他人の星

déraciné

映画『ラ・ラ・ランド』

 

 

 実によくできた映画だ、と思った。

 

 おそらくは、つくり手側が望んだであろう到達点に、これしかない、というプロセスをたどって、きれいに着地している。

 

 私は、ミュージカル映画は基本的に苦手だが、この程度であれば、仰々しくもなく、嫌みにも感じないので、気障りにもならなかった。

 

 

 物語は、基本的に、「行って帰ってくる」という構造をもつ、と読んだことがある。

 

 主人公は、能動的、積極的、あるいは、いやいやながら、消極的に、冒険の旅に出る。

 

 そうして、数々の意味ある出会いと、喜びや悲しみを経て、大きな危機を乗り越え、何かとても大切なものを代償として喪い、大きな果実を得て、戻ってくる。

 

 (以下、ネタバレになるので、ご注意を)

 

 この物語でいえば、ミアは、女優になるという夢、セブは、ジャズピアニストとして自分の店をもつ、という夢が出立点になっている。

 

 彼らのもつ夢が、彼らをして、能動的に、冒険の旅に出かけさせるのである。

 

 そうして、必ずそこには、挫折、夢の実現の妨害、支援者が待ち受けている。

 

 ミアの場合には、数え切れないほど受けたオーディションで、いやになるほど落ち続け、そのさなか、セブ、という支援者を得る。

 

 セブの場合には、レストランで、好きでもないクリスマスの曲を弾いていたが、我慢ならなくなり、華麗にジャズを奏でたせいで、レストランの支配人からクビを言い渡されたところで、ミアに出会う。

 

 最初は、ミアも、セブも、「私たちは、はじめから激しい恋に落ちたわけではなかった」。

 

 そう、最初の頃こそ、お互いにタイプではないと感じていたが、互いに夢をもち、たくさんの挫折を味わってきた者同士として、理解し合い、支え合うようになり、やがて、愛し合うようになる。

 

 セブは、ミアとの将来を考えるようになるが、二人の結婚と家庭生活のために、安定した収入源を求めて、「好きでもない」音楽を演奏するバンドのメンバーとなって、大成功をおさめる。

 しかし、その成功が、二人の心の距離を遠ざける。

 

 家にほとんど帰れず、ツアーに継ぐツアー生活、「サーカス・ライフ」を送るセブに、ミアは問いかける。

 

 「あなたは、その音楽が、本当に好きなの?」と。

 

 多忙を極めるセブは、ミアの自作自演の一人芝居の、数少ない観客の一人となって、彼女を見守ることもできなかった。

 

 「彼女は大根だ」、という有り難くない批評さえ彼女の耳に入り、すっかりうちひしがれたミアは、夢をあきらめ、故郷の家に帰る。

 

 だが、その日、ミアの一人芝居の数少ない観客の中に、彼女の夢を実現につなげることのできる人物が現れ、彼女はとうとう、夢にまで見た有名女優になる。

 

 いやがる彼女を、その最後のオーディションへと連れて行ったのは、セブだった。

 

 

 5年後、ミアは大女優に、セブは、念願叶って、自分の店を持ち、お互いに成功しているが、二人が結ばれることはなかった。

 

 そう、ミアもセブも、自分の夢を叶えて、冒険の旅から帰ってきた。

 お互いの、愛の未来を、代償として……

 

 

 

 繰り返しになるが、実によくできた映画である。

 

 けれども、物語として、映画として、どんなによくできていたとしても、それを好きか、嫌いかとなれば、話は別である。

 

 残念ながら、私は、好きになれなかった。

 

 ごくごくほんの一握りの、大きな夢を叶えた人の、挫折と栄光の道のり、そして、その代償となった愛の物語、というのは、良くいえば「なつかしい」が、悪くいえば、「古くさい」のである。

 

 この映画を、明るく楽しいものにするためには、この道筋しかなかっただろう。

 

 たとえば、ミアかセブのどちらか一方が、相手への愛を優先し、自分は夢をあきらめて、相手の夢を応援していたら、おそらくは、先々、嫉妬などの複雑な感情によって、二人の関係は、破綻していただろう。

 

 もっと最悪のケースもあり得る。

 

 ミア、もしくはセブの、いずれかは成功し、夢をつかむが、残されたもう片方は、夢を追う代償としてさんざん傷ついた自分の翼に、相手の成功、そのまばゆい光によって、あらためて気づかされ、絶望を深め、自ら死を選んでしまうかもしれない。

 

 いずれにしても、映画にしたら、おそらく、作り手がつくりたい、受け手に届けたいと思っていたものとは、似ても似つかない、別ものになってしまったことだろう。

 

 

 人間の、リアルな感情と日常について描くのであれば、いまや、ハリウッドではなく、韓国の得意分野ではないかと感じる。

 

 何かは得たが、かなりビターな結末と、映画はそこで終わるけれども、その先に、あるいは、もっと悲惨な何かが待ち受けているかもしれない……。

 

 この年末年始に、映画『パラサイト』の監督ポン・ジュノ作品を二つ観た。

 『吠える犬は噛まない』と、『グエムル―漢江の怪物―』である。

 

 いずれも、容赦がなかった。

 

 ハリウッド式では、主人公、もしくは主人公側の人間は善を象徴し、災難に遭っても助かることが多い。

 

 けれども、この二つの韓国映画に限っていえば、主人公は必ずしも清廉潔白ではなく、「災難人を選ばず」、という真実どおりに、死ぬ者は死んでいく。

 

 楽しい夢を見させられ、夢から覚めたら、はたして現実の方が比較にならないほどおそろしかった、という感覚を味わうよりも、冷たい水に、少しずつ、少しずつ、足の先から、こちらの手を取って、慣らしてくれるような物語の方が、私にとっては、ずっと“優しい”と感じる。

 

 そちらの方が、私の好みなのだから、しかたがない。