他人の星

déraciné

あひるの庭のアリス

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        おばあちゃんは

        季節ごと 花のたえない

        明るい庭で

        あひるを 二羽

        飼っている 

 

        おばあちゃんは

        遊びに来た 孫娘の

        つないでいた手を

        やさしく はなす

        あひるたちが 見ているから

        大丈夫 と

 

        四方を 白い柵に囲われた 庭で

        よく晴れた 空の下

        アリスは じっと

        あひるたちを みつめている

 

        あひるの つぶらな瞳は

        決して 臆病 なんかじゃなく

        いつでも 誰にでも

        このうえなく あけっぴろげで


 
        たとえば

        庭に 隠されている 秘密も

        いつでも 誰にでも

        物語る

 

        アリスは

        それとは知らず 魅入られて

        思わず 足を 踏み入れる

 

        木陰の茂み

        遅咲きのバラの いたんだ花弁

        名前も知らない

        小さい 青い 花

 

        それらの扉は

        みんな いつでも 誰にでも

        無防備に

        開け放たれている

 

        白い柵を めぐらしても

        そこまでは

        アリスを

        追っていけないことも 知らず

        おばあちゃんは

        庭に面した廊下から

        孫娘を見ては

        十時に 焼きあがる クッキーを

        アリスが 喜んで食べることを 思い

        幸福に ひたる

 

                

        おばあちゃんの 家から帰った アリスの髪は

        甘い 甘い クッキーの においがする

        髪の毛を 撫でながら

        ママは たずねる

        「楽しかった?」 と

 

        アリスは こくり と うなずく

 

        たったひとりの 道

        嗅いだことのない 風の匂い

        見たことのない 藍色の闇

        ふわりと 包まれ 落ちていく

        時間のない 旅

 

        きょう

        そこへ

        足を踏み入れたことなど

        パパも ママも おばあちゃんも

        誰も 知らない

 

        ここにいる アリスは 

        今朝 元気に 飛び出していった

        あの アリスでは ないことを

 

 

 

 

 

 

 

不謹慎、上等(4)

 

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、こう述べています。

 

 「日本帝国の軍事的復活―それが新日本の真の復活なのだ―は、日清戦争の勝利とともに始まった。戦争は終り、将来は曇って暗いけれども、それでも大きな希望を約束しているかに見える。それに、今度の戦争よりもさらに雄志をのばして、もっとずっと永続した成果をあげるために、どれほどの難関が横たわろうとも、日本はもはや危惧したり逡巡したりすることはないにちがいない。
 しかし日本にとって将来の危険はまさにこの途方もなく大きな自信のなかにあるともいえよう。それはなにも今度の勝利によって創り出された新しい感情ではない。それは一種の人種的国民感情で、戦勝の報せのたびにひたすら強められ高められてきたものである。」

            小泉八雲 『戦後に』(講談社学術文庫『日本の心』収載)

 


 当時、日本勝利の戦記物の週刊や月刊は全国津々浦々で飛ぶように売れ、仕掛け人形や玩具、版画、日清戦争の武勇談の芝居、忠君愛国の文字が記されたおびただしい数の提灯、勝利の栄光の記念物は、封筒や便箋のデザインから爪楊枝の束にまであしらわれ、何よりも、「万事は日本国民が希望し、かつ期待した通りに進んだ」のでした。

 

 実際その後、日本は、「大きな希望と途方もない自信」のうちに、「危惧も逡巡も」せず、「一種人種的国民感情」でもってお祭り騒ぎをしつつ、「日本国民が希望し、期待したとおりに」、確実に、破滅の道を邁進していくことになるのです。

 

 

 台風19号が近づいていたあの日、たくさんの人が、楽しそうに、かごやカートに食品を投げ込むスーパーで、私は、既視感にとらわれていました。

 それは、“懐かしい”とさえ思えるほど、今まで(今も)、飽きるほど見てきたもので、目の前に、小泉八雲の描写にあるような、お祭りの赤い無数の提灯が、ゆれて見える気がしたのです。
 

