他人の星

déraciné

『魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』

 

 

 これは、どうみても、『外伝』である。

 

 タイトルは、『魔法少女まどか☆マギカ 外伝 ワルプルギスの廻天』とすべきだったのではないだろうか。

 

 公式ホームページには、“『叛逆の物語』の正統なる続編”とあり、すっかりその気になって観に行ってしまったのが間違いだった、と、腹も立ったし、ひどく悲しくなった。

 

 『叛逆の物語』で、まどかへの“愛”(妄想が暴走している感はあるが)のために、悪魔になったほむらを、どう救済するのか。

 その際、ほむらによって、記憶を改変させられた、まどかをはじめとしたおなじみの魔法少女たちが、どんなふうに抗い、あるいは甘受し、ときに反発し合いつつも、協力し合うのか。

 

 そして、 『叛逆の物語』が、暁美ほむらの物語だったのだから、次はきっと、鹿目まどかの物語をみせてくれるのではないか、という大なる期待もあった。

 

 

 鹿目まどかは、『魔法少女まどか☆マギカ』の主人公であり、その名字にこめられているように、おそらくは、物語の“要”であるはずである。

 

 しかし、「主人公が最後まで魔法少女にならない」、という縛りによって、まどかは、ある意味、物語の世界によって、“主人公になることを拒まれて”いる。

 

 テレビシリーズから『叛逆の物語』までの間、まどかの人物像は、他のキャラクターに比べて造形が薄い。

 それもそのはずだ。

 「あまたの世界の運命を束ねる因果の特異点となったキミなら、どんな途方もない望みだろうと叶えられるだろう」

 と、キュゥべえ(インキュベーター)に言わしめたほど、彼女が計り知れないエネルギーを秘めているのは、ほむらが彼女を救いたいあまり、時間遡行を繰り返した結果であって、「ごくふつうの家庭で平和に育ったごくふつうの女の子」には、強い感情など生まれようもない=強い因果を引き寄せられない、という設定からであろう。

 

 だが、たとえ、ごくふつうの円満な家庭で幸せに暮らす女の子だって、いろいろあるはずだ。

 たとえば、まどかは母親と親しいが、自分の母親にすら気を遣っている。

 忙しい朝、「最近どうよ?」ときかれても、まどかは素直に、自分の近況を話す。

 

 だが、中学2年生という難しい年頃の子どもには、「そういうの、ウザい」と無視する権利がある。

 

 手足伸びきって、身体はすっかり大人なのに、心がまだ追いついていない、そのギャップから、思春期は、心が嵐のように荒れ狂う「疾風怒濤期」とさえいわれていたのだから。

 

 

 まどかは、学校でも同じく、誰にでも、優しい気遣いをみせる。

 人は誰しも、喜怒哀楽の感情を、ワンセット揃いでもっているのに、まどかは、他のキャラクターに比べても、特に、「怒り」の感情をほとんどみせない。

 

 怒りは、とても大切だ。

 その人の“逆鱗”がどこにあるか、誇りとかプライド、不安や迷い、ここだけは譲れないというこだわり、守りたいものがにじみ出るものだからだ。

 

 そして………。

 『叛逆の物語』の正統なる続編なら、と期待したところが、結果は惨憺たるもの、今度は、あろうことか、まどかは主人公どころか、“のっぺらぼう”にされてしまった。

 

 もしこれで本当に終わりなら、『魔法少女まどか☆マギカ』は、主人公が最後まで魔法少女にならないばかりか、主人公にさえなれなかったお話です、と言わざるを得ない。

 

 

 もともとの5人の魔性少女の中で、話を丁寧に、深く掘り下げていった『叛逆の物語』に対して、『ワルプルギスの廻天』は、新しいキャラクターを4人も投入し、それぞれの“ゲスト”の背景を描くことにかなりの時間を費やし、物語が横軸方向に引っ張られてしまったのだから、内容が薄くなるのは、当然だろう。

 

 名前をあげれば、紫丁香、セルマ・テレーゼ、ワス、マルグリートの4人だが、ことに、後半の、“ラスボス”?セルマ・テレーゼとのバトル、マルグリートの出自のエピソードは、明らかに蛇足だと思う。

