他人の星

déraciné

「無神経」

 

 

        「食べなくて いい って 思っちゃうんだ」

        と 彼女は 言った

 

        もう 私を 攻撃しないで と

        笑顔で 守る 細い からだ は

        秋の陽に 透ける 蜘蛛の巣 みたいに 消えそうで

        わたしは その手を とりたく なった 

 

        けれども それは

        彼女の もの ではなくて

        わたしの 淋しさ だから

        わたしは わたしを 後ろ手に 縛った

 

        それでも 口は 勝手に 動く

        「食べて」「食べなきゃ」 なんて くどくど と

        やがて わたしが わたしに 苛立ち

        「うるさい」 と 怒鳴る

   

 

        静かに 絶望 していることに 気づかず

        ただ ただ そこで 微笑んでいるひとに

        「死なないで」 などと 物騒な言葉を かけることが 

        どういう こと なのか 

        疑いもなく いいこと なのか

 

        わたしには わからない

 

        時を 待たず

        死へと 足早に 近づいて いこうとする ひとに

        「生きて」 と 言いたく なるのは いつも

        どこか ひどく 機械的で 自動的で

 

        命 見捨てた 「人でなし」 よばわり されるのが

        そんなに こわい のか

 

        あるいは

 

        わたし だって 苦しいんだ

        あんただけ 逃げる なんて 許さない という 羨望か

 

 

        幸せへの 道のりが かかれた 地図も

        愛 という名の たからものが 隠された 秘密の暗号も

        手渡せない どころか

        自分だって もっていない 人間が

 

        どうして ひとに

        「死ぬな」 などと 言える のか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(5)

 

 「たいていの場合、動物は悲しそうよ」と彼女は言いつづけた。

 「歯が痛いとか、お金をなくしたとかいうためではなくて、人生全体が、いっさいのものがどうであるかを、しばしのあいだ感じたために、人間がひどく悲しんでいる場合、人間は真実悲しいのよ。そういう場合、人間はいつもすこし動物に似ているわ」

 

                  ―ヘルマン・ヘッセ荒野のおおかみ

 

 

 私は、動物の中でも、キリンが好きです。

 長いまつげの下の、大きな目は、何だかいつも悲しげで、もの憂げに見えて、それがとても美しいと感じるからです。

 

 動物が、しばしば、言葉では到底説明できるものではない、深淵にある真実をまっすぐにみつめているような、穏やかで静かな思索にふける哲学者のような顔をするのを、私は、自分の家で飼っていた犬に見たことがあります。

 

 夕陽に染まる庭のどこかを、じっと静かに見ている彼女が、そんな表情をしたのを見たとき、私は、何か、動かしがたいものに圧倒されるような気持ちになりました。

 

 

 

 “抑うつリアリズム”

 

 うつ病とは、「マイナス思考」、という認知の歪みを特徴とする病だ、という世間一般の認識とは、どうも何か違うらしい、ということを示す実験があります。

 

 1979年、心理学者のアロイとエイブラムソンは、うつ病者のグループと、健常者のグループに分けて、ある実験を行いました。

 

 それは、「ボタンを押すと緑色の明かりが点灯する」ことを確かめるという単純なもので、被験者に求められるのは、ただボタンを押すことだけでした。

 

 そのあと、被験者たちは、緑色の明かりが点灯することと、自分がボタンを押すことの間に、どのような関係があったと思うか、と聞かれます。

 

 実は、緑色の明かりが点くか点かないかは、実験者側がコントロールしており、被験者がボタンを押すこととは、何の関係もなかったのですが、それを言い当てたのは、健常者群ではなく、うつ病者群の方でした。

 

 興味を引かれたアロイとエイブラムソンは、さらに、実験をすすめました。

 

 今度は、実験参加者をランダムに分けて、片方のグループには、一人に5ドルずつ渡し、「緑色の明かりが点かないと、あなたはそのたびにお金を失う」と言い、もう片方のグループには、お金を渡さずに、「緑色の明かりが点けば、お金がもらえる」、と言いました。

 

