他人の星

déraciné

映画『シークレット・サンシャイン』

 

 

 もう何十年も前のことである。

 

 高校時代、私は、同級生から誘われ(けっこう強引に)、日曜日に、老人ホームへボランティアに行くのにつき合った(けっこう頻繁に)。

 

 そのたびごと、翌月曜日には、彼女は元気で学校へ行けても、私は、ホームを満たすクレゾールのにおいと、気疲れとにすっかりやられて、具合が悪くて起き上がれず、学校を休むしかなかった。

 

 そんなことを繰り返すうちに、自分は、ボランティアのような、人と関わり合いをもって活動することに向いていないんだな、と自覚するに至った。

 

 

 けれども、ボランティアのような、社会奉仕活動に積極的なのは、何も彼女だけではなかった。

 もう一人、やはり高校の同級生で、数年ののちには洗礼を受けてクリスチャンになった彼女もそうだった。

 

 高校を卒業してからも、彼女とは時々会っていたが、そのとき、彼女から、ほんの数日前に母親を亡くし、ミサに来た男性の話を聞いた。

 そのとき、彼は、こんなふうに語ったらしい。

 

 「母は神の御許に召されたのだから、また会えますから、悲しくありません。」

 

 彼女の表情は、信仰の力の偉大さに、静かに感嘆しているようだった。

 

 けれども、私は、何だかこわくなった。

 

 母親が死んだ……?……死んでも悲しくないのは、母親のことをそんなに好きではなったからなのか……いや、そうではないらしい…… 好きではない人が亡くなったのならともかくも、好きな人に亡くなられたら、悲しいのがあたりまえではないのか………

 

 

 人生は、その半分、もしくは半分以上が、悲しみや怒りで満ちている、と思う。

 

 

 喜びや楽しさは、その場限りの打ち上げ花火のように、盛大に咲き誇るが、一瞬で消えていく。

 けれども、悲しみや怒りは、線香花火のように、じくじくと、内側に熱を溜め込んでぶるぶるとふるえ、小さくなって、静かに消えていくか、最後にぽとりと落ちて消える。

 

 まるで、人生の終わりまで、その感情とともにあり、その感情とともに死んでいくかのように……。

 

 ときには、それが、人生のいっさいを、津波のように襲い、押し流してしまうほどの破壊力をもつこともある。

 

 

 そんなとき、もし、神という絶対的な存在を信じ頼ることで慰めを得られるのなら、それはそれでいい、と思う。

 

 こんなことを言っている私も、いつの日か、絶対的なものにすがらなければどうにもならないような事態にみまわれ、すんなり信者に、なんていうことが、絶対ない、とはいえない。 

 

 けれども、少なくともいまの時点では、私は、神を信じていないし、信じる気もない。

 

 それは、神、という存在が、いるのかいないのか、ということではない。

 

 “神を信じる”、という信仰心によって、自分の心や精神の働きに、不可逆的な変化が起き、それが固定化してしまうことへの、おそろしさと嫌悪感があるのだ。

 

 人間の、あたりまえで、ごく自然な感情が失われてしまったとしたら。

 

 たとえば……

 

 自分、もしくは、自分の大切な人に、取り返しがつかないようなひどいことをした人がいても、神が「汝の敵を愛せ」と言っているのだからといって、「赦す」ことができるのか?

 

 私には、それは、人間であることを放棄するに等しいことではないのか、と思われてならないのである。

 

 

 

 

 『シークレット・サンシャイン』。

 それは、夫を亡くした主人公イ・シネが、幼い息子を連れて引っ越してきた、夫の故郷、密陽市に由来するタイトルのようだ。

 

 ピアノ教師をしつつ、息子とおだやかな日々を送りたくて、地域のコミュニティになじもうと、お酒ありの会合に出席して遅くなったある夜、大切な息子ジュンが誘拐され、殺されてしまう。

 

 夫を亡くした上、心のよりどころだった息子まで殺されたシネの悲しみは、彼女の心を容赦なく切り裂く。

 近所の人に誘われ、乗り気でないまま、キリスト教のミサに出席し、彼女は、神の救いに身を委ねることにする。

 

 そして、彼女が見出した一つの救いは、刑務所に収監されている、自分の息子を殺したパク・ドソブ(もとは息子の塾の教師)に面会し、“赦し”を伝えることだった。

 