 

 (このあたりになって、私は物語についていく気力を失い、バトルから途中離脱したさやかちゃんと一緒に、映画館を出て、帰りたくなった)。

 

 

 少なくとも私は、マミ、ほむら、さやか、杏子のことを、そして、特に、今度は(今度こそ)、まどかのキャラクター性を、もっと深く掘り下げてほしかった。

 いかようにでも、できたはずである。

 それほど、『叛逆の物語』は素晴らしかったのだから。

 

 

 2時間、という、映画としても長い時間、バトルやら、魔女の出現シーンやら、あちこちで、ドカーン、ボカーン、と、爆発やら、火柱が上がり(おいおい、そんなに破壊を繰り返したら、破壊できるビル群なんて、もう残ってないんじゃ……というくらい)、刺激が強く、音と色と光の情報の洪水に、映画館を出る頃には、頭と首と肩と背中と腰が痛くなり、クタクタに疲れ切ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー

 

  「どっちがマシかな?

  モンスターのまま生きるか 善人として死ぬか」

 

                       『シャッターアイランド』

 

 

 本作を読み、思い出したのは、映画『シャッターアイランド』のラスト、ディカプリオ扮するアンドリュー・レディスのセリフだった。

 

 映画の詳細は省略するが、自分の命をもってしても贖えないと感じるほど強い罪悪感に苛まれた彼は、この後、ロボトミー手術へと赴く。

 

 ロボトミー手術とは、脳の前頭葉の神経繊維の一部を切断するという、精神疾患治療法の一つであるが、現在では禁止されている。

 術後は、自己の思考や意思により、選択、判断し、必要に応じて抑制したり、行動に移したりことができなくなるため、文字どおり、“自分を殺す”方法といえる。

 

 劇中、彼は、どのような思いで、この言葉を発したのだろうか。

 

 故意ではなかったにしても、自分の大切なものを永遠に失う、その引き金を引いた自分は“モンスター”である、という耐え難い罪悪感を抱えたまま、生きるのか。

 

 それとも、その罪深い自分を、何も知らない、罪のない善人へ帰するため、ロボトミー手術によって、「自分」という意識を葬り去るのか。

 

 

“すばらしい新世界”の世界

 

 (※ネタバレ有り)

 

 「すばらしい新世界」の根幹をなす基礎理論は、精神分析の祖フロイトと、自動車王ヘンリー・フォードによって顕される。

 

 人間が、替えのきく一本のネジとなる大工場、その象徴であるところのヘンリー・フォードは、この世界では、いわば「神」の座を与えられており、人々は、何かにつけ、(“Oh,my god!”ではなく)「フォード様!」と言う。

 

 そして、フロイトの理論は、人間生活の根源である性欲動の理解と、その実践を通して、社会の安定を、土台の部分で支えている。

 

 フロイトによれば、我々の文明は、性欲動の多大なる犠牲の上に築かれているのであり、だからこそ、この世界では、社会の安寧と文明の永続化のために、子どものうちから性的行動への免疫力を培い、大人になれば、“誰もがみんなのもの”、フリーセックスの奨励、性欲を刺激する触感映画(フィーリー)の鑑賞、さらに、ひと月に一度、全身の組織をアドレナリン漬けにし、恐怖や憤怒、憎悪などの激しい情動を、人為的に引き起こして解消させる“代替激情療法”を義務づけるなど、ぬかりはない。

 

 これに対して、禁忌とされているのは、特定の誰かだけとの親密な関係、結婚と家族、出産である。

 すばらしい新世界において、家族は、「感情の悪臭が漂う」、「危険で常軌を逸した猥褻な関係」でしかない。

 

 では、この世界で、人はどうやって生まれてくるのかといえば、フォード式の大工場で、一つ一つ、壜の中で、人為的操作の限りを尽くしてつくられる。

 生まれつき、アルファからエプシロンまで、社会階層が決まっており、それぞれの階層の役割や労働に必要な知能や容姿しか与えられず、下層階級に至っては、みんな同じ顔である。

 