 次に、いつ、どんなところで、いつ誰が命を脅かされるか、実は、全く先の見えない「曇って暗い」状況の下、あの、たった一つのスーパーの中で繰り広げられていた光景もまた、同じものでした。

 そして、私もまた、その中で、わくわくしながら、店内を見回っていたのです。

 

 「いま、ここを生きろ」、という言葉があります。

 人間というものは、現状やその先の未来がどれほど悲惨なものであっても、どこかひどく楽観的なところがあって、「いま、ここ」の楽しみをさがして、隙あらば“お祭り騒ぎ”をしたい生きものなのではないのでしょうか。

 そして、それはおそらく、どれほど苛酷な状況であっても生きようとする、生きものの本能から発し、苦難を経験するたびになお鍛えられて、一層磨きのかかった、“生きる術”なのだろうと思うのです。

 

 辛い状況であればあるほど、その先がどうなるかなどは、ほとんど考えていないし、考えたくもないでしょう。

 考えても、ひどい心配と不安に苛まれ、「神経衰弱」に陥るだけですから。

 


 小泉八雲は、当時、その目で見て、最終的に日本がどんな姿になるのか、もうわかっていたのでしょう。

 そして、その言葉は、決して、過去の姿のみに焦点を当てられたものではありませんでした。

 

 日本は、その後、現在に至るまで、あらゆる意味で、戦争のつなわたりをやめようとはしなかったのです。

 

 

 「命を守る行動を取ってください」、というメッセージと裏腹の、「不謹慎な行動を慎め」という暗黙のメッセージは、戦時中でいえば、「国民に非(あら)ず」=「非国民」、という言葉と表裏一体をなしているように、私には感じられました。

 

 東京台東区で、避難所に避難することを断られたホームレスと、自分との間には、いったいれほどの距離があるのだろう?と思ったのです。

 

 もう少し、イメージを広げて考えてみると、たとえばカミュの『ペスト』で言うところの「病人」=ナチスドイツで言うところの「生きるに値しない人間」、あるいは、「不謹慎」な行動を取るもの=「非国民」だとするのならば、役に立たない(生産的でない)人間は、「命を守る権利行動」から排除される、という事態に、いつはっきりと発展するのだろう、あるいは、もうそうなっているのではないのか、という、底知れない恐ろしさを感じたのです。

 

 お祭り騒ぎをしつつ、うろたえつつ、不安を感じつつ、実際にドンパチやっていないから戦争をしていないわけではない今この瞬間(衣食住と命とを脅かされる人が絶えないという意味です)、そういう世の中で、お天気晴れ、布団を干して、コーヒーを飲み、平和な一日を過ごしている私がいます。

 

 つまり、そういう意味で言うのなら、私だって、“不謹慎”なわけです。

 

 けれども、こうしたことを「不謹慎」だというのなら、生きていること自体が「不謹慎」であり、つまり、生きるとは、不謹慎承知の上でのことなのではないのかと、私は思うのです。

 

 いつ、どこで、私が、私に身近な大切な人が、どんな目に遭うかは分かりません。

 

 そうした暗い不安の闇から、少しでも目をそらし、いまだけでも、何か面白いことをみつけて、ひだまりのようなあたたかさを感じていたい。

 そういう、ある種、人間的な性や習性が、大きな悲劇を生むことになっても、その大きな力の前に、人間は、あまりにも絶望的な無力さしか、誇ることができるものはありません。

 

  ………ただ。

 もし、いまここで、軽々しく言った、誰かを責める「不謹慎」、という言葉で、あらゆるすべての感情や意思を囲い、縛ってしまったとしたら?

 「不謹慎」、という言葉の先に、もっともっと膨大で重要な、「生きる自由」と生命の危険があるとしたら?

 その可能性が、少なからず、あるとしたら?

