他人の星

déraciné

夜ごとの 訪問者

 

 

 

       「ねぇ きみ」

 

       僕は この声に 慣れている

       この声を 知っている

       夜ごと あらわれる

       轢死した という 男の 声だ

 

       「あの 遮断機も 警報機も

       人を 電車から 守るためのものじゃない です」

 

       また そこから 話すか と 思いつつ

       僕は 布団の上で 身じろぎもしない

 

       「むろん あいつだって 走りたくて 走ってるわけじゃない

       あの 鉄の塊は 時間の 奴隷で

       遮断機も 警報機も  

       あいつに 同じところを 同じ時間に 走らせるため 

       入り込む だとか 飛び込む だとか

       そういう 人間の 妨害から

       あいつを 守るためのもの であって」

 

       彼はいつも そこで 話を 切る

       そして しばらく 沈黙したあと

       再び 口をひらく

 

       「だから 飛び込んだ です 

       それが わかったから 飛び込んだ です

       せめてもの 抵抗? 

       そんな 大義名分 ありは しません

       ただ ただ 飛び込んだ です

       それで

       あぁ よけいなこと しやがって 遅刻しちまう て

       誰かが 舌打ちするの

       ホームの 上を 漂いながら きいた です」

 

       そうして 彼は いつものように

       さめざめと 泣きだす

 

       「ああ ああ かわいそうだ かわいそうだ みな

       誰も 何も 止められない

       このまま 走って いくしか ない

       ぶつかって こわれる まで

       ああ ああ かわいそうに かわいそうに」

 

       そうして 彼は 透けるように 消えていく

 

 

       翌朝 僕は スーツ着て

       靴を 履くのも もどかしく

       駅へと 急ぐ

       ホームに 立って

       彼のような 人間の血を どれほど浴びたか わからない

       ごつごつした 赤黒いレールを 見ても

       彼のことを 思い出しも しない

 

       頭の中は 今日のことで いっぱいだ

       つくらなければならない 書類の 山 という山

       会わなければならない 人間の 顔 という顔

       すべてが ジェンガみたいに 積みあがってる

       一つも 手順を 間違っちゃ いけない

 

       なのに

       夜ごと 彼は 来る

 

       僕は 忘れても

       彼は 忘れない

 

       僕は 忘れる

       彼は 来る

 

       いつか いつか

       彼が 忘れて

       僕が 忘れない 日が

       来る のだろう か

 

 

 

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(3)―「彼女が農作業着に着替えたら」

 

アヤナミが、農作業着なんか着ちゃったら、おしまいですよ、そりゃ。

 

水着なら、ともかくも………。

綾波には、やっぱり白が……)

 

 

 

新しい“自然”—都市型無秩序

 

 繰り返しになりますが、私がウルトラマンや、ウルトラセブンに感じていた郷愁がいったい何だったのか、その正体をおしえてくれたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』、という、テレビアニメでした。

 

 その、新しい「自然」「故郷」というものは、いわば、都市型無秩序、とでも言い換えられそうな景色でした。

 

 戦後の、高度経済成長期。もくもくと、工場から立ちのぼる、灰色の煙。

 

 電柱と、電線とに仕切られ、不自由になった空。

 

 どこまでも行けそうに見えて、そうではなく、いつまでもどこまでもどうどうめぐりする、電車と線路。

 

 人間であるがゆえ、人間本来の曖昧さ、無秩序さを忌み嫌い、人間そのものから外へ追い出し、それを、街の景色に転化していった結果生まれた、新しい「自然」への、ノスタルジィだったのです。

 

 

 …ちなみに、「郷愁」、というからには、今ではもうその景色も失われて、今度は、その無秩序や混沌が、街の景色や、あらゆる表層から隠され、奇妙にすっきりと片付いた無機質さにとって代わられつつあるようです。

 近年の家電のデザインも、昭和ちっくな「花柄」、とかじゃなく、ごくごくシンプルなものになってきていますよね。

 

 

 けれども、人は、生きている以上、有形無形、様々な意味での“ゴミ”を出さざるを得ず、それはたとえば、心や内面のどろどろであったり、家や街がモノでごちゃごちゃしているような“片付かなさ”なのですが、いまでは、それすら「見た目が汚い」と忌み嫌われ、隠されて、はじめから無かったかのように抑圧されてしまっていることが、実は少し、気がかりなのです。

 

 