 この実験でも、被験者がボタンを押す、という行為と、緑色の明かりが点くということにはまったく関係がなく、(ただし、あまりはずれても実験の仕組みがばれてしまうので、後半、被験者がボタンを押すと緑色の明かりがつくように調整していきます)、実験後に、また感想を聞きます。

 

 その結果、健常者は、お金を得られるよう努力すれば(緑色のボタンを押すタイミングさえ間違わなければ)、お金をもらえるようになる、と認識しており、自分は努力したのに、お金がもらえないのはおかしい、と考えていました。

 

 それに対して、うつ病者は、自分がボタンを押して、緑色の明かりが点くか点かないか(お金をもらえるかもらえないか)は、自分のコントロール外であり、お金がもらえても、それは偶然(運)だったと、事実を正しく認識していたのです。

 

 彼らは、こう言ったのです。 

 「だって、緑色の明かりが点くか点かないかは、そちらでコントロールしているんでしょう?」

 

 

 

 「彼は同様に正しく、ただメランコリー的でない他の人々よりも鋭く真理を捉えているにすぎないように見える」

 「どうしてそのような真理を手にするために最初に病気にならねばならないのか」

 

                        S.フロイト『喪とメランコリー』

 

 

 うつ病者の、気分が沈んで元気のない様子を見ると、多くの人は、彼らのことを、「後ろ向き」で、ものごとを正しく捉えることができず、マイナス思考に偏っている、としか見ませんが、実際には、必ずしもそうとはいえないのです。

 

 他の人なら、目をつむったり、視線をそらしたりできる現実から、目をそむけることができず、真正面から見てしまうがために、彼らはすっかり意気消沈し、落ち込んでしまうのです。

 

 

 つまり、うつ病者の問題は、「後ろ向き」なことではなく、むしろ、「前向き」すぎること、と言った方がいいのでしょうね。

 

 

 

「ぶつかるかもしれない」は「確実にぶつかる」

 

 さて、映画の話に戻ります。

 

 『メランコリア』、というのは文字どおり、うつ病、うつ傾向のことですが、宇宙の彼方からやってきたこの青い星は、地球と衝突する運命にあります。

 

 うつ病者に対して、悲観的な方向で「~になるかもしれない」、と伝えると、だいたい彼らは、ほぼ100%「~になる」、と考えてしまうかのように…。

 

 

 興味深いのは、ここで、形勢逆転、というのか、クレアとジャスティン姉妹の心理状態が逆転する、ということです。

 

 人間社会の中に、落ち着き払って居心地の良い場所を確保し、素敵に美しく暮らしてきたクレアは、惑星メランコリアが、“地球と衝突するかもしれない”可能性を知ってからは、極度の不安と心配で、みるみる落ち着きをなくしていきます。

 

 対照的に、これまで気分が沈み込み、お風呂にも入れず、食欲もなかったジャスティンは、甘いジャムを、心ゆくまでうっとり、むさぼるように舐め、お風呂にも入って、すっかり元気になります。

 

 

 破綻した人間関係のお手本から、安定した愛情をもらえなかったであろうこの姉妹は、それぞれに、どうやってそこから受けた傷を修復したのか、その方法が違いました。

 

 例えてみれば、幼い頃の家族関係というものは、家を建てる際の、(つまり、これから先の人生を生きていく上での)土台や柱のようなもの、なのではないでしょうか。

 

 ボロボロの基礎を、念入りに覆い隠し、修復し、その上に、分厚く美しい豪華な装飾を施した「家」に仕上げたのがクレアなら、ジャスティンは、壊れた基礎部分をそのままに、崩れ落ちた廃屋のような「家」にずっと暮らしてきたようなものかもしれません。

 

 一般的には、クレアのような人を、「過去を努力によって克服した」「前向き」な人、ジャスティンのような人を、「破綻した過去をいつまでも乗り越えられない」「後ろ向き」な人、と言うのでしょう。

 

 けれども、実際には、過去に背を向けたのはクレアの方で、ジャスティンは、その過去をまっすぐに見つめたままで生きてきたのだと思います。

 

 

 ジャスティンの夫になるはずだった男性、マイケルは、ジャスティンのために買った、というりんご園の写真を見せながら、こう言いました。

 