 しかし、ここで、狂いが生じる。

 

 シネは、自分が犯した罪の重さに苦しんでいるであろうパクに“赦し”を与えることで、彼が、自分の面前で、滂沱の涙を流して感謝する姿を見たかったのだと思う。

 そうして、彼に恩を着せ、その一生を支配する、という方法で、復讐を遂げようとしていたのではないのだろうか……。

 

 ところが、息子を失ったシネが、胸かきむしるような激しい悲しみに苦しんでいた間にも、早くもパクは信仰をもち、神の赦しを得て、心の平安を取り戻していた。

 

 自分の大切な息子を殺した罪人を、なぜ、自分に断りもなく、神は赦したのか。

 なぜ、自分よりも早く、罪人が、心の平安を得たのか。

 

 シネは、神を敵とみなす。

 そして、空を仰ぎ、「あんたには負けない」、と、憎しみをこめて言い、大切な息子を殺された自分よりも、殺した加害者を先に救った神に、復讐を誓う。

 

 苦しみのあまり、彼女の暴走は止まらない。

 

 「愛など嘘」、と歌う曲を大音量で流してミサをめちゃくちゃにし、自分を信仰に誘った女性の夫を誘惑し、救いを得られず苦しむシネのために祈る会には、外から石を投げつけて、窓ガラスを割る。

 

 

 神を信じることで、生々しい感情にフタをして、自分をマヒさせること。

 それできっと楽になれる、という幻想が打ち砕かれ、今度は、神を憎むことが、皮肉にも、彼女の生きる支えになったのかもしれない。

 

 

 神への信仰と感謝に、酔ったように顔を紅潮させ、賛美歌を歌う彼女よりも、神をうらみ、信仰を憎み、自己破壊的行動へと疾走していく彼女の方が、ずっと人間らしく映る。

 

 その方が、ずっと、“正気の沙汰”、というものではないのだろうか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い くつ

 

 

       今宵の 暮色は ほんのり 白く

       見あげれば 

       白鳥たちが 真白い おなかを見せて 飛んでいく

       かなしい声で 鳴きながら

 

 

       風は 口を すぼめて ひゅうひゅうと

       ためらいがちに

       うしなわれたものの 名を

       ひとつ ひとつ 読みあげる 

 

 

       けれど わたしは いつも

       欲に 目がくらんだ 身のほど知らずで

       

       街角の ショーウィンドウ

       赤い まばゆい ダンスぐつ が 誘う

 

       わたしを 履いて 踊りなさいよ

       きっと あなたに ぴったりな はず と

 

       それからは

       ほかのものが 何も 見えず 聞こえずじまい 

 

       眠りに 落ちても

       夢の なかで

       赤いくつが ダンスを 踊る

 

       ああ いつまで たっても

       世を 渡れば 痛み 傷つく この足を

       きっと

       赤いくつ は やさしく つつんでくれるだろう と

 

       わたしは ついに 赤いくつを 履く

 

       ところが

       

       赤い くつは

       わたしを 

       食べさせも 飲ませも 眠らせも せず

       いつまでも どこまでも 踊り 狂う

 

       かわいた 涙が 雨だれのように 落ち

       頬は ただれ

       からだじゅうが 痛む

 

       赤い 赤い 血に染まる

       欲望の 美しい ダンスぐつ

 

 

       頭上で 白鳥たちの かなしい声が する

       あれは

       仲間が はぐれないよう 呼び合う 声 なのか

 

       どうか わたしを

       仲間に 迎え入れては くれない だろうか

 

 

       あの ためらいがちな 風は

       わたしが いなくなれば

       口を すぼめて ひゅうひゅうと

       わたしの 名も 読みあげてくれるの だろうか

 

 

       その かろやかな 白い羽根を 

       さすらう風の 安らぎを

       どうか わたしに 与えては くれないだろうか

 

      

       そのとき わたしは ようやく

       呪いの 赤い ダンスぐつを

       足ごと 切り落とし

       欲望の 大地と さよなら するのだ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『ラ・ラ・ランド』

 

 

 実によくできた映画だ、と思った。

 

 おそらくは、つくり手側が望んだであろう到達点に、これしかない、というプロセスをたどって、きれいに着地している。

 