 そして何より、鬱や精神不安の万能薬として、副作用などの問題がいっさいない、“甘美な”麻薬、「ソーマ」がいつでも手に入る。

 

 しかし、この世界の構造が、その真の姿を露わにするのは、ニューメキシコの未開人居留地に住む“野蛮人”ジョンの登場によってではないだろうか。

 なぜなら、彼こそ、“すばらしい新世界”の外側で生まれ育った、現実世界に暮らす私たちの象徴だからである。

 

 ジョンは、避妊の失敗により、文明人同士の間に生まれてしまった子どもであり、母親リンダとともに、居留地で暮らしている。

 居留地の社会は、一夫一婦制であり、結婚までの純潔、夫婦生活の厳しい規律が存在している。

 だが、もともと文明人だったリンダは、性的に放縦であり、ことに、シェイクスピアを読んで育ち、性に対して、厳しい戒律めいた抑圧を自らに課すジョンの目には、母の姿は、性的に堕落しているとしか映らない。

 

 やがて、ジョンとリンダは、文明都市ロンドンへの帰還を果たすが、美しい文明人の女性レーニナに出会い、激しい性的衝動に襲われたことで、ジョンは、自らへの激しい嫌悪と羞恥、罪悪感に苛まれ、自らの身体を鞭打つ。

 

 さらに彼は、母リンダの死に際し、“死はチョコレートエクレアのように甘くて美味しいもの”、と条件付けられた文明の子どもたちの、好奇のまなざしと、老いたリンダの醜さを囃し立てる声の中で看取らねばならなかった。

 

 その後、観察対象として、そのままロンドンに留め置かれたジョンは、世界統制官ムスタファ・モンドに、文明世界への疑問と不満をぶつける。

 

 ムスタファ・モンドは、言う。

 

 「みんなは幸福だ。欲しいものは手に入る。手に入らないものは欲しがらない。みんなは豊かだ。安全だ。病気にもならない。死を恐がらない。幸せなことに激しい感情も知らなければ老いも知らない。母親や父親という災いとも無縁だ。強い感情の対象となる妻も、子供も、恋人もいない。しっかりと条件付け教育をされているから、望ましい行動以外の行動は事実上とれないようになっている。何か問題が起きたときにはソーマがある。」

 

 だが、ジョンは、拒絶する。

 

 「要するにきみは」とムスタファ・モンドは言った。「不幸になる権利を要求しているわけだ」

 「ああ、それでけっこう」ジョンは挑むように言った。「僕は不幸になる権利を要求しているんです」

 「もちろん、老いて醜くなり無力になる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物がなくて飢える権利、シラミにたかられる権利、明日をも知れぬ絶えざる不安の中で生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の筆舌に尽くしがたい苦痛にさいなまれる権利もだね」

 長い沈黙が流れた。

 「僕はそういうもの全部を要求します」ようやくジョンはそう言った。

 ムスタファ・モンドは肩をすくめた。「まあ、ご自由に」

 

 

 

ディストピア小説よりもディストピアな現実

 

 その後、ジョンはひとり、灯台に隠れ住む、彼の苦しみや心の痛みを理解しない(そんなものがこの世に存在するなど思いもしない)、文明社会の記者や、多くの見物客が訪れた。

 さらに、追い打ちをかけたのは、あの美しいレーニナの来訪だった。

 

 ジョンは、灯台に暮らすようになってからも、彼女の面影と、“モンスター”のような性的衝動への罪悪感に苦しめられており、その姿を目にするや、彼女を鞭打ち、また自らを鞭打つ。

 

 そして最後に、自ら望んだとおり、これ以上はない程の苦痛の末、灯台で首を吊って死ぬのである。

 

 

 私たちの代表、“野蛮人”ジョンもまた、自らに問うたのだろうか?

 

 「モンスターのまま生きるか 善人として死ぬか」

 

 自ら制御などできもしない内なるモンスターと、それゆえの罪悪感とともに、生き続けるのか?

 

 それとも、そんな罪深い自分を、根こそぎ消してしまうのか?

