他人の星

déraciné

あるセミのはなし

 

 

 それは、真っ青な空がまぶしい、夏の盛りの、ある暑い日のことでした。

 一匹のセミが、森の奥深くにある、木の幹に止まりました。

 

 セミは、なつかしげに、言いました。


 「やあ、久しぶり。おぼえているかな、ぼくのこと」

 

 木は、そのセミが、自分に向かって、まっしぐらに飛んできたときから、もうわかっていました。

 

 「もちろんだよ、本当に久しぶりだね!元気だったかい?」

 

 木は、もう何日も前、自分の根の深いところから、懸命に這い上がってきたセミが、羽化して飛び立った日のことを、思い出していました。

 

 「それにしても、こんな森の奥深くまで、よくきてくれたね!」


 木の言葉に、セミは一瞬、沈黙してから、応えました。

 

 「ぼくの故郷は、きみだけだもの。…それはそうと、」

 

 といいつつ、セミは、木の根もとを、きょろきょろと、何かを探すように、見まわしました。

 

 「あの日、ぼくが這い出した穴、もうなくなってしまったの?」

 

 木は、応えました。

 

 「うん、そうだね。きみが羽化したのは、雨が降り続いたあとの、きれいに晴れた日だったけれど、それは、本当に幸運だったよ!晴れたのは、あの一日だけで、翌日からは、また、ずっと雨だった。それで、きみが這い出した穴は、すっかり埋まってしまったんだよ」


 木が、セミに、どこかふつうでないようすを感じたのは、このときでした。

 いいえ、本当は、もう何秒前、何分前、あるいは、ここへ向かって飛んできたときから、わかっていたのかもしれません。

 けれども、木は、自分の根の下で育って、巣立っていったセミが、元気がないだなんて、思いたくなかったのでしょう。

 


 木は、おそるおそる、セミにたずねました。

 

 「…どうして、いまさら、そんなことをきくんだい?」

 

 セミの、美しい透明な目は、心なしか、潤んでいるように見えました。

 

 「…実は、ぼくは、ぼくはね、自分が這い出した、穴の中に、戻りたくて、ここまで飛んできたんだ」


 「えぇ?」

 

 木は、あまりにも、驚いてしまいました。
 けれども、セミの方には、木のようすに気づく余裕など、ないようでした。

 

 「あの日、羽化なんて、すべきじゃなかった。ぼくはずっと、穴の中で、一生を送るべきだったんだ」

 

 セミのそんな言葉に、木は、すっかり動揺してしまい、なんとかして、セミをなぐさめようと、言いました。

 

 「あの日、きみは、うんと苦労して、たくさんたくさん時間をかけて、それはそれは美しい羽を広げた。ぼくはそれを見て、本当に、ほっとしたんだよ。なぜって、それだけでも、たいしたことなんだから。ぼくの根もとからは、今までに、それこそ、数えきれないくらいのセミが這い出してきたけれど、無事、羽化できたのは、ほんの一握りだったんだよ」

 

 「ほんの、一握り」

 

 セミは、力なく、言いました。

 

 「きみなら、知っているよね。たとえ、羽化できたって、思いを遂げられるのは、それこそ、一握りのやつだけだって」

 

 落ちついて、ものを言うのが、セミにはもう、ここまでが限界のようでした。
 何かがはじけ飛んだかのように、セミは、悲しみと怒りを、あらわにしました。

 

 「ああ、ぼくは、ばかだ、なんてばかなんだろう!もとから、叶うはずのない恋をしてしまった!ぼくは、花に恋をしてしまったんだ」

 

 セミの、あまりに激しいもの言いに、木もまた、とても正気ではいられませんでした。
 それで、つい、言ってしまいました。

 

 「どうして、そんな…」

 

 「どうして、だって?…恋に、理由などあるものか。心を奪われたら、それっきりさ。あの子は、ひまわり、と言った。ひらひらした、黄金の花びらといったら!ぼくは、あんな美しいもの、ほかに見たことがなかった。それでぼくは、来る日も来る日も、彼女のところへ飛んでいった。そうして、できるだけ、彼女の負担にならないよう、そっと、彼女の首筋に止まって、きみが好きだ、大好きだって、うたい続けたんだ」

 