 「十年後、きみは木陰に椅子を置いて座っているだろう。その頃も、気分が落ち込むこともあるかもしれないが、りんごがきみを幸せにしてくれる」。

 

 

 りんごが、落ち込んでいるジャスティンを幸せにするなどということは、まずあり得ないでしょう。

 

 もし、ジャスティンが幸せなら、彼女の口に、りんごは甘く、とても美味しいでしょう。

 けれども、彼女が落ち込んでいたなら、りんごは苦く、まるで灰のような味がすることでしょう。

 

 そんな幻想を抱いている男性と結婚しても、うまくいくはずはなく、彼女は、それをちゃんとわかっていたのです。

 

 結婚式のばかばかしい大騒ぎ、「おめでとう」「幸せに」「愛してる」、そのすべてが、嘘くさい空虚さに満ちたものであることと一緒に……。

 

 

              

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気持ち 悪い」

 

 

        ありがとう ありがとう って言うたびに

        いつも どこかが むずむずする

 

        その ことばを ならった日々を

        思い出す からだ

 

        「“ありがとう”は?」

        ママが 言った

        「お友だち」と そのママの前で

 

        もらったのが

        クッキーだったか チョコレートだったか キャンディーだったか

        忘れてしまった けれど

 

        わたしは 思った

        ははぁ わかったぞ

        ひとから なんか もらったとき なんか してもらったとき

        「ありがとう」 って言わないと まずい らしい

        しかも これはたぶん 体面 ってやつだ

        いま わたしが 「ありがとう」って 言わないと

        わたしのママも お友だちのママも 

        気持ち悪く なっちゃう らしい

 

 

        ごめんなさい ごめんなさい って言うたびに

        いつも どこかが むずむずする

 

        その ことばを ならった日々を

        思い出す からだ

 

        「“ごめんなさい”は?」

        ママが 言った

        「お友だち」と そのママの前で

 

        どっちが 何が

        うまくいかなかったのか 気に入らなかったのか

        忘れてしまった けれど 

 

        わたしは 思った

        ははぁ わかったぞ

        ひとの 気分を 害した らしい とき 

        「ごめんなさい」 って言わないと まずい らしい

        これも たぶん 体面 ってやつだ

        いま わたしが 「ごめんなさい」って 言わないと

        わたしのママも お友だちのママも 

        気持ち悪く なっちゃう らしい

 

 

       「ありがとう」のときも 「ごめんなさい」のときも

       ママの 目は 言っていた

       「はやく」

 

       重いノドを 開いて 発声したら

       口が 恥ずかしがっていた

       言いたいと 自分で 思ったことじゃ ないから

 

 

       「ありがとう」と 「ごめんなさい」は 善い言葉だから

       いつだって ちゃんと 言いなさい と

       何十回 何百回 言われた けれど

 

       言うたびに やっぱり

       何だか むずむず するし

       口が 恥ずかしがってしまう

 

       そのことば ではない

       わたしの 気持ちは

       どこへ いけば いいのか

       いつも やり場に 困ってしまって

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(4)

 

クレアとジャスティ

 

 さて、幸福になれるチャンスも、夫も職も、何もかもなくした妹のジャスティンは、その後、うつ病の症状でいうところの、昏迷状態に陥ります。

 

 昏迷とは、考えること、感じること、何かをしよう・したいという意志や意欲、ほぼすべての精神活動が制止し、日常生活に必要な活動が何もできなくなってしまう状態です。(ひどくなると、人と視線を合わせず、呼びかけにも反応しなくなります)。

 

 そんな妹に、何とかタクシーに乗って自分の屋敷まで来るよう説得したのが、姉のクレアでした。

 

 長かった髪を切り、生気のない青い顔をしたジャスティンは、自らの内面の闘争にすっかり疲れ果て、あれだけ好きだったお風呂に入ることもできません。

 

 食事も、彼女の好物だからとクレアが用意したミートローフを、一口食べるなり、「まるで灰のようだわ」と、それ以上、食べすすめることもできず、涙を落とすばかりです。

 

 それでもクレアは、まるで母親のように、妹の面倒をみるのです。

 

 