 

 

 

 人は、大きな負荷や精神的苦痛を厭わず、すすんでわざわざそれを行うことがある。

 たとえば、様々なスポーツ、登山、厳しい修行、創作活動など、あげればきりがないほどだろう。

 

 そして、少なくない人々の声や、多くの創作、著作物が、ジョンのような生き方、信条こそが、まさに“人間らしい”、というメッセージを投げかける。

 

 あらゆる悩みや痛み、苦しみでさえ、自分が自分であることの証であり、生きている証である、と。

 

 だが、本当にそうなのだろうか。

 

 ごく一部の、ほんの一握りの撰ばれた人や、希望を失わずにいる、いようとする人が、すすんで苦痛を求めるのは、その先に、かすかな光が、まだ見えているから、ではないのだろうか。

 たとえ大きなものではなくとも、喜びや達成感、その先へつながる何かを、まだ信じているから、ではないのだろうか。

 

 

 冒頭にあげた、映画『シャッターアイランド』で、アンドリューが赴く、ロボトミー手術が行われる場所もまた、「灯台」である。

 

 荒ぶる大自然、海を、高い場所から見渡し、安全な航路を船に伝える役割を果たす灯台。

 

 その意味するところは、何なのだろう?

 

 灯台が照らす航路の安全は、人類のための「安全」であるのか。

 

 人が本来もっている獣性や、不安定さを抹殺する行為が、「灯台」、その場所で行われているのだとしたら?

 

 いったい、何のための、誰のための安全であるのだろうか。

 

 

 生きる上での苦しみの多くは、その人と、その人が生きる社会の間に、負の連鎖が引き起こされることによってもたらされるのではないかと、私は思う。

 

 もし、自分の性質が、自分が生きる環境との間に、どうしようもない“相性の悪さ”が存在するとしたら?

 あるいは、もとから、そういう人間を求めてもいない社会に生まれ、生きなければならないとしたら?

 

 あたかも、誰にでも手に入るように見せかけて、実は、何も思い通りになりもせず、求めるものなど何も手に入らないとしたら?

 

 

 いまの私には、「欲しいものは手に入り、手に入らないものは欲しがらない」、『すばらしい新世界』の方が、現実世界よりも、まだマシなディストピアに、思われてならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

許す とか 許さない とか

 

 

 生きて、行きつく先はどうなるのか。

 それをみせつけるのが、年老いた親の最後の役割なのだろうか。

 

 「九十七歳で患者?最高齢だね」と担当医に驚かれ、かつて一国一城の主だった父は今、病室の片隅で、一日の大半を眠って過ごしている。

 

 激動の昭和から現在まで、九十七年を生きてきた父は、重度の認知症となり、「昭和ヒトケタ」の厳しい家父長はどこへやら、今は赤子同然、他人の世話なしには生きていくこともできなくなった。

 

 

 水が、高い方から低い方へしか流れないように、ストレスのはけ口というものは、必ず、弱者へ向かう。

 私の家のヒエラルキーは、父→妹→母→私、という順であったから、独裁政権下の総統である父に抑圧されたしわ寄せは、最後に私のところへ回ってくる。

 

 (きいた話によると、飼い犬は、その家で自分の地位は下から2番目だと思うらしい。

 この犬が私を下僕扱いしていたので、私は自分の家庭内での地位を確信した)。

 

 それに関して、私の中には、今も消えないわだかまりがずっと残っている。

 言葉にしていえば、「なぜ私をあのように扱った」、「私をこんなにしたのはお前たちだろう」、という積もり積もった憤りからくる強い不快感である。

 

 社会や他人に対する過度な臆病さや傷つきやすさ、手も足も出ないという無力感、誰にも理解されないという心細さやおそろしさを、生育過程で私に仕込んだのは、間違いなくあの家族だと思うからだ。

 

 そうしてついてしまった歪みは、自分の生まれ育ちの家を出て築いた、新たな関係にも影響する。

 

 

 原則、私の意見を聞き入れない妹と母とともに、父を見舞った日の夜、私はその疲れとストレスにより、苛立っていた。

 

 折り悪く、外は大雨、傘を持たずに出かけた私のパートナーは、ショートメッセージを送ってきたが、私はそのメッセージを無視した。

 