 ここまで言って、セミは、重く、せつない、ため息を吐きました。

 

 「…でも、彼女も、かなわぬ恋をしていたんだ。あの、まぶしくて、暑くて、目もくらむような、とてつもなく、大きなやつさ!彼女は、日がな一日、愛しい彼を、目で追い続けていたよ。あの憎たらしい、太陽ばかりを。ぼくは、彼女が笑った顔など、一度も見たことがなかった。太陽のやつ、彼女に、一瞥もくれないんだ。彼女は、悲しい顔で、いつも言うんだ。わかってるの、わかってるの、だって、私は、こんなにたくさん咲いているひまわりの、ただの一輪にすぎないのだもの。誰とも違わない、みんな同じ、風が吹けば、みんな一緒に、同じように揺れる、ただの一輪の、ひまわりなんだもの、って。ぼくは、言った。そんなことない、きみは、ほかの誰とも違う、ぼくは、きみほど美しい人、見たことがないって。でも、彼女は言うんだ。あなたには、わからない、わかりっこない、って」

 

 木はもはや、セミに、なんと言葉をかけてよいか、わかりませんでした。
 それで、できるだけ、優しく、こう言いました。

 

 「…だけど、ねぇ、どうして今さら、穴の中に戻りたい、なんて言うんだい?…叶わなかったかもしれないけれど、きみはその、黄金にひかり輝く、美しい彼女に出逢えたじゃないか。もしきみが、世界へ飛んでいかなかったら、その彼女のことさえ、知ることができなかった。そうだろう?」

 

 木の言葉に、セミは、強くかぶりを振りました。

 

 「いいや!叶わないのなら、会わなければよかったんだ。こんなにこんなに、息もできないくらい、苦しい思いをするのなら!…ぼくだけじゃない。ぼくみたいなのじゃなくたって、ほかのやつらだって、声をからして、のどもとが裂けて血が出るほど、小さな心臓が、今しもはち切れてしまいそうなほど、愛しているよ!愛しているよ!愛しいきみ!どうかぼくをみてくれ、なんてうたっているけれど、ほとんどは、思いを遂げられず、死んでしまうんだ!」

 

 「だけど、きみはたしかに、世界に愛されて、祝福されて、飛び立っていったんだよ!」

 

 木は、たまらず、力づけるような調子で言いました。

 けれどもセミは、やり場のない思いに、すっかりいらだっているようでした。

 

 「ああ、そうだね!おぼえているよ!きみは、ぼくが飛び立つ日、そう言って、ぼくを送り出してくれたっけね。こんどは、きみが世界を愛する番だ、せいいっぱい、世界に愛を叫んでおいで、ってね!…だけど、いまはこう思うよ。きみって、まるで、自分が神さまか、なんかのように思っているんじゃないか、って」

 

 木は、ぎょっとしました。

 

 そうです。その木は、本当に、とても立派で、大きな木でした。
 お陽さまに向かって、思いきり幹を伸ばし、枝葉を広げて、光をあび、雨を受けとめていると、本当に幸せな気持ちになって、まるで、自分こそが世界で、世界は自分そのもの、という気がしてくるのでした。

 

 木は、ほんの少し、枝をたわませるようにして、言いました。

 

 「それじゃあ、きみはもう、うたわないのかい?」

 

 「うたうものか!」

 

 セミの声は、まるで、何かを嘲笑するかのようでした。

 

 「ぼくは、求愛をうたうことしか、知らないのだもの!ぼくのうたは、ぼくがいやでも、求愛にしか、ならないのだもの!」

 

 セミは、そう言うと、重いからだを、羽にゆだねて、さらに森の奥深くへと、飛び去っていってしまいました。

 

 

 やがて、秋が深まり、木枯らしが吹いて、色づいた葉が落ちていくごとに、木は、いつもよりも少し、不安とこわさを感じました。

 

 もしかしたら、自分は、あのセミのことを、忘れてしまうのではないだろうか。

 

 あのセミの、嘆きと苦しみを、いずれくる眠りの中で、すっかり忘れてしまうのではないだろうか。

 

 そうしてまた、自分の根もとから飛び立ついのちに、同じように、きれいな言葉を投げかけてしまうのではないのだろうか、と思ったのです。

 