 そんなクレアとジャスティンの姉妹に、私は、聖書の中の、マルタとマリアの姉妹の話を思い出しました。

 

 イエス・キリストと十二人の弟子たちが、旅の途中、ある村に立ち寄ると、マルタという女性が、喜んで、彼らを家に迎え入れます。

 

 二人姉妹の姉、マルタは、主イエスをもてなそうと、あれこれ準備や支度に忙しくしているのですが、その間、妹のマリアは、姉を手伝うこともなく、ただイエスの足もとに座り、話に聞き入っています。

 

 そこで、マルタは、イエスに、マリアに自分を手伝うよう伝えてほしいと言うのですが、イエスは、それに応えて言いました。

 

 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

                        『ルカによる福音書10-41,42』

 

 

 ですが、マルタの不満は、おそらく、多くの人がよく理解できる、よく知っている不満ではないのでしょうか。

 

 大切なお客さまをもてなすのに、あれもこれも、やることはいっぱい。

 私だって、イエスさまの話を聞きたいのに。

 まず、やるべきことをやってしまって、それから二人で話を聞けばいいのに、なんで私だけ?

 マリアったら、わがままなんだから!

 

 

 要するに、姉のマルタは、「~べき」、という「正しさ」や規範で動いており、妹のマリアは、「~したい」、という自らの思いや欲求で動いているのです。

 

 姉のマルタはクレア、妹のマリアはジャスティンになぞらえることができるのではないでしょうか。

 

 

 「ときどき あなたが ひどく憎くてたまらない」。

 

 クレアが、ジャスティンへ向けて、劇中、二度ほど発したセリフです。

 

 クレアとジャスティンは、性格や生活信条、行動の面で、対照的です。

 

 この姉妹の母親が言うように、「分別ある娘」クレアは、大金持ちの科学者と結婚し、18ホールものゴルフ場付きの豪邸に住んでいます。

 夫婦関係も円満、一人息子のレオは、まだ幼さの残る少年で、かわいいさかりです。

 

 妹のジャスティンが、しばしば「理解できない」行動を取るのに対して、クレアは、多くの人が望ましいと感じる、常識的な行動のできる、堅実な女性です。

 

 “一財産”かけて(それでも、大金持ちの夫には何でもない額ですが)、お膳立てした披露宴を、当の新婦、妹のせいで台無しにされ、ブチ切れても、うつ病が悪化した彼女を引き取り、面倒を見る寛容さと優しさをもっています。

 

 けれども、彼女たち姉妹は、不信に満ちた人間関係と、破綻した夫婦関係のお手本にしかならなかった、同じ両親のもとで育ったはずです。

 

 にもかかわらず、なぜ姉妹で、こうも違うのでしょうか………

 

 

 

傷ついた心の修復法

 

 他の人から見ると、あまりに無茶でめちゃくちゃな行動をとるジャスティンに比して、クレアは、他の人から見てわかりやすい方法で、過去の埋め合わせをしているかのように見えます。

 

 自分は、父と母のようには決してならない、なりたくない。

 そのための夫選びにも、成功したようです。

 高名な科学者である夫のジョンは、穏やかな性格で、クレアにも、行き届いた気遣いを見せます。

 

 その上、何と言っても、彼は大金持ちです。

 

 先々の心配や不安とはまったく無縁の豪邸に住む「分別ある」奥さまは、誰の目にも、望ましく、うらやましく映るに違いありません。

 

 要するに彼女は、誰の目から見ても「正しい」、「非の打ちどころのない」、「幸せ」な、人並み以上の人生と生活を実現してみせることで、自分の自尊心を修復したのではないかと思います。

 

 

 それに対して、ジャスティンは、自分の父と母の、不信に満ちた人間関係を全身で浴びるように感じてきたときから、まるで時間が止まってしまったかのようです。

 

 彼女の行動もまた、深手を負った自尊心を修復するためのものなのですが、他人の目から見れば、「とてもそうとは思えない」、「迷惑だ」、などと思われてしまいがちなのではないでしょうか。

 

 

 ですが、このような行動は、PTSD心的外傷後ストレス障害)の症状に、とてもよく似ています。 

 