 私は、ミュージカル映画は基本的に苦手だが、この程度であれば、仰々しくもなく、嫌みにも感じないので、気障りにもならなかった。

 

 

 物語は、基本的に、「行って帰ってくる」という構造をもつ、と読んだことがある。

 

 主人公は、能動的、積極的、あるいは、いやいやながら、消極的に、冒険の旅に出る。

 

 そうして、数々の意味ある出会いと、喜びや悲しみを経て、大きな危機を乗り越え、何かとても大切なものを代償として喪い、大きな果実を得て、戻ってくる。

 

 (以下、ネタバレになるので、ご注意を)

 

 この物語でいえば、ミアは、女優になるという夢、セブは、ジャズピアニストとして自分の店をもつ、という夢が出立点になっている。

 

 彼らのもつ夢が、彼らをして、能動的に、冒険の旅に出かけさせるのである。

 

 そうして、必ずそこには、挫折、夢の実現の妨害、支援者が待ち受けている。

 

 ミアの場合には、数え切れないほど受けたオーディションで、いやになるほど落ち続け、そのさなか、セブ、という支援者を得る。

 

 セブの場合には、レストランで、好きでもないクリスマスの曲を弾いていたが、我慢ならなくなり、華麗にジャズを奏でたせいで、レストランの支配人からクビを言い渡されたところで、ミアに出会う。

 

 最初は、ミアも、セブも、「私たちは、はじめから激しい恋に落ちたわけではなかった」。

 

 そう、最初の頃こそ、お互いにタイプではないと感じていたが、互いに夢をもち、たくさんの挫折を味わってきた者同士として、理解し合い、支え合うようになり、やがて、愛し合うようになる。

 

 セブは、ミアとの将来を考えるようになるが、二人の結婚と家庭生活のために、安定した収入源を求めて、「好きでもない」音楽を演奏するバンドのメンバーとなって、大成功をおさめる。

 しかし、その成功が、二人の心の距離を遠ざける。

 

 家にほとんど帰れず、ツアーに継ぐツアー生活、「サーカス・ライフ」を送るセブに、ミアは問いかける。

 

 「あなたは、その音楽が、本当に好きなの?」と。

 

 多忙を極めるセブは、ミアの自作自演の一人芝居の、数少ない観客の一人となって、彼女を見守ることもできなかった。

 

 「彼女は大根だ」、という有り難くない批評さえ彼女の耳に入り、すっかりうちひしがれたミアは、夢をあきらめ、故郷の家に帰る。

 

 だが、その日、ミアの一人芝居の数少ない観客の中に、彼女の夢を実現につなげることのできる人物が現れ、彼女はとうとう、夢にまで見た有名女優になる。

 

 いやがる彼女を、その最後のオーディションへと連れて行ったのは、セブだった。

 

 

 5年後、ミアは大女優に、セブは、念願叶って、自分の店を持ち、お互いに成功しているが、二人が結ばれることはなかった。

 

 そう、ミアもセブも、自分の夢を叶えて、冒険の旅から帰ってきた。

 お互いの、愛の未来を、代償として……

 

 

 

 繰り返しになるが、実によくできた映画である。

 

 けれども、物語として、映画として、どんなによくできていたとしても、それを好きか、嫌いかとなれば、話は別である。

 

 残念ながら、私は、好きになれなかった。

 

 ごくごくほんの一握りの、大きな夢を叶えた人の、挫折と栄光の道のり、そして、その代償となった愛の物語、というのは、良くいえば「なつかしい」が、悪くいえば、「古くさい」のである。

 

 この映画を、明るく楽しいものにするためには、この道筋しかなかっただろう。

 

 たとえば、ミアかセブのどちらか一方が、相手への愛を優先し、自分は夢をあきらめて、相手の夢を応援していたら、おそらくは、先々、嫉妬などの複雑な感情によって、二人の関係は、破綻していただろう。

 

 もっと最悪のケースもあり得る。

 

 ミア、もしくはセブの、いずれかは成功し、夢をつかむが、残されたもう片方は、夢を追う代償としてさんざん傷ついた自分の翼に、相手の成功、そのまばゆい光によって、あらためて気づかされ、絶望を深め、自ら死を選んでしまうかもしれない。

 

 いずれにしても、映画にしたら、おそらく、作り手がつくりたい、受け手に届けたいと思っていたものとは、似ても似つかない、別ものになってしまったことだろう。

 