  けれども、新しい、初々しいいのちを、その輝きを、何倍にも勇気づけ、力づけて送り出さずにはいられない、自分の性分が、きっとまた、同じような言葉を吐かせてしまうに違いないことも、よくわかっていたのです。

 


 やがて、ちらちらと、小さな虫のような、粉雪が舞い始めました。

 

 白い雪は、何もかもを消し去り、埋めていきます。

 

 木は、眠りにつく最後の瞬間、自分で自分を、生きながら埋葬しに戻ってきたセミの、とても澄んで、美しく悲しげな目を思い出し、夢の中へ、落ちていきました。

 


 あたりはしんとして、もう、動くものは、何もありませんでした。

 

 

 

 

                              《おわり》

 

 

 

 

 

 

 

蟻がたかっているかもしれない

 

 

 テレビは、騒ぎ立てている。

 

 外来種のカメだとか、ザリガニだとか、サカナだとか。

 

 そいつらが、生態系を破壊しているから、じゃんじゃん駆除したまえ、と。

 

 しかし…… 

 

 「生態系、著しく破壊してるの、オマエだろうがあぁぁぁぁ!!!」

 と、すべての動植物から、鋭いつっこみが入る。

 

 そう。取り返しがつかないくらいに、生態系をもっとも著しく破壊したのは、ヒト、である。

 

 だから、駆除してくれ、ということで、ヒトは、ヒト同士で駆除し合う。

 それはもう、苦しい苦しい生き地獄である。

 

 

 日ざかりに、蟻の葬列を見た。

 とはいえ、この葬列、どこかおかしい。

 かつがれている蛾が、まだ動いている。弱っているが、たしかに、動いている。

 

 どうしよう、と思った。

  蟻にとっては、貴重な蓄え、けれども、蛾はまだ生きている。

 生きているなら、終わりまで、生きた方がいいのかもしれない。

 

 私は、蝶ならば、ためらいなくさわれるが、蛾にはためらいがあった(差別だ、偏見だ、わあぁぁぁぁぁ)。

 

 なんとかつかまってくれないかと、蛾に日傘の先を向けていると、誰かが、ひょいと、蛾を持ちあげて、蟻から救ってくれた。

 

 背筋がしゃんとして、すらっと長身の、おじいさんだった。

 日中、熱かったから、弱ってしまったのだろう、と、彼は言った。

 

 それからは、アフリカの人喰い蟻の話にはじまり、骨董でどえらい儲けて、月々奥さんに、50万円ものこづかいをやる80代の金持ちじいさんの話、自分は自衛隊員だった、という話(写真も見せてもらった)、自分が通っている耳鼻科の女医さんが、これまたきれいな人で、奥さんがヤキモチをやいて、別の耳鼻科に変えろと言っている話、地名と武士の名字の話、と続いた。

 

 自分は80代だが、まわりからは若く見られる、というから、ああ、本当に、お若いですね、と私は言った。

 

 本当に、そう思った。

 

 50代の自分の方が、どれほど元気がないか……

 

 

 夜、ときどき、タロットカードを手にする。

 

 “自分”を表す場所に、たびたび、「死」のカードが出る。

 このカードは、死、そのものというよりも、新しいことや変化を表す、というが。

 

 出すぎである。

 

 「おまえはもう死んでいる」、ということだろうか……

 

 しかし、死んでいるとしても、この人間は、息を吸えば欲を吸い、息を吐けば、欲を吐き出す。

 

 欲すること、呼吸するがごとし、である。

 

 夏目漱石が書いたとおり、日本の文明開化はあまり急速すぎて、次から次へと、皿にのった料理が運ばれ、それを口へ放り込んだかと思うと、すぐに次の皿が来るので、味わっているひまなど無い。

 

 美味しいのか、まずいのか、何を食べているのか、わかりもしない。

 

 しょせん、文明の歪みですよ、政治の貧困ですよ、といったところで、おまえがおまえを駆除しろ、という話だが、やはり死ぬのはこわいので、生きている。

 

 生きている、というが、本当に生きているのだろうか。

 

 もしかしたら、私にも、すでに、蟻がたかりはじめているのかもしれない。

 

 葬列は、すでに、出発しかけているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドキュメント『シン・仮面ライダー~ヒーローアクション挑戦の舞台裏』(2)