 

 人間は、その、人間らしい弱さゆえに、生きるためにどうしても必要とする、“あたたかいひだまり”すら、すべてなくしてしまうことになるかもしれない、と私は思うのです。

 

                                 《おわり》

 

不謹慎、上等(3)

 

 8年半ほど前の東日本大震災の際、被災地のライフラインは寸断され、当然、テレビを見ることもできませんでした。

 あとで聞いた話ですが、その間、テレビでは、沿岸部のガス爆発火災など、「派手で(画になる)」場面を繰り返し流し、長崎の義母は、「これでは誰も助かるまい」と、被災地に居住していた私たちを思い、絶望して泣いたらしいのです。

 

 電気が復活したころには、震災前と後とで、まるで、世界がすべて変わってしまったかのようでした。

 

 テレビで流れるCMは、「不謹慎」とみえるようなものが避けられ、一日中、繰り返し、同じものしか、流れませんでした。

 お花見の頃になると、今度は、桜の下で酒を飲んで浮かれるなんて不謹慎、という風潮さえ出てきました。

 

 家族も、家も、身近な人たちも無事だった、私の身でしか、ものごとを考え、ふり返ることはできません。

 けれども、私があのとき、何を思っていたかといえば、「とにかくふつうの、あたりまえの生活に戻りたい」、それだけだったのです。

 

 「不謹慎」だの、「不謹慎でない」だの騒いだところで、流された家は戻らず、亡くなった人が帰ってくるわけでもなく、必要なのは、一刻も早く、遺された人が、安心できる住みかを得て、安心して“明日”を考えられることなのに、と思っていました。

 

 けれども、それ以来、あの、震災直後に流れていた映像と、さして何も変わらない現実が、世界を覆ってしまったように、思われてならないのです。

 

 “復興”とは、駅舎や駅が新しくきれいになることや、新しいマンションが次から次へと建ち、繁華街のショーウィンドウが、きらきらしたブランドもので装飾されることだったのだろうか?

 

 いまでも、それらを見るたびに、どこか、ひどく苦々しい気分になるのです。

 

 災害の派手な映像ばかりを取り立てて流すことも、「張り子の虎」か何かのような、見せかけの復興を派手に演出することも、私には、生活や命をおきざりにした、“お祭り騒ぎ”のようにしか見えません。

 

 たとえば、CMが不愉快でも、桜の下の宴会が不愉快でも、それは一時のことであって、自らそれを選択しないという選択の余地もあり、何より、生活や命に何ら影響や脅威を与えるものではありません。

 

 けれども、あの見せかけの派手な“復興”は、個々人に選択権や決定権はなく、否応なしに、その空気になじみ、引っ張られていくことを強いられる、という意味で、「ひどく乱暴」なのです。

 

 何か、とても大切なものを喪って泣いている人に、最初は優しくても、いつまでも泣いている人にやがて苛立ち、「いい加減、めそめそするのはやめろ」と、舌打ちの一つもし、冷淡に言い放つことのできる側面を、人間や人間社会はもっています。

 

 まだ涙にくれている、その人の手を強引に引っ張って立たせ、むりやりに引きずって、連れて行こうとする。

 あるいは、それを拒絶するなら、その場におきざりにして、“死ぬにまかせる”。

 

 それが、不謹慎でなくて、いったい何が不謹慎だ、としか、私には、思えないのです。

 

 

 

                              《(4)へつづく》

 

 

 

不謹慎、上等(2)

 防衛機制、というのは、人間ならば誰しももっている欲求や衝動(主に、攻撃欲求や性的欲求など)を、そのまま露わにすれば、場合によっては“犯罪”として罰せられ、社会から排斥される危険性があるときなどに、無意識的に発動する心の働きです。

 その働きによって、私たちの心は、社会との摩擦によって、取り返しのつかないほど大きな傷を負わないよう、自らを守っているわけです。

 