 気にかける余裕がなかったのだと思う。

 

 近くのコンビニでビニール傘を買い、それを差して帰ってきた彼は、不機嫌そうに、メッセージへの返信が無かったこと、ひどい雨だし気づいて迎えに出てくれるとか、察してくれても、と、少し強めの口調で言われたとき、私の苛立ちが爆発した。

 

 そこから、大ゲンカ、である。

 

 私に至っては、周囲に聞こえるほどの大声で、「ク○ッ○レ!」と連呼、罵倒し、彼の襟首をつかんでゆすった。

 

 

 翌朝、起きるなり、互いに土下座、平謝りだった。

 

 私が「ク○ッ○レ!」と本当に言いたかった相手は父であり、妹であり、母だったのだろう。

 

 彼の方にも、彼なりの状況と経緯があった。

 

 それなりの社会的地位を得た、もとは仲の良かった同級生から、とりつく島のない不機嫌な態度を取られ、カチンときていたらしかった。

 その同級生の性格や、気分にムラのあるところは、私に似ている、とパートナーは言った。

 

 でも、昔は仲が良かったのだし、「また飲みに行けば」、と私が言うと、彼は、「あんなヤツと飲んだって楽しくない」、と言い放った。

 

 そのとき、私は思った。

 

 その同級生が私に似ているのなら、もし私が彼とパートナー関係ではなく、その同級生と同じようなことを、彼にしていたら?(いや、実際にしている、してしまっている)。

 きっと彼は、容易には、私を許してくれないだろう。

 

 

 ともに同じ家の中で寝起きし、食事し、生活する者同士は、許し合わなければ、一緒になどいられない。

 

 しかし、どこまで許し、許されるものなのだろうか……。

 

 

 たとえば、私たちは、社会的地位としては宙ぶらりん同士で、それゆえの自由や暇もあるが、もしこれが互いにフルタイムで働いていたり、子どもがいたりしたら、互いに自分を振り返って考えたり、謝ったりする余裕も失われてしまうかもしれない。

 仕事や人間関係、子育てのストレスの巣窟と化し、家は修羅場になるだろう。

 鬱屈した感情の発散も解放も機を逃し続け、先送りを繰り返し、気がつけば、取り返しがつかないほどの負債を抱え込んでいる、などということは、ザラではないのか。

 

 

 誰もかも、どんなパートナー関係であっても、絶対的に相性がもう最高とか、そういうことは、実際にはほとんどないのではないのだろうか。

 「この人だから」、「この人でなければ」、などと、ある特定の個人に限定した相性というよりも、たまたま状況がそうだったからうまくいくとかいかないとか、そういうレベルの話でしかない、ということではないのだろうか。

 

 

 そうなると、 “許す”とか、“許さない”とかの問題も、その許容範囲も、よく分からなくなってくる。

 

 「風が吹けば桶屋が儲かる」とか、バタフライエフェクトとか、言い方はいろいろあるが、ある人が、ある感情の状態になり、それが他人に対してのもの言いや行動になって表出する、という比較的短期で瞬間的なものから、性格など長期にわたって観察されるものまで、そこには必ず、何らかの理由や背景が存在する。

 それは、本人にとっては至極当然の結果なのだが、他人からみれば、理解不能で、場合によっては、迷惑千万なものであったりする。

 

 一陣の風が、ある人の髪の毛を撫でていっただけなのに、些細なつながりで伝わっていった先で、危険な突風が、誰かをなぎ倒すことだってある。

 

 比較的大きな被害を受けた者は、どうすればいいのか?