 そういうごちゃごちゃ、ごたごたは、むしろ、顕在化、可視化しておいた方が、何かが起ころうとしているとき、対処しやすいと思うのですが、隠されてしまうと、何もわからなくなるので、“不意打ち”をくらうことになるのではないか、と………。

 

 

 

“意図せざる再帰

 

 「今や、あなたはその土地にのろわれている。………あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

                                                          『創世記4-11-12』聖書

 

 

 

 映画の冒頭、絶望してよれよれのシンジが、アスカに連れてこられたのは、「みんな笑顔」、「みんないい人」、「みんな働き者」の、農村共同体でした。

 

 私はそこで、胃液が逆流するような不気味さを感じたのです。

 (簡単に言えば、「ゲッ」、という感覚です)

 

 

 精神分析創始者フロイトは、ホフマン作の『砂男』をもとに、“不気味”、という感覚について、こんなふうに分析しています。

 

 それは、「抑圧を経験しながら再び抑圧から立ち戻ってきたなつかしくも故郷的なもの」であり、どこか家庭的な雰囲気を帯びており、たとえば「濃霧によって大森林で迷子になり、くり返し同じ場所に戻ってしまう」ような、「意図せざる再帰」、として説明できるようなものです。

 

 わかりやすくいえば、最初にいた場所(おそらくそれは、アダムとエヴァがいた楽園のようなものでしょう)を追われ、永遠に失われたその場所を、記憶の奥に、鍵をしめて閉じ込め、無いことにしたはずなのに、なぜか急に、目の前に現れる。

 

 それが、“不気味”、という恐怖を感じさせる、ということなのです。

 

 

 14歳の頃のトウジは、テレビ版では、使徒化してしまうエヴァ3号機に乗り込むことになり、エヴァでの戦いで自分の妹に大けがを負わせたシンジを許せずぶん殴った、という自分の過去との、複雑な葛藤が描写されていました。

 

 ケンスケは、戦争ごっこをしつつも、それが何の意味もない戯れ事にすぎないこともよく知っていて、様々な意味での強者に対しての、自分の無力さを明らめていました。

 

 そして、ヒカリは、思いを寄せるトウジのためにお弁当をつくったり、エヴァでの戦いに勝てず、自尊心ズタズタのアスカが、自分の家に入り浸り、朝から晩までゲームをしているのに文句は言わずとも、内心では迷惑に思っている、ごくふつうの女の子でした。

 

 少なくとも、1995年に放映された、テレビ版で、彼らはそれぞれに、自分自身や他人に対しての複雑な感情や葛藤を抱えていたわけです。

 

 

 ですが、今回の劇場版に関していえば、それらはすべてなかったかのように、彼らはすっかり好人物の、さわやかな大人になっているのです。

 

 

 たとえば“委員長”ヒカリは、いまや、トウジの良き妻、愛娘ツバメの良き母であり、突然訪れてきた、昔の姿のままのシンジやアヤナミを歓迎し、特に、(仮称)アヤナミレイを「そっくりさん」、と呼び、喜んで迎え入れます。

 

 そして、アヤナミが、初めてきいた言葉を、まるで子どものように、いちいち説明を求めるのに、イヤな顔一つせず、にこにこ笑いながら、優しく、明るく、応えてくれます。

 

 それだけではありません。

 

 畑仕事をするおばちゃん軍団は、何も知らないアヤナミに、「汗水垂らしてはたらく」ことをおしえ、かわいい、かわいいと言っては、いろんな服を着せまくったり、とにかくよく構うのです。

 

 誰一人、彼女が何も知らないのも、慣れない田植えを失敗しても、仲間はずれにしたり、文句を言ったりもしません。

 

 その間、対照的に、ずっとどん底にいて、動きも食べもしないシンジに対して、アスカは手厳しく責め、アヤナミさえも、「碇くんは、仕事しないの?」と言いますが、大人になったケンスケが、彼を優しく見守ります。

 

 

 誰も仲間はずれにしない。誰もひとりにしない。

 みんな笑顔。みんないい人。

 

 それが、私には、あまりに“不気味”だったのです。

 

 田園風景(ジブリっぽい!!)だけではありません。

 

 まるで、ホフマンの『砂男』に出てくる、美しい自動人形オリンピアさながら、リアルさが、感じられないのです。

 

 再び、フロイトの言葉を借りていえば、「みかけは生きているように見える存在に実は生命がないのではないかという嫌疑、あるいは逆に、生命のない物体がなんだか生きていそうな疑い」です。