 過去のトラウマ経験があまりに強烈だった場合、それを過去にすることができず、むしろ、似たような経験を繰り返し自分に体験させることで、途切れてしまった過去との融合と和解を実現しようとして、(当然、うまくいくはずもなく)、懲りずに失敗しつづけるのです。

 

 とてもつらそうで、苦しそうで、まわりにも迷惑がかかっているし、「やめればいいのに……、っていうか、やめてほしい」、といってもそう簡単な話ではなく、わかっていても、心についてしまったクセのように、勝手に空回りしつづけるのです。

 

 

 和解できない過去に早々に背を向け、世間一般の規範に照らして「正しい」ライフスタイルを自分のものにすることで自尊心を回復したクレア。

 そして、和解できない過去に、未だ正面きって、負け戦に挑み続けているジャスティン。

 

 

 彼女たち姉妹は、自尊心の修復法も違えば、自分自身を守る方法も、“こわいもの”や不安に思うものもまた、違っているようです。

 

 

 

 そんな彼女たちの頭上には、地球と死のダンスを踊る惑星『メランコリア』が、着々と近づきつつあったのです。

 

 

 

 

                                 《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

双頭の 蛇 

 

 

        何もかも 気に入らない

        ナニモカモ キニイラナイ

 

        何だって?

        何かが おまえの お気に召すようになるとでも?

 

        何もかも 思いどおりにならぬ

        ナニモカモ オモイドオリニナラヌ

 

        何だって?

        何かが おまえの 思いどおりになるとでも?

 

        無数の あざけり笑いが 不気味な地響きのように

        千里先まで 立ちはだかる

 

 

        雨にあらわれ 澄みきった 青い空を 見た日

        「世界ハ 愛スルニ 足ル」と思った

        ああ ほんの少し ほんの少しでいいから

        ひだまりで この 冷たいからだを あたためたい

        と思った 次の瞬間

        おまえは すかさず わたしの 頭を かみ砕いた

 

 

        馬鹿だね おまえ

        分もわきまえず 陽のしたまで のこのこ 出ていって

        その醜さを あたりにさらす気かい

 

        「光も 熱も 優しさもない 冷たい夜に

        ただ すこし なぐさめが欲しかっただけ」だって?

 

        偽りを 言うのじゃないよ

        いったい 何が ほしいのさ

        イッタイ ナニガ ホシイノサ

        言ってみたまえ

        うす汚いヤツめ

 

 

        木にのぼろうとしては 引きずりおろされ

        川に入ろうとしては 岸に戻され 

        南へ 向かおうとすれば 北へ

        東へ 向かおうとすれば 西へ

 

        どちらが 前で どちらが 後ろか

        しまいに 互いの罵声で 何も 聞こえなくなる

        「わたしが 前へ 進もうとするのに

        おまえが 後ろへ 戻ろうとする」

        「ワタシガ 前ヘ 進モウトスルノニ

        オマエガ 後ロヘ 戻ロウトスル」

 

 

        ああ 動けない 動かない

        アア 動ケナイ 動カナイ

        今日も このまま 日が暮れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(3)

 

 

 ママとパパが おまえをだめにした

 そのつもりはなかったんだろうが そうなったのさ

 彼らは 自分たちの失敗を たっぷりおまえにつめこんだ

 おまえのためによかれと よけいなものまで追加して

 

 でも 彼らだって だめにされたんだ

 古くさい帽子と コートを着た愚か者にね

 しょっちゅう ひどく混乱しているか

 でなければ 互いの首を絞め合っているようなやつらにさ

 

 人は 人に 不幸を手渡す

 浅瀬の暗礁を 深くえぐるように

 なるべく早く 逃げ出すことだ

 そして おまえは 子どもをもつな

 

                 フィリップ・ラーキン『これも詩だ』

                                                                  Philip Larkin ‘This be the verse‘

 

 

 ※何とか訳してみました。大胆な意訳、あるいは誤訳、ご容赦ください……

 

 

 

“家族教”?

