他人の星

déraciné

映画『シン・仮面ライダー』

 

 

 単純に、素直に、「面白かった」。

 

 アニメーションであること、そして何より、長きにわたるお付き合いだった『シン・エヴァ』は別として、単発映画『シン』シリーズの中では、私には、いちばん面白く感じられた。

 

 『ウルトラマン』や、『仮面ライダー』を代表格とする特撮ヒーローは、ある時期の私にとって、「ライナスの毛布」そのものだった。

 

 子どもは、子どもなりに、孤独を感じることがある。

 そばに誰もいない、ということではなくて、「ああ、自分は、ひとりきりだな」というたぐいの孤独、である。

 そんなとき、いつもそばにいてくれたのが、私にとっては、特撮ヒーローだった。

 

 

 ウルトラマンは、どちらかというと、ドラマの方に重きがおかれているのに対して、仮面ライダーは、「悪の組織」ショッカーによって生み出される、個性豊かな(ちょっと気持ちの悪い)怪人との戦闘シーンに醍醐味があったように思う。

 

 今回の『シン・仮面ライダー』にも、その醍醐味はしっかりと描かれていたと感じた。

 キャラクターや、色彩、存在する場所やイメージも豊かなオーグメント。

 そして、仮面ライダーならではの、戦闘シーンのかっこよさを存分に味わい、最後のクレジットのところで流れる『仮面ライダー』の歌に、思わず自然に、体がリズムをとって動き出すほどだった。

 

 

 いずれにせよ、ウルトラマンも、仮面ライダーも、正義のヒーローというものは、とにかくかっこいいし、ずっと憧れの対象だった。

 

 あれから50年。

 

 こうした時代の中にあって、庵野秀明氏が、いったいどんなふうにこの作品を撮るのか?

 興味津々だった。

 

 

 最も印象に残ったのは、SHOCKERが、「悪の組織」ではなく、「愛の組織」という点だった。

 

 その正式名称は、Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodelling(脚本協力の山田胡瓜氏の提案だそうである)。

 

 私は、英語が得意な方ではないが、ニュアンス的には、「解析された知識を埋め込み再構成された持続可能な幸福」、というような意味合いなのだろうか。

 

 その「持続可能な幸福」を定義したのは、SHOCKER創設者により生み出された人工知能アイ(愛、にかけているのだろう)であり、具体的には、「最大多数の最大幸福が人類の幸福ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であり、人間の魂を、「ハビタット(生息)世界」に連れ去ることによって達成されるのである。

 

 

 光瀬龍原作/竹宮惠子画の『アンドロメダ・ストーリーズ』を思い出した。

 

 惑星アストゥリアスコスモラリア帝国は、折しも、皇太子イタカを新王に戴かんとする平和な国だったが、マザー・マシンに侵略される。

 マザー・マシンの目的はただ一つ、「すべての人間の理想郷建設を」という、創造主である老師クフの命令(プログラム)の実行であり、生命ある星をみつけると、片っ端から寄生し、コウモリやクモなどの(気味の悪い生き物のイメージは、普遍的なのかも)小型機械によって、その星の人間の脳を乗っ取る。

 

 そして人は、精神と肉体を分けて保管され、そこにいる限り、生きる不安や焦りから守られ、安らいで、幸福でい続けられるのである。

 まさに、Sustainable Happinessそのもののように…

 

 しかし、そうした人間はもはや、全体主義的な善や幸福に反逆する心を持ち合わせた「生きた人間」ではなく、意思を意識下で殺された機械にとって好都合な人形でしかない。

 

 そして、その全体主義的な善や幸福に、反逆を企てたものは「裏切り者」とされ、抹殺される。

 

 「裏切り者には、死を」、である。

 

 

 映画のパンフレットの後ろの方に、SHOCKERのメッセージが掲載されている。

 「それぞれの幸せの形を組織の力をもって、全力で肯定し」、「人類の幸福を探求する愛の組織SHOCKER」。

 

 カルト集団的であり、このあたりに、庵野氏流の皮肉が最大限に込められているのかもしれない。

 

 対して、生まれはSHOCKERでありながら、それに立ち向かう仮面ライダー1号、2号、緑川ルリ子は、孤独であり、安易に群れようとせず、愛ではなく、信頼によって結ばれている。(愛、に負けず劣らず、信頼、というものも、とても難しいものだが…)。

 

 つまり、愛と組織は、相容れない、ということである。

 

 誰かが、強い権力や金力、立場や地位を利用して、これこそが「愛」であると決めつけ、「善かれ」と思って、「正義感」によって、組織の力でその愛を実行しようとすると、どうなるかは、人類の歴史が、いやというほど物語っている。

 

 

 ちなみに、忘れられがちだが、もっとも身近な組織は家族である。

 家族こそ、愛の組織だと、信じて疑わない人がどれくらいいるのかはわからない。

 けれども、私は、家族こそが、もっとも身近なSHOCKERだと思っている。

 

 強い立場にあるものが、自分が善かれと思ったことを、「愛」だといって、他の構成員に押しつけ、それに抗うことができない空気が存在すれば、恐怖政治と変わらない。

 (気づいてしまったら、家の居心地も悪くなるし、自分自身もつらくなるので、無意識に自己洗脳して、“家族がいちばん”と思い込む、ストックホルム症候群に陥る人も、そう少なくないのではないだろうか?)

 

 

 人間の幸福が、「最大多数の最大幸福」ではなく、「最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であったとしても、同じことである。

 

 深い絶望を抱えた人が、その絶望をどうしたいのか、哀しみや苦しみを忘れたいのか、忘れたくないのか、いったい何が救済となるのか、それもまた、幸福と同じで、人それぞれである。

 

 

 自分が幸せなのかどうかを、最終的に決めるのは、自分でしかない、と思う。

 たとえ他人から見て、「幸せ」そうに見えても、本当に満たされているかどうかは、本人しかわからない。

 

 けれども、私たちは、自分ひとりで自分を認め、満足できるほど強くはない。

 

 『アンドロメダ・ストーリーズ』の中で、マザー・マシンの創造主でありながら、自らの間違いを悔いて、その命と引きかえに、マザー・マシンの壊滅を図る老師クフは、「人間は弱く、機械がつくるパラダイスの誘惑に勝てない」、と語っている。

 

 だからこそ、他の人の生活や生き方をのぞき見たり、世間一般の基準に照らして、自分はどうなのかがひどく気になったり、他の人に、自分の幸せに注目してほしい、ほめてほしい、認めてほしい、という気持ちもわいてくる。

 

 

 幸せになりたくて、幸せになるために生まれてきたはずが、

 幸せは、いつでも、虹の向こうにある。

 

 虹のたもとを、たずねていく間にも、虹は消え失せ、

 また再び、あらわれた日に、追っても追っても、同じこと。

 いつまでも、虹のなかには、入れない。

 

 愛こそが、幸せへと運んでくれる翼だと、信じようにも、

 その翼は、ひどくアンバランスで、ほんの少しの疑惑や葛藤に脆くも崩れ去る。

 

 そもそも、「愛」って何?

 

 

 私たち人類が、自ら、服従欲求を露わにして、ときに、全体主義的な善と幸福に屈服し、傾倒することがあるのも、個人の主観的幸福追求の尋常ならざる困難さと、それゆえの失望や絶望が、あまりに苦しく、深く、つらすぎるから、なのかもしれない。