 

 もうすでに死んだか、あるいは、そんなユートピアのようなものは、人間の妄想の中にしかないにもかかわらず、まるで生きているかのように存在している不気味さ、でしょうか。

 

 そして、その“不気味さ”は、同時に、観る側である、自己存在にもふりかかってきます。

 

 そうした笑顔や明るさ、強い仲間意識と連帯感からは、暗に疎外され、抑圧されている、例えば、「人間らしい」激しい感情の爆発や、癇癪、場合によっては、精神錯乱、正気と狂気のはざまを綱渡りするような人間は、命がない存在にさせられてしまうのではないのか?

 

  

 失われたはずの、もう二度と戻れない、(そして、戻るべきではない)“楽園”の、突然の出現、そこへの再帰に、私は思わず、背筋が凍るほど、ぎょっとせずにはいられなかったのです。

 

 

 

                                 《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

遺書

 

       遺書を書いて

       それから つかの間

       この世に 顔を出して

 

       振り返れば 

       水が一滴 落ちる間 くらいに

       とても 短く

       けれども あの太陽に

       じりじりと 照りつけられれば

       永遠のように 長く

 

       雨の夜には 雨音が

       こっちへ こっちへと

       とても 易しく 道筋を つけるから

       とても 優しく てまねきするから

 

       ふとんから 出て

       冷たい 床に 足をおろし

       思わず ついて いきたくなるのを

       どれだけ こらえたことだろう

 

       帰りついたら きっと

       何より 先に

       あの 遺書を

       あれから 少ししか たっていないのに

       いまは もう

       何を 書き残してきたか 

       すっかり 忘れてしまった

       あの遺書を

       まず最初に 読み返すことに なるのだろう

 

 

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2)—「大人になんか、なりたくないよ」

 

 

 

  「大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。……見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。」

                           太宰治 『津軽

 

 

 

 

 私は、すでに5歳にして、もっとも自分が理想とし、憧れる生き方をしている人に出会いました。

 

 それは、叔父でした。

 

 女ばかりの母のきょうだいの、たった一人の男で、いちばん末の弟だった叔父は、結婚することも就職することもなく、自分の母親であるところの祖母の家に暮らしていました。

 

 料理上手な祖母の料理を一日三食食べ、布団は万年床、四畳半の部屋いっぱいに、鉄道模型ジオラマをつくり、気が向けば、木工細工をしたりして、お酒が好きな人でした。

 

 祖母は、そんな彼の手仕事ぶりを、「たいしたもんだ」、といつもほめていました。

 

 けれども、叔父の姉であるところの私の母も、父も、叔父のことを、「困ったものだ」、としか見ていませんでした。

 私より7つ下の妹は、子どものとき、叔父のことを、「なあに、この人。男の人なのに、一日中家にいて。」と思ったそうです。

 

 おそらくは、父や母、妹の見方の方が、「ふつう」なのでしょう。

 

 けれども私は、幼稚園から祖母の家に寄ると、いつも布団の上でごろごろしている叔父を見るだけで、なぜかとても楽しく嬉しくなって、叔父がいるにもかかわらず、自分もふとんへ飛び込んでいきました。

 

 叔父が、言葉を明瞭に話せない障害をもっていた、ということにすら、私は、気づいていませんでした。

 ずいぶんあとになって、妹が指摘したことで、「そういえば、そうだったかな」と思ったくらいでした。

 

 私も、話し言葉が得意ではなかったからかもしれません。

 

 子どもの頃の私が、なぜ、何をそんなに嬉しく思ったのか、よくはわかりません。

 ただ、私は、幼稚園だの、学校だの、時間を決められて、そのなかで、きちんきちんと、決められた予定なり課題を、ほぼ強制的にやらされることが、とにかく窮屈で、いやだったのです。

 

 簡単にいえば、なまけもの、ということになるでしょう。

 

 幼稚園で、こちらの気持ちも気分も無視して、お絵かきだの、お遊戯だの、面倒な人間関係だので、子どもなりに、くたくたへとへとになって、その目で、叔父が、布団の上で、気ままに寝たり起きたり、のんびりすごしているのを見て、「ここは天国だ!」と感じたのかもしれません。

 

 何より、叔父が、叔父のままでいることを、祖母は、責めることもなく、おおらかにかまえて、認めてくれていたのです。

 