 

 前回、あらゆる広告やコマーシャルに、幸せの象徴として、仲睦まじい親子、家族の絆が象徴として多用されている、と書きました。

 

 それは、売りたい商品や企業のイメージアップのみならず、おそらくは、社会集団の最小単位である家族を安全なものにしておいて、社会の秩序や安寧を維持しようという、社会防衛のための重要な役割を、家族に担わせよう、という意図がなきにしもあらず、なのではないかと、私は思っています。

 

 ……ところで、私たちは、知らず知らずのうちに、あらゆるメディアを通して、こうした幸せ家族イメージをすり込まれているのですが、その効果は、いかほどのものでしょうか。

 

 ここに、興味深い数字があります。

 今年2月、10歳~15歳の男女3,600人を対象として行われた内閣府調査によれば、「自分は親から愛されていると思うか」という質問に対して、「あてはまる」、「どちらかといえばあてはまる」合わせて96.4%、また、「あなたは今、自分が幸せだと思うか」という質問に対しては、「そう思う」、「どちらかといえばそう思う」合わせて93.6%の青少年が、そのように答えています。

 

 この結果を見て、Wow!!日本って、なんて幸せな国なんだ!!と思う人は、どれほどいるでしょうか。

 

 私は、むしろ、こわさやおそろしさを感じました。

 

 というのは、通常、調査などを取ると、「はい」、つまり賛成や肯定的意見と、「いいえ」、つまり反対や否定的意見が、五分五分、とはいかなくとも、せいぜい、6対4くらい(極端に振れても7対3)で拮抗するのがふつうなのです。

 

 なのに、肯定的意見だけに偏って9割、というのは、異常で、尋常ならざる事態です。

 

 もしかして、家族は、幸せなものであるべき、とか、いつの間にか、洗脳されてしまったのでしょうか?

 

 陰謀とか、オカルトとか、そういう意味で言っているのではありません。

 

 メディアによる、恋愛、結婚、出産、家族の幸せイメージすり込みが、このところ、かなり露骨だな、と私自身、感じているからです。

 

 逆に、人を、犯罪者とか、反社会的危険分子にする環境要因を、「孤立」だと、ことさら偏って強調するところを見ると、なおのこと、その意図が、透けて見えてくるのではないでしょうか。

 

 人とのつながり、つまり「絆」(これはもとはといえば「絆し」(ほだし)、つまり、牛や馬をつないでおく縄のこと)によって、連帯責任をもたせ、社会にキバをむく前に、その「危険な」キバを抜いてしまう。

 おそらくは、そんなところでしょうね。

 

 

 実際、私たちが、ニュースなどで見聞きして感じるイメージと違って、凶悪犯罪は、増えていません。

 

 つい最近も、見知らぬ人を殺したり、傷つけたり、そういうニュースばかりを取り上げて、世の中物騒になった、危険だと、あおり立てていますが、それは、事実とまったく異なっています。

 

 たとえば、令和2年の警察庁の犯罪情勢を見ると、令和2年の刑法犯の認知件数は61万4,231件(人口千人当たりの刑法犯の認知件数は4.9件)で、戦後最少だった令和元年をさらに下回っています。 

 

 ちなみに、重大犯罪の被害者になりやすいのは誰かをみてみると、日本は、殺人、傷害致死で、家族・親族が被害者になることが5割以上と最も多くなっています。

 それに対して、殺人に限って見てみると、カナダ、アメリカともに、加害者と被害者の関係は友人・知人である場合が多いのです。(法務省『家庭内の重大犯罪に関する研究』)

 

 要するに、現代日本は、全体として、非常に安全な社会になっており、また、見知らぬ他人が重大犯罪の被害者になることはまれで、家族が被害者になる率が高いという、他の国と異なる特徴をもっているのです。

 

 ……あらあら、ヘンですね。

 

 「私は親から愛されている」、「私は今幸せ」、などと、9割もの青少年が思っている国で、家庭内で重大犯罪が起こる率が高いなんて。

 

 一般に、顕在的な数値として現れる自殺や他殺の10倍は、未遂に終わっており、その周囲には、さらに100倍、1000倍もの、苦悩する人がいる、と考えられています。

 

 大義名分、「家族は愛すべき存在」、だから、「私は愛されている」、けれども、何だか、関係が近い分、適切な距離感を保ちにくくて、決して強く憎悪しているわけではないけれども、「何だか、辛い」、「何だか、息苦しい」、「何だか、淋しい」………。

 

 家族に対して、そんな複雑な思いを感じている人は、それほど少なくはないのではないでしょうか?