 

 人間の、リアルな感情と日常について描くのであれば、いまや、ハリウッドではなく、韓国の得意分野ではないかと感じる。

 

 何かは得たが、かなりビターな結末と、映画はそこで終わるけれども、その先に、あるいは、もっと悲惨な何かが待ち受けているかもしれない……。

 

 この年末年始に、映画『パラサイト』の監督ポン・ジュノ作品を二つ観た。

 『吠える犬は噛まない』と、『グエムル―漢江の怪物―』である。

 

 いずれも、容赦がなかった。

 

 ハリウッド式では、主人公、もしくは主人公側の人間は善を象徴し、災難に遭っても助かることが多い。

 

 けれども、この二つの韓国映画に限っていえば、主人公は必ずしも清廉潔白ではなく、「災難人を選ばず」、という真実どおりに、死ぬ者は死んでいく。

 

 楽しい夢を見させられ、夢から覚めたら、はたして現実の方が比較にならないほどおそろしかった、という感覚を味わうよりも、冷たい水に、少しずつ、少しずつ、足の先から、こちらの手を取って、慣らしてくれるような物語の方が、私にとっては、ずっと“優しい”と感じる。

 

 そちらの方が、私の好みなのだから、しかたがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

happy-go-lucky

 

 

        「人ごみは 苦手」 なんて

        言ってた くせに

        なんで 来ちゃったかなあ

        正月 三日目の 初売り ショッピングモール

 

        実は かっこつけてた だけなんでしょ

        人が 多いの なんて 

        本当は そんな 気になりも しないのに

 

 

        ただ ただ 疲れて

        人が大勢 上り下りする エスカレーター

        その傍の 椅子に

        くったりした ぬいぐるみ みたいに 座っていると

        いろんな 声が 断片が きこえてくる

 

 

        「疲れた もう 帰ろう」

 

        妻が 夫に 話しかける 中年の夫婦

        夫は まだ 楽しみたかった みたいだ

        けれども

        妻の言葉に 「帰ろう」 と 言葉を 返した

 

 

        「お年玉 もらったんだから 欲しいもの 買わなきゃ」

 

        父が 息子に 言った

        けれども

        きっと 幼なすぎて 彼には まだ

        自分の 欲しいものが わからなかった みたいだ

 

 

        白髪の 母親の 車椅子を 押して

        靴屋に 入っていった 老いた母娘は

        ほどなく 店から 出てきた

        おばあさんの 欲しい靴は みつからなかった みたいだ

 

 

        エスカレーターで 上り下りする 人々には

        不思議な 規則性があって

        あふれんばかりに たっぷりと 

        すべての階段を 満たしていることも あれば

        一人 二人も 乗っていない ことも ある

 

 

        思い思いの 色と デザインの 紙袋を

        思い思いに 二つ 三つ 四つと 手に ぶらさげて

        帰るのだろう これから 思い思いに

        それぞれの 家へ

 

        「家族」 という 絆しの 束ごとに

 

 

        食卓の 明かりは 

        昼白色 それとも 昼光色

 

        どんな においのする 

        どんな 空間で すごすの だろう

 

  

        それぞれが まとっている

        背景が 色が 空気が 時間が

        違うから 

 

        それを 思うと

        とても とても こわくなるのは

        どうして だろう

 

 

        エスカレーター 傍の 椅子の上で

        人知れず こわがっている

        わたしが 

        押し流される 時間の先で

 

        いま 見ているものと

        あとから 思い出すものとで

        いったい どちらが

        「夢 みたいだ」 と

        思うの だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『はちどり』(3)

 

 この時期になると、いつも思うことがある。

 

 どうして、クリスマスには、ごちそうやケーキを食べなくちゃならないんだろう?

 

 どうして、おおみそかには、年越しそばを食べなくちゃならないんだろう?

 

 どうして、お正月には、おもちやらおせち料理を食べなくちゃならないんだろう?

 

 

 別に、そういう決まりはないのだし、法律で罰せられるわけでもないし、そうしないのだったら、しなくてもいいのに。

 

 ところが、どうしても、この時期になると、自動的にそうしてしまう。

 

 なぜなのか?