 私の家の空気が、いつもどこか緊張していたせいでしょうか。

 祖母の家に流れるゆったりとした時間と、叔父や祖母の穏やかな表情に、ほっとしていたのかもしれません。 

 

  

 母は、ことに、身内であるゆえか、叔父のことを恥ずかしく思っていたらしく、「落伍者」、「人間失格」とまで言っていました。

 

 もちろん、生い立ちをともにしてきた中で、きっといろいろなことがあったのだろうと思います。

 

 けれども、ものごころついて、最初に私が「いいなあ」、と思った生き方をしていた叔父を、両親が否定し、よく思っていないのを感じたことによって、私は、人生初の挫折を味わいました。

 

 「家庭は社会の縮図」、とは、よく言ったものだと思います。

 

 いいな、きれいだな、こんな絵を私も描きたいな、と思ってながめていた絵を、目の前で、びりびりと、無惨に破かれたようで、強い不安と恐怖を感じました。

 

 この世は、そんなにもおそろしく、厳しく、さびしく、何より、自分でいてはいけない、冷たい場所だということなのだろうか……。

 

 

 結婚もせず、就職もせず、外へも出ず、もちろん他人と交流もせず、経済的にも、身辺的にも自立していないこと。

 生産的な存在たりえず、何の、誰の役にも立っていないこと。

 

  父と母、妹が示した拒絶と嫌悪感は、そうした叔父の生き方が、社会一般の価値観に照らして、決して望ましい生き方ではなく、「他人に迷惑をかけ」、「面倒をかける」、自立した「大人」の生き方ではないことを、私に教えたのです。

 

 

 

「面倒だから、手間をかけさせるな」

 

 映画の冒頭、シンジが連れてこられたのは、“ニアサー”で死んだかとばかり思っていた、シンジの同級生、トウジとケンスケのいる、農村共同体(!)でした。

 

 しかも、彼らはすっかり、「他人の役に立つ」「仕事をしている」大人になっていました。

 

 トウジは、もう、「あの筋肉バカ」(テレビ版でアスカいわく)ではなく、独学で医者になり、クラスの委員長だったヒカリとの間に、ツバメ、という子どもまでいます。

 

 ケンスケも、あの頃の「ひとり戦争ごっこ」を卒業し、今では、村を守るための重要な仕事に就いています。 

 

 対照的に、世界を破滅させ、目の前で、自分のせいでカヲルくんが凄惨な死を遂げたのを見て、いつまでも立ち直れず(ふつうに考えたら、むしろあたりまえじゃないでしょうか)、何もせず、いじいじ、うじうじするシンジの「ガキっぷり」が目立ち、アスカからは、「ガキに必要なのは、恋人じゃなくて母親ね」、アヤナミからは、「碇くんは仕事しないの?」と責められる一方なのです。

 

  

 もし、人が「大人になる」とか、何らかの変化がおとずれることがあるとした場合、当然のごとく、他者との関係、とくに摩擦のなかで、それが徐々に起こっていく、ということになるでしょう。

 

  エヴァの世界で「大人になる」とは、自分にできることを自らみつけ、人を信じて積極的にかかわり、他人や共同体から必要とされ、役に立つ「生産的存在」となることのようです。

  そうした「大人」像は、今回はじめて示されたものではなく、テレビ版、旧劇場版を通して、一貫して示されてきた大人像であり、結びとなる新劇場版で、さらに明確に提示されたといっていいでしょう。

 

 ですがそれは、本人の気持ちや状況はどうであっても、他人から見たときに「手間のかからない」、「面倒をかけさせない」、「都合のいい」、「害のない」、「扱いやすいやつになれ」、ということに他ならないのではないでしょうか。

 

 

 自分勝手な期待をしても、他人は、こちらの思いどおりに動いてくれるわけもなく、特別扱いしてくれるわけでもなく、自分と相手は仲間だ、同じ側の人間だ、と思っていても、時と場合、状況によって、人の言動は左右され、思いもよらない影響や結果を招き、「ああ、裏切られた」、といやになるほど痛い思いをしても、人はそんなに元気で前向きでい続けられるものでしょうか。

 

 そんな“裏切り”を繰り返し経験するうちに、(人が学習する生きものであるがゆえ)、すっかり懲りて、用心深くなり、相手やまわりの人の反応や空気をうかがい、本音を言わないようになり、心の扉に、何重にもカギをかけ、簡単に心を開かないようになるのです。