 この防衛機制には、いくつか種類があり、たとえば、イソップ童話の『キツネとぶどうの話』などでよく説明されるのは、「合理化」といって、欲しいものが手に入らなかったときに、その不快感を引きずることのないよう、正当化する働きです。

 

 キツネは、高い所になっているぶどうが欲しくて、懸命にジャンプしますが届きません。そこで、キツネは言うのです。

 「ふん、どうせ、あのぶどうはすっぱくておいしくないに決まってる」。

 

 日頃、私たちの心は、適度に防衛機制を使うことで、失敗や挫折にいちいち引きずられて、社会生活に支障の出ることがないよう、人間社会とうまくつきあっていこうとするのです。

 

 そして、「反動形成」とは、何か理由があって表に出せない潜在的な欲求や衝動がある場合、それを隠すために、それとは真逆の感情や行動を表出させることです。

 「打ち消し」とは、自分のしたことが、たとえば、「人間として」恥ずかしい行為である場合に、その罪悪感を打ち消すため、逆に「人間として」ほめられるような言動を取ることで、いわば“罪消し”です。

 

 

 ところで、最近、災害のたび気になるのは、マスメディアによって伝えられる、「命を守る行動をしてください」、という言葉です。

 このメッセージは、いったい、何を思って発せられるのでしょう?

 この社会は、災害によって、人々が命を失うことのないよう、最後まで心配してくれるような、優しくてあたたかい社会だ、とでもいわんばかりです。

 

 ですが、私は、その言葉をきけば聞くほど、「嘘くささ」を感じてしまうのです。

 

 そうして、この、「命を守る行動をしてください」、という言葉を発したその同一の方向から、「苦しんだり、困ったりしている人がこんなにもたくさんいるのだから、不謹慎な言動は慎め」、という声が聞こえてくるように感じるのです。

 


 この社会。私たちが、生きて、死んでいく社会とは、どんな社会なのでしょうか。


 たとえば、カミュの『ペスト』の中に、こんな表現があります。

 

 「病気をしているのはいかなる場合にも愉快なものではないが、しかし、病気のなかで身をささえてくれ、ある意味でのんびり羽を伸ばしていられるような、そういう町や国もある。……ところが、オラン(という町)は、………楽しみというものの質など、すべてが健康を要求している。病人はこの町でまったくひとりぽっちである。」

 

 「病人」のところを、「生活困窮者」と言い換えてもいいでしょう。
 この場合、要求される「健康」とは、日常生活や家族の扶養、将来に至るまでの衣食住の安心のための経済力や生産性、と言い換えることもできるでしょう。

 

 今回、台風19号の際には、東京台東区では、ホームレスは特定の住所をもっておらず、「区民ではないから」と、避難所に避難することを断られたそうです。

 彼は、自ら、マスメディアが発するメッセージどおりに、「命を守る行動」に出たわけです。
 けれども、行政側は、これを受け入れませんでした。

 これは、いったい何を意味するのでしょうか。

 

 「命を守る行動を取ってください」。―ただし、それが受け入れられるかどうかは、無条件ではなく、個々人の様々な属性によって「選別」される―。


 カミュの言葉を借りるならば、「病人」、つまり、自助努力の限界を超えた問題を抱えている者は対象外、自立自助できる「健康」な人のみが受け入れられる、ということでしょうか。


 だからこそ、この、「命を守る行動を取ってください」、という言葉が、ことさら何度も何度も、執拗に繰り返されるのではないのでしょうか。

 

 日常的には、生命や暮らしの中で、「命が守られていない」社会だからこそ、非常時になって、「命を守ってください」と言う、そうした意味での、「反動形成」の発動と、非生産的存在への、日常的な社会的排除と裏腹のメッセージを打ち出すことでの、「打ち消し」という防衛機制の発動です。

 

 文明社会である以上、どんな人の人権も守られてしかるべきであり、社会的努力によって救われるはずの命を、日常的には、“死ぬにまかせている”―。

 