 

 

 もしかしたら、人は、家族から、愛し方・愛され方を学ぶのではなくて、傷つけ方・傷つけられ方を学ぶのかもしれません。

 

 

 

“自虐の縄”

 

 話を、『メランコリア』に戻します。

 

 おそらくは、親によって、傷つけ方と傷つけられ方を、十二分に教わったらしいジャスティンの、自虐行為には、歯止めがかかりません。

 

 マイケルにとっては、精一杯の愛情表現だった、りんご園の土地の写真の贈り物のみならず、結婚初夜、美しくゴージャスな妻をかき抱きたい思いでいっぱいのマイケルさえおきざりにして、ジャスティンは、ひとり、ふらふらと、さまよい歩きます。

 

 そして、彼女から宣伝広告のアイディアを引き出すようにと、上司からさしむけられ、ストーカーのように、ジャスティンをつけ回すつまらない男と、まるでトイレで用を足すようにセックスし、上司を「権力欲のかたまり」と罵倒し、彼女は会社をクビになります。

 

 それだけでなく、最愛の妻となるはずのジャスティンの勝手な行動についていけず、ついに、マイケルさえも去っていってしまいます。

 

 

 “愛すべき・愛したかった”対象から、ひどく傷つけられた過去をもつものの、自傷や自虐の凄まじさは、時として、驚くほど容赦がありません。 

 

 

 愛情の対象として、何度も繰り返し喪った両親を、ここへ来て、再び喪い、自分の才能を活かせる職場も地位も失い、夫となるはずだった男性も失い、このあと、ジャスティンは、奈落の底まで、真っ逆さまに落ちていくのです。

 

 

 

 

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『メランコリア』(2)

 

 

 「結婚しちゃいけない!まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」

                 デルモア・シュウォーツ『夢で責任が始まる』

 

 

 

 “しあわせ”、と聞いて、多くの人が思い浮かべるものは、何でしょう?

 

 それは、テレビのコマーシャルを見ていると、わかるかもしれません。

 

 人間が、良いイメージの中でも、最高に良いイメージをもつのは、「幸せ」であり、コマーシャルは、人間が無意識的に“快”と感じるものを、繰り返し、しつこく何度も見せることで、その商品と、企業へのイメージアップをはかります。

 

 なぜなら、通常、人は、良い気分のときに、お金を使いたくなるからです。

 

(ですが、イライラしていたり、むしゃくしゃしているなど、“不快”なときにも、購買意欲は高まるそうです。私は、何かを「買いたい」、という欲求と、何かを「食べたい」、という欲求は、とてもよく似ていると感じます。「買いたい、でも、節約しなきゃ」、「食べたい、でも、ダイエットしなきゃ」、どちらにも後ろめたさ、いわゆる“罪悪感”が伴います。実は、この罪悪感という堰を自ら壊すという背徳感が、強い快感を生み出し、これがクセになると、食行動の異常や障害、買い物依存などにつながりやすいのです)。

 

 商品と、企業のイメージアップ。そして、購買意欲の促進。

 コマーシャルは、一石二鳥ならぬ、一石三鳥を狙うことができるわけです。

 

 ところで、食品から、家具家電、車、家に至るまで、コマーシャルで多用されているものは、何でしょう?

 

 そう、家族です。

 親子楽しそうに遊んで、笑って、憩って、親が子を思い、子が親を思う、幸せ家族、ですよね。

 

 (少し前には、親子デート、なんてものまでありましたね!私は、もう少しで、吐くところでした!)

