他人の星

déraciné

ドキュメント『シン・仮面ライダー~ヒーローアクション挑戦の舞台裏』(1)

 

 

 「自己嫌悪、よく実感する感覚。

  自己肯定、あまりなじみのない感覚。

  自分を一言で表せる言葉は、「浅はか」に尽きる。」

 

                ―庵野秀明『フィルムを作ることの快感』

                (NEON GENESIS EVANGELION サントラCDより)

 

 

 

 「いったい、何が始まったのだろう?」

 

 というのが、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の社会的な“ざわめき”を、まだ傍観者として見ていたころの、印象だった。

 

 その後、知り合いから借りた、番組を収録したビデオ(時代を感じますね!)を見て、ドハマりし、以来、何か、それにふさわしい場面に出くわすと、劇中のセリフが口をついて出る。

 

 「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ………」

 「私が死んでも、代わりはいるもの」

 「笑えばいいと思うよ」

 「バームクーヘン?」

 「あんた、バカぁ?」

 「自分を褒めてもらいたがっている。たいした男じゃないわ」

 「もっと僕に優しくしてよ!」

 「偽善的!ヘドが出るわ!」

 「シンクロ率が、400%を超えています!」…………

 

 そういう末期症状が出たのは、『機動戦士ガンダム』(ファースト)以来、だと思う。

 

 そして、作品を気に入れば、「いったいどんな人が、これを?」と、創作者に、俄然、興味がわいてくる。

 

 エヴァは、鷺巣詩郎氏の音楽もまた、大きな魅力の一つだった。

 私は、すぐに、サントラCDを手に取った。

 

 そこに書かれてあった、庵野秀明、その人となりを知る手がかりになるであろう、最初の資料、それが、「1995.10.6 オン・エアが始まってしまった後に、スタジオにて」、というこの文章であった。

 

 ……が、しかし、そこには、冒頭の部分にある「浅はか」をはじめとして、「小心物」、「さして取り柄のない」、「異常」、「バカ」、「非力」などなど、ありとあらゆる自己否定の言葉が並んでいた。

 

 私は、直感的に、「噓だ」、と思った。

 

 こういう、自己否定や自己卑下の言葉を、何度も何度も執拗に繰り返す人に限って、ものすごい自信とプライドに満ちた人なのだ、という答えを、私の脳の中に蓄積されたデータが、はじき出した。

 

 何となく、苦手かも……。

 

 以来、その印象は、変わっていない。

 

 しかし、だが、すなわち。

 

 「きみのことは苦手だが、きみの才能は、認めざるを得ない」、というスタンスで、庵野氏の作品に興味をもち続けてきた。

 

 とにかく、面白い物語をみせてくれる、数少ない創作者だからである。

 

 

 そして先日、放映されたドキュメントを見て、思ったのは、庵野監督という人は、まさに、まるで右脳、そのもののような側面をもった人なのではないか、という印象だった。

 

 何かを求めて、体の動くまま、ふらふらと、現場を彷徨する姿が、そう見えたのである。

 

 

 脳は、大きく右脳と左脳とに分かれていて、その役割は、はっきりと分かれるものではないにしろ、それぞれに違う特徴をもつ。

 

 「心が動く」とき、先行して反応するのが右脳であり、私たちは、その段階では、自分の心が動いたことをまったく認識していない。

 

 それに対して、右脳がなぜ、何に反応したのか、モニタリングし、実況中継し、理由を後付けし、主に言語で解説しようとするのが、左脳である。

 この段階に至って、私たちはようやく、自分の心が動いたことを意識できる。

 

 たとえば、男性に、A、という女性の顔の写真と、B、という女性の顔の写真を見せて、好きなタイプの方のボタンを押させる、というものなどが、右脳の反応と左脳の働きについての実験としては、よく知られたものだと思う。

 

 人は、自分が意識できない、かなり早い段階で、どちらが好きかを選んでいる。

 これが、右脳の働きである。

 そして、それを、「どうして、どんなところが好きなの?」という質問に、もっともらしく答えることができるよう、理由を後付けするのが、左脳の働きである。

 

 「目が素敵」、とか、「唇が魅力的」、とか、もっともらしい理由を言うけれど、本当は、本当のところは、その説明で合っているのかどうか、誰にもわからない。

 

 実際、実験では、わざと、その人が選ばなかった方の女性の顔の写真を見せて、「この女性の顔のどこが気に入ったのか」ときいても、ほとんどの人が、自分が選ばなかった方の女性の顔だなどと気づきもせずに、もっともらしい理由を答えたのである。

 

 

 つまり、口をきかない右脳が、ただ興奮したり、集中したりしているのを、左脳がなんとかこじつけて理由を考え、場合によっては捏造する。

 

 とにもかくにも、この世の中では、理由を言葉にして、(耳に聞こえたり、目に見えるものに変換して)出力しないことには、人は、他人だの、社会だの、世界だのと、コミュニケーションによって「つながる」ことができないからである。

 

 

 

 

                               《つづく》