 

 そうしないと、何だか、気持ちが悪いのだ。

 

 多分、生まれてからというもの、ずーっとそうしてきたから、そういう習慣がすっかりからだにしみついてしまい、やらないと、何だか落ち着かないから、なのだろうと思う。

 

 

 

 ある日の夕方、私は、家へ帰るために、バスを待っていた。

 

 すると、目の前で、母親に連れられた子どもが、前のめりに転んだ。

 まだ、ひとり歩きできてから、そんなに日が経っていないような、本当に小さい子だった。

 

 母親は、子どもに、「あっ!、大丈夫?!」と、大きな声をかけた。

 そのときはまだ、子どもは、道路に腹ばいになったまま、泣きも何もしていなかった。

 

 けれども、母親の表情と、悲鳴のような声の調子、慌てたようすを見て、自分がどんな目にあったのか、理解したのだろうか。

 

 子どもは、母親に抱きついて、泣き出した。

 

 

 私は、それを見たとき、思った。

 ああ、これか、と。

 

 

 人間は、どこかとても機械的だ。

 

 自分の行動やしぐさ、ふるまいが、自分がこれから生きていく社会で、どんな意味をもつことになるのか。

 何より、それが、他の人たちに、どのように受け取られることになるのか。

 

 たとえば、転んだ、ということは、「痛い」と感じるだろうけれども、それをはたして「痛がって」いいのかどうか。

 痛いと言って、泣いたりすることが、自分にとって、有利に働くのか、不利になるのか。

 

 人間は、言葉だけでコミュニケートするのではなく、表情やしぐさ、視線、行動から、服装、持ち物に至るまで、すべてのものが、コミュニケーションとしての意味合いを、否応なくもつことになる。

 

 それを、子どもは、周囲の人たちとのあいだで学んでいく。

 自分とは違う考え方や感じ方をもつ、他人だらけの世界の中で。

 

 そんなことを、数え切れないほど繰り返し、繰り返し、意識もしないうちに学んだり身につけたりしていくうちに、たくさんの糸で織られた、複雑な色合いの「その人」ができあがっていく。

 

 そうなると、今度はまた、不思議なことが起こる。

 

 自分のことなのに、自分ですべてをコントロールすることはできなくなる。

 

 感情が、衝動が、欲求が、この私の腕を、勝手につかんで、あらぬ方向へ引っ張っていく。

 言うつもりなどなかった言葉。取るつもりなどなかった行動。

 

 私は、私として存在し、私自身を所有しているとばかり思っていたのに、私ですら、私のものではなかったと、思い知らされることになる。

 

 

 人間のもっている、こうした「機械性」は、おそらく、時々刻々処理しなければならないたくさんの情報、選択や判断しなければならないたくさんの課題を、できるだけ効率よく処理するために必要とされるものなのだろうと思う。

 

 繰り返しになるが、日々、そういうことを繰り返していることが、織りあげられた「その人」、という布地に、より複雑な模様をつけていくことになるわけで、どこかが気に入らないから変えたいと思っても、もはやその布は複雑すぎて、どこのどの糸をどう解きほぐして編み直せばよいのか、見当も付かない。

 

 いったいどこで、こんな模様になったのか。

 いったいどこで、こんな色が付いたのか。

 

 自分のことなのに、わからないし、どうしようもないのである。

 

 

 14歳になるまでにも、ウニは、数え切れないほどたくさんのできごとを経験し、たとえば自分が言ったことやしたこと、自分の気持ちに対して、まわりの人がどんな反応を返してきたか、返してこなかったかの繰り返しによって、まだ若いなりに、彼女なりの模様と色彩を持つ布を織りあげてきた。

 

 おそらく彼女は、はじめて「あなたは自分を守って。そうするだけの価値がある、大切な人間なのよ、あなたは」と、言語、非言語両方で言ってくれたヨンジ先生に出会うまで、他の人たちとの間で、厳しい体験を重ねてきたのだろう。

 

 他人は、言葉で言うほど責任感や愛情をもって接近してくるものでもないし、信頼すれば、ひどい目にあってしまうかもしれない。

 

 この世に生まれ、生きていくということは、とても理不尽で、そんなにいいことでも、素晴らしいことでもないかもしれない……

 

 

 「私もいつか輝けるかな」。

 

 どちらかというと、これまで組み敷かれることの多かったウニは、ヨンジ先生との出会いを経て、雲間から光が射すように、そう思う。

 