 

 テレビ版で、14歳のケンスケが、「勝てないケンカする奴は馬鹿なの」という名言を残しています。

 いくら、相手との間に信頼を築き、心を開いてかかわりあいたくても、現実は、赤木リツコが言ったところの、“ヤマアラシのジレンマ”が関の山です。

 相手を信じすぎ、近づきすぎれば、互いの個性というトゲで傷つけ合い、かといって、用心しすぎて離れてしまえば、互いの熱で温め合うことができない、というあの葛藤です。

 

 人と人との間に存在している壁や、深い溝をなくそう、越えてみせようとすること自体、「勝てないケンカ」をするようなものであって、だからこそ、“大人とは、侘しいもの”なのではないでしょうか。

 違う人間である以上、相手と融けあうこともできず、それを明らめて、遠慮がちになり、相手との間に、自分も相手も傷つかない、適切な距離をおこうとするようになるのです。

 

  

 何か大切なものをうしなったり、おそろしい思いをしたりして、落ち込んでいる人を、最初は誰も責めはしません。

 けれども、いつまでも落ち込んでいて立ち直らず、いじいじ、うじうじしている人に対しては、「いい加減にしろ」、と、徐々に、手厳しくなってきます。

 そういう人を見ていると、だんだん不愉快になってくるし、辛気臭くて、ウザくて、めんどうになってくるからではないのでしょうか。

 

 落ち込んでいるから、落ち込んでいる様子を見せる。悩んでいるから、悩んでいる様子を見せる。苦しんでいるから、苦しんでいる様子を見せる。

 そういう本心の暴露を、自分が自分のままであり続けようとするための心の闘争を、いつまでも闘うようなやつは、自立も成長もできない「ガキ」扱いされて終わりだとしたら、かなしすぎると、私は思うのです。

 

 だったら、大人になんか、なりたくないよ、ならなくていいよ、と………。

 

  

 現実には、他人との融合の不可能性を明らめ、遠慮がちになった淋しい「大人」たち、そして、その不可能性を、自らの心の葛藤もろとも抑圧し、人の役に立つ「生産性」をアピールする「大人」たち、きっと、いろいろな大人たちが歩いていて、知らずにすれ違っているのでしょうね。

 

  

 

 

                                  《つづく》

 

 

 

 

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(1)―「あの日の夢を、花束にして」

 

 「人間同士の信頼感を利用するとは、恐ろしい宇宙人です。でもご安心ください、このお話は遠い遠い未来の物語なのです。え?何故ですって?我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから」

 

                  ―『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」

 

 

 

  「♪あれから、ぼくたちは、何かを信じてこれたかなぁ…♪」と、思わず、何だったかの曲の歌詞を、思い出します。 

 

 そうですヨ、奥さん!←ここらへん、昭和っぽくね。

 ド派手な原色カラーのボディに、サイケなデザインの、超クレバー宇宙人、メトロン星人と、ウルトラセブンことモロボシダンが、昭和のぼろアパートで、ちゃぶ台囲んで話し合う、シュールなあの回ですよ、あの回!

 

 話を簡単にまとめれば、地球人を滅ぼすなんて簡単だ、人間同士の信頼関係さえめちゃくちゃにしてやれば、勝手に自滅する、と考えたメトロン星人が、自販機のタバコに宇宙ケシの実をひそませ、それを吸った人間は、急に凶暴になって、女をタコ殴りにしたり、街中で銃を乱射したり。

 メトロン星人の思うツボ、みな、疑心暗鬼になって、世の中ぎすぎすしていくのですが、そのメトロン星人をして、「唯一こわい」と言わしめたウルトラセブンが登場し、メトロン星人はあっさりまっぷたつ、ああよかった、よかった……ではなくて、最後に流れるのが、冒頭のナレーション、というわけです。

 

 やだなァ、もォ、ほんとのことばかり言っちゃって……。

 

 

 子どもの頃の記憶など、曖昧なものです。

 手足のびきって、無駄に年ばかり重ね、「大人」になってから見たとき、(ナレーションの言葉に、頭をナイフで切り落とされた気がした、ということの他に)、映像のもつ雰囲気に、何だか、じわじわと、胸にこみあげてくるものを感じました。

 

 畜生。なつかしいぜ。なつかしすぎる……

 

 でも、どうして?何が?

