私たちは、幸福を求める。
この世に生まれた以上は、幸福に生きたいと願う。
しかし、実際には、フロイトが言うように、「不幸を経験する方が、はるかにたやすい」。
フロイトによれば、私たちを、幸福から遠ざけるものは、自分の身体、外界、他者との関係の三つである。
それは、仏陀の教えによる、「四苦八苦」と重なる。
生老病死に加えて、愛別離苦(愛する者と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎む者に会わなければならない苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(人間の肉体や心から生じる苦しみ)で、八苦となる。
要するに、自分の身体と心をもって、生まれてはみたものの、ほとんどのことは、思いどおりにならず、自分の身体ですら、いつどうなるとも知れず、心は、「苦しむな」といっても、もとから苦しむようにできている。
なぜなら、「苦しみ」は、自らが危険にさらされている、という警報の役割を果たしており、警報が鳴らなければ、もっと危険だからである。
幸福になれる三つの道
では、私たちが、幸福になる方法はないのか?
答えは、「ある」。
たとえば、岡田尊司氏によれば、脳内の作用によって、私たちが幸福を感じる仕組みは、三つある。
一つは、美味しいものを食べて食欲を満たしたり、性的興奮によって放出される、脳内麻薬エンドルフィン、二つめは、困難な目標を、努力によって達成した瞬間に放出される、報酬系物質ドーパミン、三つめは、愛する者と一緒にいたり、ふれ合ったりするときに放出される、愛着と安らぎのホルモン、オキシトシンである。
フロイトもまた、人生という、このあまりにも惨めな旅路を、いくらかでもマシにしてくれるものを、三つあげている。
一つは、「自分たちの惨めさを耐えられるものにする強力な気晴らし」、二つめは、「惨めさを軽減してくれる代償的な満足」、三つめは、「惨めさを感じなくさせてくれる麻薬」である。
強力な気晴らし、というのは、うさ晴らしの酒や薬物、代償満足とは、仕事や創作活動に没頭すること、そして、三つめの麻薬とは、宗教である。
宗教について、フロイトは、こんなふうに説明している。
「しかしもっと良い方法がある。この世界を改造してしまえばいいのだ。………そして現実の世界の耐えがたいところを」「多数の人々が力を合わせて」、「願望の形成によって訂正し、この狂気を現実に持ち込」んでしまえばいいのである。
つまり、宗教は、人間の精神の働きを麻痺させる麻薬と同じであり、集団妄想の一つだという。
夏目漱石もまた、幸福へ至る道として、三つの可能性をあげている。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入(い)るか」、である。
死は、究極の逃避逃走であり、だからこそ、人は、苦痛に満ちた生の何もかもを終わらせたくなったとき、自分の命を、死に吸いとらせる。
あるいは、「気が違って」正気を失い、意識の座のすべてを、無意識に譲り渡してしまえば、あとには、恍惚たる幸福が残るのかもしれない。
そして、宗教もまた、同様である。
絶対的な善であり、正義であると信じる何ものかに、自分をまるごと明け渡し、大きな機械の一部のようになって、安堵を得る。
機械の一部になる、ということは、自らもまた機械になるのだから、迷ったり悩んだりする必要はなくなり、現実に対して、型どおりに対処していけばよい、ということになる。
人生に必要なのは“鎮痛剤”
フロイトが言っているように、人生を担うには、どうしても、何らかの鎮痛剤が必要だ。
人生という、大手術に、鎮痛剤なしで臨める者がいるだろうか?
窮屈な文明社会に適応して生きていくために、私たちは、自分をある程度改造しなければならない。
長すぎたり、形が不適合な部分は切り落とし、短すぎたり、足りない部分には付け足して、実際、私たちの(表向きの)心というものには、あちこちに、痛々しい、手術痕が残っているではないか………。
そうして、私たちは、いつでも、日常的に、現実逃避している。
むしろ、「いま、ここ」、という現実世界に、ずっととどまり続けている人は、どこにもいない。
スマホをのぞき込んでいる人、居眠りをしている人は、はっきりと目に見えて、「いま、ここ」にいないし、一見して、何もしていない人でも、頭の中では、昨日や、もっと遠い過去のこと、近い未来や、遠い未来、思い出、些細なできごと、悩みや気がかりなこと、あるいは、“死”について考えているかもしれない。
仕事をしていたって、その仕事に慣れているのであれば、何か別なことを考えたり、想像したり、思い出したりしているはずだ。
そんなふうに、人は、いつでも、ごく気軽に、タイムマシンに乗って、あちらこちらへと、ふらふら彷徨っている。
「いま、ここ」へ、戻って来るのは、自分の中で、危険を知らせる警報が鳴ったときだ。
そう。緊迫感や切迫感、痛みや苦しみが、意識を呼びさますほど、強いとき、なのだろう。