 たとえば、人生のほとんどの日々は、曇っていて、なまり色の空が広がっているとしても。

 

 雲一つない、快晴の日など、一度もおとずれないとしても。

 

 けれども、ほんのちょっとでも、陽の光の暖かさを感じることのできる瞬間があるうちは、人は、とりあえず、辛い今日をやり過ごして、少しだけ、待ってみよう、と、思うともなく、思えるのかもしれない。

 

 

 

                                  《おわり》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『はちどり』(2)

 

 この世に、平等な人間関係など、存在しないと思う。

 程度の差こそあっても、どちらかが組み敷かれ、どちらかが組み敷いている。

 

 もし、“私たちの関係は、平等だ”、と思っている人がいるのなら、その人は、ほぼ確実に、「相手を組み敷いている」。

 

 なぜなら、不平等や不利、不満は、相手に組み敷かれ、弱い立場におかれた人が感じるものだからだ。

 

 人は、自分が誰かを傷つけたことは、簡単に忘れてしまうが、誰かに傷つけられたことは、決して忘れない。後々まで、不快な後遺症がのこる。

 

 ただ、同じ“組み敷かれる”立場であるにしても、喜んで組み敷かれる場合もある。

 それは、尊敬とか、崇拝とかいうもので、その人が踏んで歩いた地面すら、愛おしくて、ほおずりして、接吻したいような気持ちに支配される。

 

 熱烈な恋愛の、初期症状のようなものだ。

 

 

 14歳のウニは、はじめて、安心して心を開くことのできる大人に出会った。

 それが、漢文塾の新しい女性教師、ヨンジ先生だった。

 

 大人らしい、落ち着いた物腰と、淡々とした表情と口調で、彼女が最初に黒板に書いたのは、「知っている人の中で、本心まで知っているのは何人?」

 

 ウニの心に、静かに、波紋が広がっていく。

 私は、私が知っている人の中で、その人の本心まで、知っている人は、どのくらいいるだろうか。

 私の本心を知ってくれている人は、私の知っている人の中に、いったい何人、いるのだろうか……

 

 

 人は、自分のかたちを、社会や世の中に合わせて、どこかを切り取ったり、付け加えたりして生きている。

 

 ときには、シンデレラの姉たちのように、幸福や成功のためなら、サイズの合わないガラスの靴に、自分の足を切り取り、血だらけになってでも、むりやりその型にはめ込もうとする。

 

 自分の身を、危険から守るために、そしてときには、自分に有利にことが運ぶように、自分の姿かたちを変える。

 

 それは、仮面をつけた虚像なのだけれども、往々にして、人と人は、お互いの本心のありかに思いをめぐらすこともなく、仮面どうしで素通りし、すれ違っていく。

 

 忙しいから、余裕もないから、面倒くさいから、それでいい、と、思っている。

 

 

 ウニは、兄から、友人から、ボーイフレンドから、黙って組み敷かれていた。

 その方が、ことを荒立てなくてすむから。

 面倒なことにならずにすむから。

 自分さえ、我慢して、嵐が過ぎ去るのを、待っていれば……

 

 

 ウニが、ヨンジ先生に、兄から暴力を受けていることを打ち明けると、先生は、「殴られないで」、と言う。

 つまり、黙って傷つけられていてはだめ、ということだ。

 

 安心して、心を開いてもいい大人がいることを、はじめて知った彼女は、そこから少しずつ、変わっていく。

 

 なのに、ヨンジ先生は、ある日突然、何も言わずに、漢文塾をやめてしまう。

 

 大好きな先生の姿が見えないことに動揺したウニは、新しく就任した先生に、ヨンジ先生の消息をたずね、先生が荷物を取りに来る日と時間を聞き、そのとおりに来たのに、ヨンジ先生は、すでに去ったあとだった。

 

 やりきれない思いで、一度は、塾の教室を出たものの、自分にいいかげんな嘘の時間を教えた新任の先生のもとへ戻り、自分の思いをぶちまける。

 

 「どうして私に嘘の時間を教えたの!ちゃんとした時間を聞いていれば、先生に会えたのに!」

 

 ウニは、はじめて「話した」。

 感情の道具、あるいは武器としての、言葉を、ようやく発することができた、ということだ。

 