 

  その「どうして?」「何が?」にはっきりと気づかせてくれたのが、実は、『新世紀エヴァンゲリオン』というテレビアニメーションだったのです。

 

 ウルトラマンウルトラセブン。そして、エヴァンゲリオン

 それらを見て、じわじわと胸にこみあげてきた、あの感情の正体が、「ノスタルジィ」、「郷愁」である、ということ。

 

 少なくとも私にとって、郷愁を感じる風景というのは、田んぼや畑、森林や、澄んだ空が広がる、人間がつくった「田園風景」ではありませんでした。

 

 昭和高度経済成長期。

 きれいな青空だけを、写真に撮りたくても、どうしても写り込んでしまう、縦横無尽に張り巡らされた電線。

 道の両脇に立つ電信柱と、地面に伸びる長い影。

 もくもくと、工場からたちのぼる煙にかすむ、あかね雲を背に、やつれ顔の日本。

 そして……。

 どこから来て、どこまで行くのだろう?

 踏切りに立てば、線路づたいに、ずっとずっと、どこまでも歩いていけそうで、歩いていきたくて。

 でも、危険だから、あぶないから、絶対そんなことしちゃいけない(できない)、血管みたいに張り巡らされた線路。

 

 駅のホームに立ってると、何だか、ふらりと、落ちてみたくなるような、でもそんなことしたら、世間の大迷惑、人身事故になって、莫大なお金がかかるから、身内に復讐したい人は轢死するといい、みたいな辛口ジョークに、大笑いした(大笑いできた)、そんなむかしが懐かしい、そう、あの線路のことですヨ、奥さん。←ここも、昭和っぽく。

 

 

 私にとっては、それこそが、涙が出るほどなつかしい、郷愁を感じる風景だったのです。

 

 ちょっとかっこつけていえば、都市型無秩序の時代、とでもいえるでしょうか。

 

 駅前付近に、乱雑に置かれたたくさんの自転車とか、壁や電柱に、いつから貼られていたのか、貼ったら貼りっぱなしの、色あせて破れた広告とか、スーパーとかサービスエリアの、薄暗くて汚いトイレの、相合傘とか、卑猥な落書きとか。

 

 そういえば、出来立てほやほやのオフィスビルそばの一角で、知らないおじさんが、卵を産まないからいらないオスのひよこをよく売っていて、何度か、母に買ってもらって帰ったこともありました。

 可愛いのは、ひよこのうちだけで、少しでも大きくなると、エサの葉っぱをやった指ごと、くちばしで噛むし、早朝、大きな声で「クォケコォォー!!」と鳴くし、ああかわいくなくなったなぁ、と思いはじめた数日後には、いつも父がどこかへ連れていって、それっきりでした。(食べられたんだろうなぁ、どこかで…)。

 

 

 そういうものも含めて、きれいなものも、汚いものも、新しいものも、古いものも、全然相容れないようなもの同士が、雑然として、一緒に、同じ風景の中にとけ込んでいる、ある種の“自然さ”が、とても懐かしく感じるのです。

 

 それは、人間そのものをあらわしていたから、かもしれません。

 からだもこころも、「きれい」になんか整っていなくて、渾沌としていて、いわゆるエントロピーが増大した状態(専門じゃないのでよく知りませんが)、とでもいうのでしょうか……。

 

 人間は生き物、ナマモノなので、放っておくと、どうしても怠惰になり、無秩序になってしまいます。

 たとえば、生活態度がだらしない、とか、時間を守れないとか、片づけられない、とか。

 けれども、その、とても人間らしい無秩序を嫌う、裏切り者がいるのです。

 それが、誰しも頭蓋骨の中に1個ずつ飼っている、あの「脳」です。

 

 秩序といえば自然、特に、天体がもっているような、規則的な動き、つまり「秩序」にあこがれ、そこに“美”を感じ、懸命に、そこへ近づこうとしてしまうのです。

 

 

 さて、近年では、私たちの中の裏切り者が、ますます勢力を拡大中のようで、「ロハス」(もう古い?)だとか、断捨離だとか、「都会のモダン邸宅」などといわれるものは、雑然とした様子を嫌い、より無機質っぽく、モノは少なく、家電のデザインは無地が主流(花柄ポットはもう古い)になってきました。

 

 

 そしてある日、とうとう、シンジくんが、こう言うときが来たのです。

 「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」。

 

 「さよなら?……それは、もうこれっきり、キミに会えない、ということなのかい?」

 