 高度に文明が発達した社会であるとは到底思えないことが、平時、まかり通っていることへの、無意識的な恥ずかしさや罪悪感が、社会全体の痛みとして、意識を突きあげ、その不快感を掻き消す絶好のチャンスとして、災害時などの非常時が、利用されてしまっているのではないでしょうか。

 

 私がそれを強く感じたのは、あの、8年半ほど前の、東日本大震災の時でした。

 

 

                             《(3)へ つづく》

 

 

 

 

 

「不謹慎、上等」(1)

 

 

 たった数分、ないし、数時間のことなのに、人生を、根こそぎなぎ倒してしまう。

 大切な人やものを、一瞬にして、すべて、奪い去る。

 

 けれども、その同じ時間に、他の人は、くだらない冗談で笑っていたり、おいしいも

のを食べたり、快楽や享楽に溺れていたりする………。

 

 それが、高い空から見おろしてみたときの、あらゆる意味での災害や災難(あるいは死、悲しみや苦しみ)、人々の生きる営みとの関係、なのだろうと思います。

 

 

 何か、大きな災難をもたらす事態が迫っている、ときけば、人は、予定を変え、行動を変えます。

 それが、今回の台風19号のように、未だかつて経験したことのない災害に見舞われる可能性が高い、ときけば、なおさらです。

 

 たとえば私は、いつもは、土曜の午後に予定している食料品の買い物を、午前中に早めよう、と思いました。

 

 そして、いつも利用している、通常、ほとんど待たずにレジをすませることのできる、規模の比較的大きなスーパーへ行ったのですが、昨日見たのは、入り口付近からずっと、店の奥まで続く、長蛇の列、でした。

 

 ああ、考えることは、みな、同じだな、と思いました。

 私でさえ、考えることなのだから、そりゃそうだ、とも。

 

 かごを持って、店内をまわってみると、カップラーメンなどのインスタント食品はほとんど無くなっており、肉やパンは、品薄状態でした。

 

 カート上下に置いた二つのかご一杯に、景気よく、肉や野菜をつめこんだ人。

 (今夜は、焼き肉パーティーかな)

 お菓子をやたらたくさん買い込む人。

 (ピクニックみたいで、楽しそうだね)

 お刺身盛り合わせを山ほどかごに入れた人。

 (今夜は、手巻き寿司かな)

 「今夜は、鍋が食べたいなあ」、と言うお父さんとその家族連れ。

 (いいね、今晩は冷えるから、ちょうどいいかも)

 

 何だか、お祭りのようでした。

 つまり、“ハレ(非日常)とケ(日常)”でいえば、「ハレ」の方です。

 

 大変な災害が迫っているかもしれないのに、大人も子どもも、男性も女性も、老若男女、みな、何だか楽しそうなのです。

 少なくとも、その中に、深刻な顔をしている人をみつけることは、できませんでした。

 

 だからといって、それらを批判するつもりは、まったくありません。

 

 私自身、台風に備えて、いつもと違って、少し早めに買い物に行ったりする、その非日常性を、楽しんでいる自分がいるのを、わかっていたからです。

 

 それどころか、なんだかどきどきわくわくするようなこの非常事態が、たった数時間で終わってしまうことを、少し淋しくさえ感じていたのです。

 

 そして、一夜明けて、この台風は、予想どおり、あるいはそれ以上に、各地に深刻な被害をもたらし、人々の家や生活を奪い、人命を奪って、去っていきました。

 


 こんなときに、ひどくはしゃいだり、お祭り騒ぎをしたりすれば、必ずといっていいほど言われる非難の言葉があります。

 

 それが、「不謹慎」、という言葉です。

 この言葉は、災害などで「目に見えて」たくさんの人が亡くなったり、生活の基盤を奪われたりした場合によく言われるようです。

 

 けれども、人が死なない日は、ありません。

 日々刻々、死んでいきます。

 