 

 もっとつきつめて言うと、しあわせとは、“愛”、をイメージさせるもの、ではないのでしょうか。

 

 たとえば、恋愛、その先に約束される、幸せな結婚、そして、家族愛。親子愛。

 

 その、“愛”、の一文字ほしさに、人は、誰かを好きになったり、結婚して、家庭をもって、子供を産んで、(ついでに、家と、車と、大きいテレビがあれば、なおけっこう)、いつまでもいつまでも、家族一緒に、幸せに暮らすのよ、と、夢を思い描くのでしょう。

 

 

 けれども………

 

 

 

家族は不幸のはじまり

 

 

 さて、映画『メランコリア』に戻ります。

 

 職場の同僚、マイケルと結婚し、人生の中で、最高に幸せな時間を過ごすはずだったジャスティン。

 

 誰の目から見ても、彼女の人生は、輝きに満ちているようにしか見えなかったことでしょう。

 

 幸せな結婚と、豪華な披露宴。そして、(両親を除く)招待客たちの祝福と笑顔。

 

 それだけではありません。ジャスティンは、仕事の面でも、芸術的才能を活かし、輝かしい業績によって、招待客の一人である上司から、昇進を約束されていました。

 

 けれども、彼女の両親の“祝いの言葉”(呪いの言葉)が引き金となり、ついに、心のダムが決壊します。

 

 

 彼女は、会場からいなくなり、夜の闇の中で、一人、ゴルフカートを走らせたり、姉の息子を寝かしつけに行って、それっきり、自分も眠ってしまったり、これから新郎新婦揃ってケーキカットというときに、客室で風呂に入ったり、まるで迷い子のように、一人勝手にふらふらと、動き回ります。

 

 夫のマイケルは、ジャスティンの調子が良くないことに気づき、「二人きりで話したい」と言い、「りんご園の土地を買った、十年後には実がなる、気分が沈むことがあっても、りんごがきみを幸せにしてくれる」と、そのりんご園の写真を彼女に贈ります。

 ジャスティンは、表面上は喜び、「肌身離さずもっているわ」、と言いつつ、その写真も、マイケルもおきざりにして、部屋から出て行きます。

 

 自分が仕切っている披露宴で、身勝手な行動ばかり取る妹ジャスティンを、姉のクレアは責めます。

 「時々、あなたがたまらなく憎くなる」、と言って。

 

 人知れず、今にも底なし沼に落ちていかんとするジャスティンは、母に「こわいの」、と訴えますが、彼女は、「誰でもそうよ」、と冷たく突き放します。

 わらにもすがる思いで、今度は、帰ろうとする父を引きとめますが、結局彼は、二人のベティを送りがてら、ジャスティンをおいて、帰ってしまいます。

 しかも、彼が娘に残した手紙には、「愛する娘 ベティへ」と、(たとえ酔っていたにしても)、自分の娘の名前すら、正しく書かれていません。彼は、その手紙に記したとおり、“愚かな父親”なのです。

 

 

 

 フロイトによれば、「メランコリー(うつ病)は、心の状態としては、深い苦痛に満ちた不機嫌と外的世界への関心の撤去とによって、愛情能力の喪失によって、および何事の実行をも妨げる制止と自尊感情の引き下げとによって特徴づけられる」、と説明されています。(『喪とメランコリー』)

 

 「自尊感情の引き下げ」とは、自分は何の価値もない、恥ずべき存在であり、そのせいで、まわりの人にひどく迷惑をかけているという確信と、だから自分は罰せられるべきだという妄想に近いレベルの強い罪悪感をもっている、ということです。

 

 そして、その強い自己否定は、実は、「患者が愛している、あるいはかつて愛した、あるいは愛しているはずの別の人物に当てはめることができ」、「自己非難は愛情対象への非難がその対象から離れて患者本人へと転換されたもの」なのです。

 

 こうした心理的な傾向は、よく知られているように、生育環境、特に、生まれて初めての人間関係(それは象徴的には、世界そのものとの関係を意味します)であるところの、両親との関係の中で、形づくられていきます。

 

 

 従って、「患者が愛している、かつて愛していた、あるいは愛しているはずの別の人物」とは、多くの場合、両親のことを示します。

 

 

 ジャスティンに当てはめてみると、彼女が示した、他者から見れば「めちゃくちゃで」「自分勝手な」行動は、この晴れ晴れしい、光の当たる場所から自らをしめ出し、自分を罰するためのものなのですが、無意識的に、本当に罰したいのは、「かつて愛していた・愛しているはずの」父と母、ということになるでしょう。

 

 

                                《つづく》