかには、年越しそばを食べなくちゃならないんだろう?

 

 どうして、お正月には、おもちやらおせち料理を食べなくちゃならないんだろう?

 

 

 別に、そういう決まりはないのだし、法律で罰せられるわけでもないし、そうしないのだったら、しなくてもいいのに。

 

 ところが、どうしても、この時期になると、自動的にそうしてしまう。

 

 なぜなのか?

 

 そうしないと、何だか、気持ちが悪いのだ。

 

 多分、生まれてからというもの、ずーっとそうしてきたから、そういう習慣がすっかりからだにしみついてしまい、やらないと、何だか落ち着かないから、なのだろうと思う。

 

 

 

 ある日の夕方、私は、家へ帰るために、バスを待っていた。

 

 すると、目の前で、母親に連れられた子どもが、前のめりに転んだ。

 まだ、ひとり歩きできてから、そんなに日が経っていないような、本当に小さい子だった。

 

 母親は、子どもに、「あっ!、大丈夫?!」と、大きな声をかけた。

 そのときはまだ、子どもは、道路に腹ばいになったまま、泣きも何もしていなかった。

 

 けれども、母親の表情と、悲鳴のような声の調子、慌てたようすを見て、自分がどんな目にあったのか、理解したのだろうか。

 

 子どもは、母親に抱きついて、泣き出した。

 

 

 私は、それを見たとき、思った。

 ああ、これか、と。

 

 

 人間は、どこかとても機械的だ。

 

 自分の行動やしぐさ、ふるまいが、自分がこれから生きていく社会で、どんな意味をもつことになるのか。

 何より、それが、他の人たちに、どのように受け取られることになるのか。

 

 たとえば、転んだ、ということは、「痛い」と感じるだろうけれども、それをはたして「痛がって」いいのかどうか。

 痛いと言って、泣いたりすることが、自分にとって、有利に働くのか、不利になるのか。

 

 人間は、言葉だけでコミュニケートするのではなく、表情やしぐさ、視線、行動から、服装、持ち物に至るまで、すべてのものが、コミュニケーションとしての意味合いを、否応なくもつことになる。

 

 それを、子どもは、周囲の人たちとのあいだで学んでいく。

 自分とは違う考え方や感じ方をもつ、他人だらけの世界の中で。

 

 そんなことを、数え切れないほど繰り返し、繰り返し、意識もしないうちに学んだり身につけたりしていくうちに、たくさんの糸で織られた、複雑な色合いの「その人」ができあがっていく。

 

 そうなると、今度はまた、不思議なことが起こる。

 

 自分のことなのに、自分ですべてをコントロールすることはできなくなる。

 

 感情が、衝動が、欲求が、この私の腕を、勝手につかんで、あらぬ方向へ引っ張っていく。

 言うつもりなどなかった言葉。取るつもりなどなかった行動。

 

 私は、私として存在し、私自身を所有しているとばかり思っていたのに、私ですら、私のものではなかったと、思い知らされることになる。

 

 

 人間のもっている、こうした「機械性」は、おそらく、時々刻々処理しなければならないたくさんの情報、選択や判断しなければならないたくさんの課題を、できるだけ効率よく処理するために必要とされるものなのだろうと思う。

 

 繰り返しになるが、日々、そういうことを繰り返していることが、織りあげられた「その人」、という布地に、より複雑な模様をつけていくことになるわけで、どこかが気に入らないから変えたいと思っても、もはやその布は複雑すぎて、どこのどの糸をどう解きほぐして編み直せばよいのか、見当も付かない。

 

 いったいどこで、こんな模様になったのか。

 いったいどこで、こんな色が付いたのか。

 

 自分のことなのに、わからないし、どうしようもないのである。

 

 

 14歳になるまでにも、ウニは、数え切れないほどたくさんのできごとを経験し、たとえば自分が言ったことやしたこと、自分の気持ちに対して、まわりの人がどんな反応を返してきたか、返してこなかったかの繰り返しによって、まだ若いなりに、彼女なりの模様と色彩を持つ布を織りあげてきた。

 

 おそらく彼女は、はじめて「あなたは自分を守って。そうするだけの価値がある、大切な人間なのよ、あなたは」と、言語、非言語両方で言ってくれたヨンジ先生に出会うまで、他の人たちとの間で、厳しい体験を重ねてきたのだろう。

 

 他人は、言葉で言うほど責任感や愛情をもって接近してくるものでもないし、信頼すれば、ひどい目にあってしまうかもしれない。

 

 この世に生まれ、生きていくということは、とても理不尽で、そんなにいいことでも、素晴らしいことでもないかもしれない……

 

 

 「私もいつか輝けるかな」。

 

 どちらかというと、これまで組み敷かれることの多かったウニは、ヨンジ先生との出会いを経て、雲間から光が射すように、そう思う。

 

 たとえば、人生のほとんどの日々は、曇っていて、なまり色の空が広がっているとしても。

 

 雲一つない、快晴の日など、一度もおとずれないとしても。

 

 けれども、ほんのちょっとでも、陽の光の暖かさを感じることのできる瞬間があるうちは、人は、とりあえず、辛い今日をやり過ごして、少しだけ、待ってみよう、と、思うともなく、思えるのかもしれない。

 

 

 

                                  《おわり》