 あるいは、自然災害ほど、どうにもならないものではなくて、人の力で、社会的努力次第で、少しは何とかなるはずの、社会的災害(不安定雇用、失業、生活苦などなど)や社会的排除が日々起きていても、そうしたことには、人間、わりあいと、鈍感でいられるのです。

 

 日頃発生しているそうした事態には、目もくれずにいても、“不謹慎”と批難されることはまずありません。

 

 それとこれとは、まるっきり関係がない、という人もいるのでしょうけれども、私には、どうしてもそう思えないのだから、仕方がありません。

 

 むしろ、自然災害(=ハレ=非日常)のときの大騒ぎと、社会的災害(=ケ=日常)の無視の差が、顕著であればあるほど、私には、思い当たるものがあるような気がするのです。

 

 

 それは、フロイトによる自我防衛機制の「反動形成」、「打ち消し」、という、無意識的な心の働きです。

 

 

 

                           《(2)へ つづく》

 

 

十月の蟬

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       キンモクセイ

       甘ったるい

       むせかえるような 匂いが 苦しい

 

       わかっているよ

       この香りは

       ぼくたちの 夏の

       おわりの 合図

 

       秋の 冷たい爪先が

       この心臓の

       さいごの一滴を

       搾り取る まで

 

       あと すこし

 

       赤い 紅い 秋が

       目から 入って

       胸から 流れ出す まで

 

       あと わずか

 

       もう

       ぼくには

       死ぬほど 冷たい

       風 だけれど

 


       死ぬほど 凍える

       光 だけれど

 

       命を かけて

       きみに

       もう 一声の

       求愛 を

 

       「あいして いるよ」

       「あいして ほしい」

       「あいして いたよ」

 

       どこまで

       きみに

       伝えられる だろう か

 

 

 

 

 

お金の話。

 

 「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ。」

                           夏目漱石『道草』

 

 

  お金の話………。

 お金の話なんて、やめようよ。

 じゃ、何の話?

 うーん、お金の話。

 

 ようするに、世の中、金、金、金の話ばかりしている、ということも忘れるくらいに、お金の話しか、ないのでございます。

 

 それ、いくら?

 で、どのくらい稼いでるの?

 儲かってる?

 

 家庭内経済格差もまた、深刻な問題となり得るのでございます。

 

 先日、わたくしの年収がどのくらいか、具体的に知りたがっていた親きょうだいに、わたくしの低所得を暴露しましたら、文字どおり、“”腫れ物に触るよう”になってしまったのでございます。

 

 ああ、家族って、優しいなあ。(もちろん、皮肉でございます。)

 

 隠していたわけではございません。否、隠したかったのかもしれません。

 わたくしは、そうは見えないようですが、意外と(かなりの)策略家でございます。

 ですから、どうしたら、いちばん損にならないか、考えをめぐらせていたのですが、そういうあざとい自己防衛は、だいたい、痛い目に遭うことになるのでございます。

 

 

 わたくしだって、お金が欲しゅうございます。

 

 お金は好きか、嫌いかときかれれば、当然、「大好き」だと言わざるを得ないのでございます。

 とはいえ、誰とは分からぬ人の手垢にさんざんまみれてきた、あの汚くなった銅やら、亜鉛やら、ニッケル、特殊和紙、そのものが好きなわけではございません。

 

 「お金をいじったら、手を洗いなさい。」

 

 幼い頃から、お金をさわるたびに、そう言われ続けて参りましたので、ああ、お金って、かなり汚いものなのだなあ、と、子ども心に思っておりました。

 

 汚いもの。

 汚いもの、といえば、たとえば排泄物などが、代表格でございましょうか。

 他の生きもの、たとえば犬などにとっては、排泄物は、決して「汚いもの」ではないのですが、高度に進化した(進化してしまった)人間に至っては、排泄物を汚いものとして、見えない場所で処分し、最近では、その残り香まできれいに消しませんと、「文化的生きもの」、とは認められないようにまでなって参ったようでございます。

 