 しかし、ウニは、そのせいで、塾をやめさせられてしまう。

 自分の部屋に閉じこもり、家族から罵声を浴びせられ、最初は何も言わずにうずくまっていたが、とうとう、これまでの、家族に対する不満や鬱憤とともに、発作のような金切り声を上げ、大爆発を起こす。

 

 「私は間違ってないし、性格も悪くない!」

 

 驚いて部屋に入り込んできた家族の前で、兄がウニを殴り、兄の暴力が、ようやく両親に知られることになる。

 

 声をあげることで、ウニが、自分を守った瞬間だった。

 

 

 ある日、ヨンジ先生から、荷物が届く。

 漫画を描くのが好きなウニのために、スケッチブックと、手紙には、「突然やめてしまってごめんね。今度会ったら話そう」という言葉があった。

 

 けれども、ウニは、もう二度と、ヨンジ先生には、会えなかった。

 

 ヨンジ先生の、ウニへ向けた、さいごの言葉、だったのだろうか。

 

 

 “死”って、意外と、近くにあるものだったのね。

 そうかもしれない、とは思っていたけれど。

 わたしも、よくは知らなかったわ、と。

 

 

 

                               《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『はちどり』(1)

 

 

 七面倒臭い人生を生きてきた人は、七面倒臭い性格になるのか?

 単純明快な人生を生きてきた人は、単純明快な性格になるのか?

 

 そう、かもしれない。

 けれど、そんなに簡単でもないのかもしれない。

 

 七面倒臭い人生を生きてきたのに、わりと無頓着な性格になる人もいる。

 単純明快な人生を生きてきたのに、何かとまわりくどい性格になる人もいる。

 

 できごとそのものや、経験そのもの、ではないのかもしれない。

 社会や世間、他人などの、自分の外側の世界の、どこをどんなふうに見て、自分の内面の世界で、何を感じたり、考えたりしてきたのか…?

 

 いや、けれども、それすら、必ずしも、自分のコントロール内ではない。

 

 

 人間というものは、ひどく視野が狭い。

 外界を知覚し、認識する「意識」の働きが、著しく歪んでいて、ひどく偏っている。

 

 たとえば、バスケットボールのゲームに興じていると、コートのど真ん中を堂々と、ゴリラの着ぐるみを着た人が横切っていっても、ほとんどの人は気がつかない。

 

 優先的に意識を向けなければならない刺激に集中し、確実に処理するために、不必要と判断された情報は、かなり大胆に切り捨てられる。

 

 なおかつ、「意識を集中せよ」、あるいは、「無視せよ」、という命令は、当人が自覚できない無意識から発せられている。

 

 脳の奥で(心の奥で)、私ではない、別の誰かが、操縦席に座り(「パイルダーオン!」)、私の心身を支配し、勝手気ままに操っている……。

 

 しかも、そんな偉そうに命令している操縦士は、外側から、刺激の強い情報が入ってくると、やすやすと操縦桿を譲ってしまったり、いとも簡単にハイジャックされてしまったりする。

 

 

 ……ねぇ、ねぇ、それ、本当に好き?

 

 これ、本当に好き、なんて思っているそれ、ほんとに好き?

 知らないうちに、なんかの影響、受けてない?

 どこかで、刷り込まれてない?

 絶対、そんなことない、……とは、言い切れない、と思う。

 

 

 ゆえに、表向き、私は私だけれども、実は、私は私ではない、と言った方が、正しいのかもしれない。

 

 

 故・高畑勲氏は、現代の「物語」が、その受け手を甘やかす方向にどんどん傾いていくのを、憂えていた。

 主人公が、たとえば失敗したり、何かを失ったりしても、結局最後に待っているのは、それらを取り返して余りある「予定調和」な結末なので、受け手は「安心して、主人公に感情移入し、ついていける」結果、手痛い挫折を味わわずに終わってしまう。

 

 何だよ。たかが、つくりもの、「物語」の世界の話じゃないか。

 その場で面白く見られれば、それでいいんだよ!