 

 それとも、許すだの、許さないだの、そんなことにこだわることすら、ばかげているというのだろうか。

 

 

 ……そうだな。

 もし、この重苦しい胸のつかえさえ、すっかりきれいに消えたなら、(許すことを)考えてやってもいいんだけどな。

 

 しかし、現実には、この重苦しいかたまりは、私にだけ理解可能で、死ぬか、父のように、「意識」をもたざる世界に行くまで、ひとりで抱えていかなければならないのだろう。

 

 許す、とか、許さない、とか、そのあたりの煩わしい問題も含めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

死の翼

 

 

 それは 

 朝となく 昼となく 夜となく きこえてくる

 非常を知らせる サイレン

 めくるめく 赤色灯

 悲痛な叫びが

 道路に 人の群れに 穴を 開けていく

 

 何もないに等しい つかの間の 人生を

 踊り狂おうとも 泣いて儚もうとも

 

 それは 悪趣味な冗談 のように 

 予兆もなく 調和もなく 突然に

 首を 切り落とす

 

 

 途方もなく 広い 死の翼が

 闇とともに 命の灯を のみ込んでいく

 

 ごらん

 人ひとりの 影 など どこへいったものか

 それは ほんとうに あったのか

 あったなら いったい どこへ消えてしまったのか

 

 

 巨大な翼が 死臭をふりまく 

 あたりに満ちる 死のにおい

 

 

 そして 見よ

 いずれ すぐに 戻ってくる

 

 羽ばたきの 音もなく

 おそろしい 静寂のうちに

 

 我が 死を たずさえて

 

 

  

 

 

 

 

 

I ME MINE

 

  Now they're frightened it

  Everyone's weaving it

  Coming on strong all time

  All through the day,I me mine

 

  そこから離れるのをこわがっているみたいに

  誰もがみんな いつでもそれを強引にでっち上げる

  朝から晩まで “俺が 俺が 俺が”

 

                    I ME MINE/THE BEATLES

 

 

 人間は、いったいいつから、他とは違う自分という意識、つまり「自我」に固執するようになったのだろう。

 

 そのへんにうじゃうじゃしている有象無象とはまったく異なる、この世にたった一人しかいない「私」、という意識は、時代が進むにつれて先鋭化し、いまやまるでガラスの尖塔のようである。

 

 たとえば、日常化したSNSによって発信される膨大な数の他の「個」と比べられ、優劣をつけられ、誰もが優位な唯一無二にならなければ、などという強迫観念にとらわれているとしたら、それはもう生き地獄以外の何だというのだろう?

 

 ムダに鋭く尖って孤独であり、何かにぶつかりでもしたら、一巻の終わりだから、生きている限り、「さわらないで」、「傷つけないで」、と怯えているしかない。

 

 

 

 哲学者の山内志朗氏によると、哲学者が「私とは」について考えるようになったのは、13世紀頃のヨーロッパ、ということらしい。

 

 一つには、モンゴル帝国によるユーラシア支配により、東西にまたがる人的物的交流が活発化し、商業の復興、貿易ルートの形成に伴い、為替や銀行など金融システムが変化し、取引や契約の主体が「誰」なのかをはっきりさせる必要が出てきたこと。

 

 ……やっぱり、金か。

 

 もう一つは、キリスト教が思想のベースとなっているヨーロッパの教会で、告解が制度化されたことにより、それは(他の誰でもない)、「私の」罪である、という意識が強化されたことなどが主たる背景なのではないか、というのである。

 

 

 「金」の所有と「罪」の意識によって、「私」という自我が尖りはじめたとは、「人間の為すことに、人間らしくないことは一つもない」と、故なだいなだ氏が述べたとおり、ヒトの業の深さを、アルファからオメガまで象徴するようで、何とも皮肉としかいいようがない。

 

 以来、犯罪が起これば、犯人は「誰」、被害者は「誰」、それを言ったのは「誰か」、それをやったのは「誰か」、ありとあらゆる責任の所在や所有をめぐって、はてしなく続く拷問に、自我はついに法廷の囚人と化したのである。

 

 

 だが、これほどあたりまえのようにまかり通っている、「他とは異なる唯一無二の私」を、たとえば遺伝子学の分野からみると、様相はずいぶん異なる。

 

 個体とは、他とは脳情報が異なるものをいう。

 しかし、ゲノム上では、個人という単位は、あまり重要ではない。

 人間は、人類が長い歴史の中で罹患したウィルスや様々な細菌など、膨大な数の「よそ者」と一体化した超生命体であり、自然界では、個体は単に、遺伝子をシャッフルし、変化する環境に適応し、できるだけ長きにわたって種を存続させるための手段でしかない。

 

 

 となれば、いま、これだけ私たちを苦しめている「私」という意識に、いったい何の意味があるのだろうか?

