他人の星

déraciné

映画『シークレット・サンシャイン』(1)

 

 

 もう何十年も前のことである。

 

 高校時代、私は、同級生から誘われ(けっこう強引に)、日曜日に、老人ホームへボランティアに行くのにつき合った(けっこう頻繁に)。

 

 そのたびごと、翌月曜日には、彼女は元気で学校へ行けても、私は、ホームを満たすクレゾールのにおいと、気疲れとにすっかりやられて、具合が悪くて起き上がれず、学校を休むしかなかった。

 

 そんなことを繰り返すうちに、自分は、ボランティアのような、人と関わり合いをもって活動することに向いていないんだな、と自覚するに至った。

 

 

 けれども、ボランティアのような、社会奉仕活動に積極的なのは、何も彼女だけではなかった。

 もう一人、やはり高校の同級生で、数年ののちには洗礼を受けてクリスチャンになった彼女もそうだった。

 

 高校を卒業してからも、彼女とは時々会っていたが、そのとき、彼女から、ほんの数日前に母親を亡くし、ミサに来た男性の話を聞いた。

 そのとき、彼は、こんなふうに語ったらしい。

 

 「母は神の御許に召されたのだから、また会えますから、悲しくありません。」

 

 彼女の表情は、信仰の力の偉大さに、静かに感嘆しているようだった。

 

 けれども、私は、何だかこわくなった。

 

 母親が死んだ……?……死んでも悲しくないのは、母親のことをそんなに好きではなったからなのか……いや、そうではないらしい…… 好きではない人が亡くなったのならともかくも、好きな人に亡くなられたら、悲しいのがあたりまえではないのか………

 

 

 人生は、その半分、もしくは半分以上が、悲しみや怒りで満ちている、と思う。

 

 

 喜びや楽しさは、その場限りの打ち上げ花火のように、盛大に咲き誇るが、一瞬で消えていく。

 けれども、悲しみや怒りは、線香花火のように、じくじくと、内側に熱を溜め込んでぶるぶるとふるえ、小さくなって、静かに消えていくか、最後にぽとりと落ちて消える。

 

 まるで、人生の終わりまで、その感情とともにあり、その感情とともに死んでいくかのように……。

 

 ときには、それが、人生のいっさいを、津波のように襲い、押し流してしまうほどの破壊力をもつこともある。

 

 

 そんなとき、もし、神という絶対的な存在を信じ頼ることで慰めを得られるのなら、それはそれでいい、と思う。

 

 こんなことを言っている私も、いつの日か、絶対的なものにすがらなければどうにもならないような事態にみまわれ、すんなり信者に、なんていうことが、絶対ない、とはいえない。 

 

 けれども、少なくともいまの時点では、私は、神を信じていないし、信じる気もない。

 

 それは、神、という存在が、いるのかいないのか、ということではない。

 

 “神を信じる”、という信仰心によって、自分の心や精神の働きに、不可逆的な変化が起き、それが固定化してしまうことへの、おそろしさと嫌悪感があるのだ。

 

 人間の、あたりまえで、ごく自然な感情が失われてしまったとしたら。

 

 たとえば……

 

 自分、もしくは、自分の大切な人に、取り返しがつかないようなひどいことをした人がいても、神が「汝の敵を愛せ」と言っているのだからといって、「赦す」ことができるのか?

 

 私には、それは、人間であることを放棄するに等しいことではないのか、と思われてならないのである。

 

 

 

 

 『シークレット・サンシャイン』。

 それは、夫を亡くした主人公イ・シネが、幼い息子を連れて引っ越してきた、夫の故郷、密陽市に由来するタイトルのようだ。

 

 ピアノ教師をしつつ、息子とおだやかな日々を送りたくて、地域のコミュニティになじもうと、お酒ありの会合に出席して遅くなったある夜、大切な息子ジュンが誘拐され、殺されてしまう。

 

 夫を亡くした上、心のよりどころだった息子まで殺されたシネの悲しみは、彼女の心を容赦なく切り裂く。

 近所の人に誘われ、乗り気でないまま、キリスト教のミサに出席し、彼女は、神の救いに身を委ねることにする。

 

 そして、彼女が見出した一つの救いは、刑務所に収監されている、自分の息子を殺したパク・ドソブ(もとは息子の塾の教師)に面会し、“赦し”を伝えることだった。

 

 しかし、ここで、狂いが生じる。

 

 シネは、自分が犯した罪の重さに苦しんでいるであろうパクに“赦し”を与えることで、彼が、自分の面前で、滂沱の涙を流して感謝する姿を見たかったのだと思う。

 そうして、彼に恩を着せ、その一生を支配する、という方法で、復讐を遂げようとしていたのではないのだろうか……。

 

 ところが、息子を失ったシネが、胸かきむしるような激しい悲しみに苦しんでいた間にも、早くもパクは信仰をもち、神の赦しを得て、心の平安を取り戻していた。

 

 自分の大切な息子を殺した罪人を、なぜ、自分に断りもなく、神は赦したのか。

 なぜ、自分よりも早く、罪人が、心の平安を得たのか。

 

 シネは、神を敵とみなす。

 そして、空を仰ぎ、「あんたには負けない」、と、憎しみをこめて言い、大切な息子を殺された自分よりも、殺した加害者を先に救った神に、復讐を誓う。

 

 苦しみのあまり、彼女の暴走は止まらない。

 

 「愛など嘘」、と歌う曲を大音量で流してミサをめちゃくちゃにし、自分を信仰に誘った女性の夫を誘惑し、救いを得られず苦しむシネのために祈る会には、外から石を投げつけて、窓ガラスを割る。

 

 

 神を信じることで、生々しい感情にフタをして、自分をマヒさせること。

 それできっと楽になれる、という幻想が打ち砕かれ、今度は、神を憎むことが、皮肉にも、彼女の生きる支えになったのかもしれない。

 

 

 神への信仰と感謝に、酔ったように顔を紅潮させ、賛美歌を歌う彼女よりも、神をうらみ、信仰を憎み、自己破壊的行動へと疾走していく彼女の方が、ずっと人間らしく映る。

 

 その方が、ずっと、“正気の沙汰”、というものではないのだろうか……。