 

 そう、かもしれない。物語は、面白くないと、ね。

 けれども、私は、「物語」と「現実の世界」は、深いところでつながっていると思う。

 

 物語のつくり手は、いわば、その物語世界の創造主、つまり、カミサマだ。

 登場人物を、いかすも殺すも、煮るも焼くも、カミサマ次第だから。

 

 カミサマに気に入られた主人公サイドの人物は救済され、彼、もしくは、彼らがかぶるはずだった災難は、どこかへ吹き飛ばされる。

 けれども、自然の摂理として、誰かがかぶるはずだった災難を、どこかへ吹き飛ばしたら、その代わりに、他の誰かが、その災難をかぶることになる。

 

 そのへんを、よく描けていたのが、『時をかける少女』(奥寺佐渡子脚本/細田守監督作品)だったと思う。

 

 人生、そううまくはいかないんだよ、と、言ってくれるのが、物語であってほしい、と私は思う。

 

 なぜなら、良い受け手が育たなければ、良い物語は生まれないからだ。

 

 せっかく大切なことを言ってくれていても、それを読みとり、理解する力が受け手になければ、その物語は、無視され、誰にも知られずに埋もれてしまう。

 

 だから、受け手に阿ったり、すり寄ったりするのではなくて、受け手の体力を鍛えてくれるような物語に出会いたい、と、私は思う。

 

 そうして、物語によって鍛えられた体力は、物語を読むときだけでなく、現実の生活にも、大いに役立ってくれる。

 

 たとえば、ものごとの因果関係や、わかっているようでわかっていない、自分の気持ちを、文脈によって読み取り、理解することにも役立つ。

 

 本作は、そんな映画だと思う。

 

 言ってみれば、何の変哲もない物語だ。

 

 よくありがちな、思春期の少女の、もやもやした気持ち、不安定に揺れ動く日常を描いている。

 

 主人公ウニの家は、小さな餅屋を営んでいる。

 両親も、仕事が忙しくていらいらしたり、夫婦げんかをしたかと思えば、いつの間にか、仲直りしたり、めんどくさいと、自分の子をぞんざいに扱ったりする、ごくふつうの人々だ。

 

 姉のスヒは、方々遊び回って帰ってきて、両親から叱られまいと、ウニの部屋に隠れ、いつもウニがかくまうことになる。

 

 兄のデフンは、進学のことでストレスをつのらせ、その鬱憤を、妹のウニに、暴力を振るうことで発散させている。

 

 ウニには、親友もいるし、ボーイフレンドもいるし、憧れてくれる後輩もいるが、それらの関係は、決して安定した信頼と居場所を与えてくれはしない。

 

 親友のジスクは、一緒に万引きして捕まり、親の連絡先をきかれたとき、裏切って、ウニの親の連絡先だけを言う。

 

 ボーイフレンドのジワンは、ウニだけでなく、他の女の子と親しくなって、ウニから離れたりする。

 

 後輩のユリは、「先輩のことが誰よりも好き」、と言っておきながら、学期が変わった途端、ころりと心変わりして、ウニを無視する。

 

 そして……。

 

 通学路の途中には、“私たちは 死んでも 立ち退かない”という横断幕が貼られている住宅地がある。

 おそらくは、自分たちの居場所を、理不尽に奪われようとしている者たちの、怒りと抗議の声だろう。

 

 けれども、その横断幕は、いつしか時の流れに破れ、廃れていく。

 “私たちは 死んでも”………

 その願いは、聞き届けられなかった、ということだろう。

 

 

 14歳の少女、ウニの表情は、いつも静かだ。

 

 自分の身に受ける暴力にも、心ない親友や後輩の言動にも、母親からの無視にも、自分の感情をぶちまけることなく、淡々としている。

 

 けれど、何も反応しないからといって、何も感じていないわけじゃないし、それらの経験や見たもの、きいたものが、すべてどこかへ消えてしまうわけではない。

 むしろ、出力せずに、溜め込む一方だから、感情面での体験は、他の人よりも強烈に、彼女の心や魂を刺激しているはずだ。

 

 まるで、むかしは栄えて、いまは衰退した都の上に、しんしんと、雪が降るように、目に映るもの、感じるものが、少しずつ、降り積もっていくように、彼女の心の深部を形成していく。

 

 

 美しく、完璧だったガラス細工に、キズがつき、繊細な部分から欠けていき、ああ、生きるって、そんなものなのね、ひとって、そんなものなのね、という人生の理不尽さを、自分自身が傷ついていくことによって、知っていくことになるのだ。

 

 

 

 

                                 《つづく》