 

 脳(あるいは腸)の中で、膨大な領域を占める無意識が、「私」が知らない間に、知らないところでこっそり決めて意識にあげられたものを、「これは私の自由意思によって決めたことです」、などと、本当にいえるのだろうか?

 

 (たとえば、ハエの異性の好みは、腸内フローラが決めているそうである)。

 

 

 まして、決めたのが誰なのか、はっきりしないものについて、自己責任を求められるとは、あまりに乱暴といえば乱暴すぎるのではないだろうか?

 

 

 しかし、「私」、という意識こそ、ヒトの長い歴史を経て、ここまで先鋭化されてしまった苦しみの源であることがわかっても、私たちがそこから逃げ出す手段は、死をおいて他にはないのだろう。

 

 「いま決めたことは、私が自由意思によって、一から十まで考え抜いて決めたことではないのだ」

 「だから、私にはそのすべてについて責任を問われる所以はない」

 

 などと、いくら言い聞かせてみたところで、社会に劇的な変化でも起きて、「私」という意識が先鋭化される前の段階に戻ることでもない限り、今さら、「私が、私が、私が」を、手放すことはできないし、それは地中深く埋め込まれた偽りの記憶のように根を張って、私たちを支配し続けるのである。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ブゴニア』   

 

 

 物語は、実におそろしい。

 誰にとっておそろしいかというと、他でもない、作り手にとって、である。

 何がおそろしいかというと、作り手自身が自覚していない、無意識的な、当人のスタンスが、物語の文脈を通してあぶり出され、暴かれるからである。

 

 

 (以後、ネタバレを含みます)

 

 地域社会への高い貢献度を誇る大手製薬会社「オークソリス」のCEOミシェルは、誰もがうらやむような地位と名声を手にしたカリスマであり、メディアはこぞって彼女を取材する。

 

 「多様性の尊重」、という彼女のメッセージは、タテマエであり、本心では、その言葉自体も意味も、見下している。

 

 同様に、「すべての雇用者は、17時半までには帰宅し、家族との時間をもつこと」、というメッセージも、「ただし何もすることがないのなら」という但し書き付きであり、なすべきことを自ら見いだせないような者は、企業への忠誠心に欠けている、というのが、ウラに隠されたホンネのメッセージである。

 

 月食の迫るある日、入念な計画をもって、オークソリスの会社の倉庫で荷物係として働くテディは、従弟のドンに手伝わせ、ミシェルを誘拐する。

 

 養蜂家でもあるテディは、オークソリスが「蜂群崩壊症候群CCD」を引き起こしており、ミシェルは人類滅亡を企むエイリアン、アンドロメダ星人に違いないと信じている。

 (人間の食糧の1/3の受粉をミツバチが担っており、アインシュタインは、「もしミツバチが絶滅したら、その4年後には人類も滅びる」という言葉を残している)。

 

 

 さて、主要人物三人の立場を整理してみる。

 

 ミシェルについては、いうまでもなく、こと今日の世界での「成功者」であり、「勝者」の象徴である。

 

 それに対して、テディは、下っ端で働く労働者であり、従弟のドンは、コミュニケーションを苦手とし、社会適応の難しい発達障害者として描かれている。

 

 さらに、テディの母親は、オークソリスの新薬の治験者となったことで意識不明となり、テディは、当時ミシェルから、型どおりの謝罪と賠償しか受けていない。

 (しかも、誘拐された後に至っては、逃亡を目論むミシェルは、「母親を救える」とテディを騙し、不凍液を母親に注射させ、殺させておいて、「お前が母親を殺した」、とまで言うのである)。

 

 

 つまり、ミシェルが“強きもの”であるのに対して、テディとドンは、“弱きもの”である。

 

 この強者対弱者の構造は、物語全体を支える深部の水脈として、一貫した流れを見せている。

 物語世界を貫く「強者の側から見て都合のいい」メッセージ性は、激昂したテディがミシェルに襲いかかった際、ミシェルが嘲笑するように放った、「おまえたちは負け犬、私が勝者」という言葉にはっきりと表現されている。

 

 

 そして、物語の詳細ないきさつは省くが、ラストで、ミシェルは本当に、地球滅亡を企むアンドロメダ星人であり、しかもその皇帝であって、テディの考えは、決して陰謀論などではなく、真実であったことが明かされる。

 

 

 ドンとテディの死亡後、月食の夜、母船に戻ったミシェルは、「人類を改良する実験は失敗」(彼女がテディを使って殺害した彼の母親はその実験体の一つ)として、地球上すべての人類を全滅させる。

 

 

 

 ……何か、おかしくないか?