 

 

 「社会に適応しきれないモノが、欲求不満を防衛反応にて解消しようとする精神的行為を、フィルム作りという集団的かつ、商業アニメという経済的行動で遂行しようとしているという矛盾もあります。」

 

                   ―庵野秀明『フィルムを作ることの快感』

     

 

 庵野氏の、「社会に適応しきれないモノ」、とは、他でもない、自分自身について、そう感じてきた、ということなのだろう。

 

 たしかに、庵野氏のように、感じたままに彷徨する「右脳」的な「モノ」は、いかなるものであっても、それが、左脳によって分析され、外部に出力されない限り、引き出しにしまわれたままの手紙のように、誰にも知られず終わることになる。

 

 今日では、それ自体が「経済的行動」となり、大金に化けさえすれば、「才能あるね」、と、人々の喝采、憧憬、賞賛をあびることになるのだから、なおさら、「左脳」的な働きが、必要不可欠、なのである。

 

 

 さて、ドキュメントでは、総監督庵野秀明氏が、ロケーションや、撮影したものに、何らかの反応を示すのを見て、現場のスタッフやキャストが、「今のが~だったから(気に入った、気に入らない)のではないか」、と、推測しつつ、手探りで、撮影がすすんでいく。

 

 しかし、それですすむかと思えば、一度「いい」と言ったものが、今度はひっくり返される。

 

 そのたびに、撮影現場は混乱し、スタッフ、キャストを巻き込んで、空気感が悪くなっていく。

 

 総指揮者である「庵野秀明」、という右脳が、言葉にならない、どうしようもない何ものかを求めて、「いい」だの「悪い」だの、非合理的にしか見えない反応を示すのを、なんとかして、躍起になってつかまえて、建設的なかたちにしていこう、というのが、現場のスタッフとキャスト、つまり左脳の働き、ということである。

 

 

 そして、『シン・仮面ライダー』の重要な軸となるアクションのスタッフ、殺陣を担当する田渕氏の、じわじわとした不安と焦燥が、怒りとなり、ことの次第によっては「辞める」、という、穏やかならぬ流れを生み出していく。

 

 しかし、ここでも、庵野氏の思わぬ行動によって、現場の空気が反転する。

 

 庵野氏が、涙ぐみ、許しを乞うたのだ、という。

 

 

 俳優たちの顔にも、明らかな困惑の表情が浮かんでいた。

 台本にある役を、ひたすらに、ひたむきに演じればいい、という、本来のやり方は通用しない。

 

 最後の山場、仮面ライダー1号、2号とチョウ・オーグの闘いは、俳優3人に、ほとんど丸投げされている。

 

 チョウ・オーグ、つまり仮面ライダー0号も含めて、1号、2号のライダーたちに、真剣さが見られない、あくまでも、物語という「噓」で、つくりものの世界だけれども、あたかも「本気でやっている」かのように、演じてほしい、という理由から、である。

 

 

 

 物語のなかを、盲目状態で彷徨する庵野氏を、それでもいい(それがいい)から支えたい、ついていきたい、というスタッフがいてこそ、今の庵野氏がある、といってもいいだろう。

 

 新劇場版エヴァQを終えた後、うつ状態に陥ってしまった愛弟子・庵野秀明に、「あなたなら、(たとえ活動を一時休止しても)、待ってくれる、ついてくる人はいるでしょう」、と、師・宮崎駿が言ったとおりである。

 

 

 噓、だけれども、リアル感がほしい、意外性のドラマがほしい、というのが、庵野氏の、一貫した主張だったように思う。

 

 映画で本郷猛・仮面ライダー1号を演じた俳優池松壮亮氏は、アニメではなく実写においてのリアルは、肉感や生っぽさではないか、と言っていた。

 そんなふうに、まじめに考えたり悩んだりしているところは、ドラマの本郷猛さながらでもあった。

 

 あるいは、役を手探りで演じなければならない、となれば、自然に、本番でも、本番を離れても、そのキャラクターを生きることしか、なくなるのかもしれない。

 

 さながら、私たちが、未知の時間に押し出されるがまま、否応なく、先へ先へ、歩いていかなければならないとき、「私は(いつ、どこでも)私である」、というアイデンティティの感覚に、頼らざるを得ないのと、同じように……。