 ちなみに、わたくしは、小学生の頃、学校のトイレで「大」の方をして、その“残り香”を消し損ね、次に入った子に、他の子もいる前で、大きな声で、「好かねぇ」(※注 女の子です)、と言われたことがございます。

 

 話は逸れてしまいましたが、つまり、わたくしがお金を好きだと申しますのは、お金が、わたくしが欲しいと思う大抵のものと、交換できるからなのでございます。

 

 言わずと知れたことでございますが、お金そのものは、人間が生きることを、何ら、助けてくれるものではございません。

 

 お金は、飢えや渇きを直接満たしてくれるものではございませんし、寒さや暑さから身を守ってくれるものでもございません。

 

 それをたくさん持っていれば持っているほど、欲しいものが何でもたくさん手に入る。

 だからこそ、価値があるのでございます。

 

 

 そういうお金だからこそ、みんな欲しがる。

 欲しいものは、みな同じ。

 あればあるほどいいのだから、際限なく欲しくなる。

 だから、問題になる、争いにもなる………。 

 

 

 小学校のとき、宗教の時間に、先生が、こうおっしゃいました。

 

 お金を寄付するのなら、「痛みを感じるくらい」の額を寄付しなさい、と。

 要するに、自分にとって、手痛い損失と感じるくらいの額を、寄付しなさい、ということなのだろうと思います。

 

 けれども、わたくしには、どだい無理なお話でございました。

 何せ、五十円やら、百円やら、親から少しでもお小遣いをもらうと、学校の売店で、必要でもないのに、消しゴムやら、鉛筆やらを買って、すぐに使ってしまうのでございますから。(売店の職員さんから、「お金は大事に使いなさい」、と叱られたこともございました。)

 

 

 さて、ことさらに、ぎらぎらと、お金に執着するようすを見せる方を、「あいつは金に汚いやつだ」、と、よく申すようでございます。

 ですが、その文句は、あからさまな執着を見せる方にしか、使われないのでございます。

 

 たとえば、外見はあくまでも上品で、もの言いはやわらかく、おだやかで、見た目には、お金に貪欲そうに見えない、そういう方に対しては、いかがでございましょうか。

 そのような方が、実は、とても効率よくお金を誰かから搾取していたとしても、おそらく、「あいつは金に汚いやつだ」、と批難されることはございません。

 

 

 自己弁護、になること、承知の上で、申し上げます。

 

 まことに、わたくしは、薄汚い人間でございます。

 (「汚い」よりも、「薄汚い」の方がより汚い印象があるのは、どうしてでございましょう?)

 

 

 かくして、「薄汚い」わたくしは、お買い物にでかけますと、「おつとめ品」「お値下げ品」に「目を光らせ」もせずに、目を光らせるのでございます。

 ネットショッピングでは、同じような商品ならば、「いちばん安い」のはどれか、と、「目を血走らせ」もせずに、目を血走らせるのでございます。

 

 いったいどれが「お得」で「損」をしないのか、という考え方や価値観は、いまや、わたくしの生活全体を支配し、占拠してしまっているようなのでございます。

 

  そうして、また。

 

 「美」を愛さない人間はいない。

 「美」を探求する人間は、称賛の的となる。

 「お金」を儲ける人は、称賛の的になる。

 けれども、「お金は汚い」、という。

 物質的に汚いだけでなく、イメージ的に、それを「美」と感じる人、「醜」と感じる人、どちらが多いのか。

 お金を儲けられない貧乏人を、「薄汚いやつ」と、ののしる人さえいる。

 お金を儲けることは「美しい」のか、お金を儲けられないと「汚い」のか。

 

 

 そこらへんの矛盾を、解決できないのは致し方ございませんが、(人間に矛盾はつきものでございますから)、もともとキャパシティがあまりないわたくしの頭は、そのうちショートするか、あるいは………?

 

 

 それとも、案外、平気の平左、貪欲さ丸出しで、生きていくのかもしれません。