「人は、わかり合えると思いますか」、と問われたら、どう答えるだろう?
「わかり合えないんじゃないかな」
私が問うと、ある人は、そう答えた。
何だか、ほっとした。
私が感じていたことは、そう間違いでもなかったのかな、という安心と、その人の誠実さに、だと思う。
それでつい、欲が出て、じゃあその孤独をどうしたら?ときくと、その人は言った。
「それが、芸術を生むんじゃないかな」
同感だった。
人には、人との間では、どうしても埋められない、孤独やさびしさがある。
それを埋めてくれるのは、同じく、孤独な誰かが創った何か、なのだろう。
さて、映画『我々は宇宙人』は、二人の少年の物語である。
後藤翼は、折り紙で手裏剣を作れる、ごくふつうの小学三年生である。
もう一人は、翼のクラスメイトで、絵が格別上手な、星暁太郎である。
「俺の相棒にならない?」
物語は、暁太郎が、翼に接近したところから展開していく。
内気で、なかなか自分をアピールできない翼は、どこか風変わりで面白い暁太郎と、楽しい日々を送る。
しかし、子どもは、いつまでも子どもではいられない。
小学校も高学年頃になると、誰もが否応なく、大人への入り口に立たされる。
自分のやりたいことが阻まれたり、思いどおりにならないことへの苛立ちや焦燥は、他の誰とも違う、アイデンティティ希求のはじまりである。
翼は、母親にゲーム機を取り上げられ、親の支配への反発とイライラを募らせていく。
一方、暁太郎は、クラスの女子、目黒小夏に、淡い恋心を抱く。
それもまた、異性への関心が芽生える時期には、何の不思議もない。
しかし、その先で起きたできごとが、二人の関係を、思いもよらない方向へ押し流す。
雨の日に、傘をひっくり返して遊んでいた暁太郎が、翼の傘も同じようにしようとして、壊してしまう。
暁太郎のちゃちなビニール傘に対して、翼は、(親に黙って借りてきたらしい)しっかりした傘だった。
翼の苛立ちは沸点に達し、以来、暁太郎を無視するようになる。
そして、さらに追い打ちをかけるような事件が起こる。
翼が、傘の件で母親から叱られた腹いせに、ほんの出来心で、上から、暁太郎が作った粘土の像を落とし、それが、ちょうど階下を歩いていた小夏が抱えていたメダカの水槽を直撃し、小夏がけがをしてしまった。
そのとき、暁太郎が近くにいたことから、騒ぎで集まってきた子たちによって、小夏のけがは、暁太郎のせい、ということにされてしまう。
(ちなみに、暁太郎の粘土像は、人間の自分と、宇宙人の姿をした翼が、手裏剣でつながっている「友情」像だった)。
小さなキズを、致命傷にしてしまうのは、大抵、無関係な外野たちだ。
自分のことでもないのに、寄ってたかって、勝手に裁判を始めて、もうひっくり返せない判決を下してしまう。
その結果、翼は、“自分がやった”とは言えなくなってしまった。
しかし彼は、あとになって、暁太郎の謝罪の言葉や、自分の思い違いを知っても平気でいられるほど、特別な人間ではなかった。
翼は、どこまでも、「ふつう」なのである。
その証拠に、彼は、俗に言うワルい仲間とつるむようになり、「どうせ自分はワルだから」、と、過去、暁太郎にしてしまった仕打ちを、後付けでもいいから、何とか正当化しようとする。
一方の暁太郎は、あのとき、あんなことさえなければ、小夏と両想いになれたはず、という思いから、それを台無しにした翼を恨み続けることで生きてきた。
実は、暁太郎が、小夏からだとばかり思っていた恋文は、翼のいたずらであり、さらに、暁太郎は過去、翼に気があるんだろうと、小夏がクラスメイトにからかわれていたのを、見て知っていたはずなのである。
(人は誰も、自分が信じたくない、受け入れたくないことを無視することにかけては、達人である)。
「宇宙人」とはつまり、意思疎通困難(あるいは不可能)を意味するのだと思う。
翼の「ふつう」は、大人になるにつれて、世渡り力に変わっていった。
一方、暁太郎の「特別」は、理解されにくさや、生きづらさへと、変わっていったのである。
そうして、翼は、自分が加害者であるという不愉快な記憶をいつしか忘れ、暁太郎は、人生を台無しにされた被害者としての痛みを抱いたまま、大人になった二人は再会する。
少年の頃、翼と暁太郎は、互いに宇宙人どうしのままで、一緒にいられた。
「じゃあね」、と言えば、「じゃあね」、と返してくれる、相棒どうしだった。
大人になった、二人の「じゃあね」は、描かれているとおり、分岐である。
翼には、妻と子がいる。
暁太郎には、別の相棒がいる。
怒っているのか、照れているのか、それとも両方か。
ぞっとするほど美しい、赤い月。
けれども、あの神秘的な天体は、特別に、自分だけを追ってくるのではなかった。
世界は、自分のものではない。
自分は、「特別」などではなく、ありふれて、あふれかえっている、一個の生命体にすぎない。
しかし、“自分は特別である”、という、呪いのような意識は、どんなに否定しても、ゾンビのように蘇ってきては、期待と失望を、繰り返し繰り返し、いやというほど味わわせる。
我々は、宇宙人。
私は、私以外の、すべての人にとって。
私以外の、すべての人は、私にとって。
自分が呼ぶ声に、誰かが応えてくれた、と思っても、それは、山に当たって返ってきたこだまかもしれない。
水面に、誰かの姿が映り、自分を見てくれた、と思っても、それは水鏡に映った自分の顔かもしれない。
「わかり合えた」、と思った次の瞬間には、噓のように、心が遠く離れてしまうことなど、めずらしくも何ともない。
“私は特別”、という尖った自意識に傷つき苦しみ、人と人はわかり合えないとわかっていても、人は、誰かに何かを、執拗に、求め続けてしまうものなのだろうか。
そうやって、自分の人生の帳尻を、何とか合わせられないものかと、いつまでも策をめぐらすのだろうか。
いっそ、全部捨てられたら、どんなに楽だろう?
なのに、今日もまた、遠い山へ向かって叫び、深い水をのぞき続ける。
まったくこりもせずに。