 私は、心の中で、自然に、カヲルくんの、あの、さらりとした、風のような声で、たずねていました。

 

 「……そうか。ついに、そのときが来てしまったんだね。」、と。

 

 

                                  《つづく》

 

 

 

 

 

『パラサイト 半地下の家族』(4)―どっちが“パラサイト”?―

「平和」はいつも犠牲者の屍の上に

 

 私は、子どもの頃からウルトラマンが大好きで、特撮シリーズに夢中になったまま、大きくなりました。

 

 中でも、今でも見るたびに、どうしても涙が出てしまう作品があります。 

 

 それは、『ウルトラマン』の第23話「故郷は地球」です。

 

 とある国の科学者「ジャミラ」は、国際宇宙開発競争が激化する時代、宇宙飛行士として、人類の科学の発展のために宇宙へ送り出されますが、予期せぬ事故により遭難、行方知れずとなってしまいます。

 ですが、科学のために人間を犠牲にしたことが明るみに出れば、大変な批難を浴びることとなるのは必至、そのため事実は隠蔽され、ジャミラの存在も、その犠牲も、“はじめから何もなかったことに”されてしまったのです。

 

 それから時が経ち、「ジャミラ」は怪獣となって、地球人類に復讐するために「帰って」来ます。

 水のない星に不時着したジャミラは、そこで生きていくために、長い時間をかけて、水がなくとも生きていけるよう、自分の体を順応させていった結果でした。

 

 科学特捜隊パリ本部のアラン隊員は、怪獣がジャミラであることを明かし、彼を「秘密裏に葬り去れ」、と科学特捜隊に命令します。

 折しも、日本では、国際平和会議が開かれようとしており、ウルトラマンは、水のない星に順応したがため、逆に水が彼の命を奪うことを知りながら、やむなく、ウルトラ水流で、怪獣となった彼を殺します。

 

 最期のとき、国際平和会議会場にゆれていた万国旗をへし折り、叩きつけながら(皮肉ですね)、泥と水の中でもがき苦しむジャミラは、怒りと悔しさと悲しみのあまり、赤ん坊のような泣き声(演出として、わざとその声にしたそうです)をあげて死んでいくのです。

 

 私は、この場面で、どうにも、涙が止まらなくなってしまうのです。

 

 なぜ、「故郷は地球」の「同じ人間」でありながら、誰かを“犠牲にする”側と、誰かに“犠牲にされる”側に分かれてしまうのか………

 その理不尽さが、あまりにリアルに描かれているからでしょうか。

 

  セレモニー的な、見た目だけの「平和」。

 そのために、ジャミラは、永遠に口を封じられてしまったのです。

 

 物語の中だけの話なら、どんなによかったでしょう。

 けれども、これが人間社会の現実なのだと思います。

 「平和」(特にセレモニー的な「平和」)というものは、大抵いつも、決して小さくはない、誰かの犠牲の上に成り立っているのです。

 

 

 

弱者にパラサイトする社会

 

  ところで、この映画のタイトルは、『パラサイト』=寄生となっていますが、それと似たニュアンスを持つ言葉に、「甘え」、「依存」があると思います。

 

 甘え、依存、寄生。

 この3つの意味について、ネット上の辞書からまとめてみます。

 

 甘え=相手の好意に遠慮無くよりかかること、慣れ親しんでわがままに振る舞うこと

 

 依存=他に頼って存在、または生活すること

 

 寄生=一個の生物が、他の生物についたり内部に入り込んだりして、そこから栄養を     

    取るなどして生活すること

 

 

 映画『パラサイト』は、表層の話の展開を、裏側からなぞるように、もう一つ、もっと深いテーマが潜ませてあるように感じたのです。

 

 たとえば、経済的に貧しく、半地下の狭い住居にしか住めないキム家は、パク家に全員が潜り込むーパラサイトーすることによって、(正当に自分の労働と引き替えに得たお金で)、生活の質の向上や、将来の希望を手にしようとします。

 

 けれども、この構造について、もっと視野を広げて見てみると、どうなるのでしょうか。

 パク家も、キム家も、様々な社会階層の中で生き、生活を営んでいる一家族として、物語という生地を編んでいくのに使われている糸の一本にすぎません。

 