 

 

 エンディングで、人間のいない世界での鳥のさえずりや、昆虫たちの営みのような自然音が流れるなか、わたしの中で、ミツバチの羽ばたきのようなざわめきが、どんどん大きくなっていった。

 

 物語の冒頭で、「蜂群崩壊症候群」について、女王蜂(と幼虫)を見捨てて、働き蜂すべてがいなくなった結果、コロニー全体が崩壊する、と説明していなかっただろうか?

 だとすれば、この終幕は、伏線を回収していないどころか、全く矛盾している。

 真逆である。

 

 

 だいたい、地球人の世界で、弱者の抑圧と犠牲に甘えっぱなしの強者が、(地球環境汚染に対する大なる責任を有しているにもかかわらず無自覚で、なおかつ、冷酷無比な対人態度でもって人的環境をも激しく汚染するような者が)、崇高な混沌の純粋な極みである宇宙の、アンドロメダ銀河、そのいと高きところににおわします「王」にふさわしいとするならば、それはあまりにも、情けなくないか?

 

 そして、養蜂家としても、労働者としても、あるいは家族としても、企業(=“女王蜂”ミシェル)から苛酷な搾取を受け、決して陰謀論ではない、誰も信じない「真実」に気づき、人知れず地球を、人類を救おうとしたテディは、死によって口を封じられて終わりか?

 

 さらに、難しいことは分からないけれど、自分を見捨てず、優しくしてくれたテディを慕っていたドンもまた、他者とのコミュニケーションが必須のスキルであるこの世界から締め出された“弱きもの”である。

 

 わたしは、ドンが自殺したのは、ミシェルから、彼の従兄であり唯一の友テディを裏切るようそそのかされ、それに従いたいと思ってしまった自分への罪悪感と絶望によってではないのかと思った。(そうした意味で、銃の引き金を引かせたのはミシェルである)。

 

 人は、自分によくしてくれた人との間に、あたたかい情を通わせたいと願う、とてもさびしがりな生きものだ。

 

 

 要するに、弱きものによって見出された「真実」も、「情」も、強きもの―“女王蜂”によって、(その多くは働き蜂であるところの)世界が見捨てられ、秘密裡に葬り去られて、物語は幕を閉じたのである。

 

 

 ……ならば、わたしは、たとえ地球人を好きではなくとも、他星人が勝手に決めた「正しい」人間の在り方に異を唱え、さいごの血の一滴まで戦おう。

 

 

 そう思いつつ、映画館を出て、春とはいえど、冷たく強い風の中を、帰途についた。

 

 

 

 

卒業

 

 

 「さよなら」 なんて 言いたくない

 臆病 だから

 誰より かっこよく 「またね」 と言いたい

 目立ちたがり だから

 

 オオカミ気取りの ヒツジ なのか

 ヒツジ気取りの オオカミ なのか

 

 どっちつかずで

 

 わたしと わたしが

 こすれ合って ざらざらと 不快な音を 立てる

 

 

 「連絡してね」 なんて

 つなぎとめたい 求愛のことばでしか ない

 かっこわるい ね 

 

 

 去りゆくもの より のこされしものの方が 

 いつも さびしい

 

 「じゃあね」 と はしゃいで 去っていく

 きみには あしたしか 見えてない

 それで いい 

 それでいいのは わかっている けれど

 

 のこされしものは なごり雪

 きみの うしろで はかなく消える

 記憶のように

 

 

 飛び立つ きみの ハイテンション

 あてられて 少し酔ったか

 今朝は 二日酔い

 

 ああ 世界が まわる