  富裕なパク家は、(雇われている側という弱い立場にある)キム家の(何か不満を言ったり不手際があればクビになるので何も言えない)「好意」に遠慮無く寄りかかり、(雇い主だという強い立場にある)ゆえに、キム家の人々に対して、炊事洗濯掃除、買い物、車の運転、子どもの教育など、生活の自立のほとんどすべてを依存して生活しています。

 

 もちろん、富裕なパク家には、お金があるので、報酬をきちんと払うわけですが、それは、資本主義の仕組みがあるからこそ成り立つ取引きです。

 つまり、お金と引き替えに、キム家の労働エネルギーを、生活に必要な「栄養」として取り込み(寄生する)ことによって、パク家の生活は成り立っているのです。

 

 一時期、よくきいた「トリクルダウン」理論(上の杯が満たされれば、あふれ出た富のしずくは下の杯にも落ちてくる)は、陳腐な理想論にすぎず、上の杯が満たされれば満たされるほど、上の杯はどんどん膨張し、富をすべて吸収し、下の杯には、一滴たりとも落とさない、というのは、強者が強者であり、弱者が弱者であるがゆえ、でしょう。

 

 金力と権力の集中により、そこにあずからなければ生きていけない弱者が、何も言えないのをいいことに、強者が、いつ、いかようにも、弱者を無視し、場合によっては口を封じることができるのは、何も、いまにはじまったことではありません。

 

 いつの世も、同じでした。 

 

 上下関係や勢力関係、立場や地位、腕力、権力や金力にものを言わせて、相手が弱者であるゆえ、何も言わない・言えないのをいいことに、その権利を奪い、搾取し、その分の利益を、(たとえその自覚がなくとも)自分のものにすること。

 

 これを、「パラサイト」と言わずして、何というのでしょうか。

 

 もう一つ。

 これも、どの時代、どの社会にもほとんど言えることですが、強者が(多くはそのありあまるほどの富によって)何かに依存したり、パラサイトしても何も言われませんが、弱者が依存したりパラサイトしたりすると、途端に、「自助努力が足りない」「自立しろ」などという、自己責任論が出てくるのも、やはり、強者が強者で、弱者が弱者であるがゆえ、ということなのでしょう。

 

 

 強い者をいじめれば、あとで大変なことになりますが、弱い者をいじめたって、何も困ることはありませんものね。

 

 

 映画のラスト、パク氏を殺してしまったギテクは、警察の手を逃れ、パク邸の地下に隠れることに成功します。

 重傷を負った息子ギウは、回復後、パク邸を見おろすことができる山へ登り、ちらちらと、地下から発せられるモールス信号により、父がそこにいることを知ります。

 

 そして、誓うのです。

 

 自分は、たくさんお金を稼ぎ、きっと、パク邸を買う、と。

 そうする以外に、父ギテクを救う手段はないのです。

 

 背景に、経済的格差の問題が介在している事件の「加害者」(社会的には「被害者」)である父の救済手段もまた、「お金」しかないとは、なんという皮肉でしょうか。

 

 そうして、その誓いを現実のものとした日には、キム家もまた、お金で自立を買い、自分たちよりも弱い者に「パラサイト」できる身分となるのでしょうか。

 

 

 

                               《おわり》

 

                    

 

 

 

 

 

 

機械 ノ 涙

 

       ずっと ずっと 雨

       だった ような 気がする

       ずっと ずっと 晴れ

       だった ような 気がする

 

       いまは ただ 風が吹いている

       死にものぐるいで

       やすらぎを 探すのに

       そんなものは どこにもない

       水を打ち 波を立て

       木の幹を 引き裂いて

       泣き叫び 

       どこまでも どこまでも

       あてもなく さすらっていく 

 

 

       何が あったのか

       何も なかったのか

       誰かに 遭ったのか

       誰にも 逢わなかったのか

 

       思い出そうとしても

       思い出せない

 

       いつしか

       口癖になっていた

       “モウ ドウデモイイ”

 

 

       いちど 雨に濡れたなら

       傘なんて いらない

       ほしくない

 

       機械は 涙など 流さないと

       みんな 言う

       けれど ほんとうは

       笑いもすれば 泣きもする

 

       “イヤ ダ

       キラワナイデ

       ヒトリニ シナイデ

       ナンデモ スル

       ナンデモ スル カラ……”

 

       雨粒に まぎれて

       そっと 涙を 落とす

       誰にも わからないように

       雨が降る いま ここだけで

       そっと 泣く

 

       それで しばらくは

       おしまい に するから

 

 

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