 

 

 「事実は小説よりも奇なり」、という。

 けれども、実はこの言葉はもとは逆で、「小説は事実よりも奇なり」だった、という話もある。

 

 

 この世は、ごまかしやまやかしだらけで、語られる言葉のほとんどは、世迷い言だ、と、私は思う。

 

 私たちは、ほんものではない、リアルでもない、ただの、“ごっこ”の物語を生きている、だけなのかもしれない。

 

 先が見えないのは、物語の中を生きているキャラクターと同じである。

 

 私たちもまた、物語の創造主、神さま都合、あるいは、庵野氏のように、物語がどこへ向かうのかわからずに、目隠しをして、彷徨っている世界を生きている(生かされている)だけなのかもしれない。

 

 誰かが、「ある人が、こんな世界で、こんなふうに、生きていました」、という物語をつくったとしても、誰にも見られない、暗幕の後ろで物語が始まり、終わってしまうことは、決して稀なことではない。

 むしろ、それが、この世では「常態」である。

 

 だが、しかし、いずれにしても……

 

 庵野氏だけでなく、才能ある創作者や芸術家には、場の空気を読んでほしくない、と、つくづく思う。

 

 それは、気に入らなければ、キャストやスタッフを、大声で罵倒したり、怒鳴りちらしていい、ということではない。

 

 ぎりぎりの土壇場で踏ん張って、頑張っているキャストやスタッフに、これ以上負担をかけるわけにいかないとか、楽にさせてやりたいとか、そういう妥協を、してほしくないのである。

 

 でなければ、私たちは、本当に素晴らしい作品に、出会うことができなくなってしまうからだ。

 

 

 もしも、どこかに、「まだ見ぬ故郷」、のような場所が、あるのだとしたら。

 

 そこに到達できる力をもたないものは、そこに到達できる力をもった人に、思いを託すしかない。

 

 そこは、どんな風が吹いていて、どんなにおいがするのか。

 朝、どんなふうに陽が昇るのか、夕陽がどんなふうに沈んでいくのか、その色は、どんなだとか、「かわりに見てきて、おしえてほしい」のだ。

 

 

 ……そういえば、『シン・仮面ライダー』も、思いを託す、とか、思いを引き継ぐとか、そういうことが、テーマの一つになっていたように思う。

 

 

 自分の知らない、面白いものが見たい。美しい世界を見たい。

 

 だからこそ、庵野秀明が描き出す世界を、「きみのことは苦手だが、きみの才能は認めざるを得ない」、というスタンスで、私は、これからも見続けていくのだろう、と思う。

 

 

 

                                   《終》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドキュメント『シン・仮面ライダー~ヒーローアクション挑戦の舞台裏』(1)

 

 

 「自己嫌悪、よく実感する感覚。

  自己肯定、あまりなじみのない感覚。

  自分を一言で表せる言葉は、「浅はか」に尽きる。」

 

                ―庵野秀明『フィルムを作ることの快感』

                (NEON GENESIS EVANGELION サントラCDより)

 

 

 

 「いったい、何が始まったのだろう?」

 

 というのが、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の社会的な“ざわめき”を、まだ傍観者として見ていたころの、印象だった。

 

 その後、知り合いから借りた、番組を収録したビデオ(時代を感じますね!)を見て、ドハマりし、以来、何か、それにふさわしい場面に出くわすと、劇中のセリフが口をついて出る。

 

 「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ………」

 「私が死んでも、代わりはいるもの」

 「笑えばいいと思うよ」

 「バームクーヘン?」

 「あんた、バカぁ?」

 「自分を褒めてもらいたがっている。たいした男じゃないわ」

 「もっと僕に優しくしてよ!」

 「偽善的!ヘドが出るわ!」

 「シンクロ率が、400%を超えています!」…………

 

 そういう末期症状が出たのは、『機動戦士ガンダム』(ファースト)以来、だと思う。

 

 そして、作品を気に入れば、「いったいどんな人が、これを?」と、創作者に、俄然、興味がわいてくる。

 

 エヴァは、鷺巣詩郎氏の音楽もまた、大きな魅力の一つだった。

 私は、すぐに、サントラCDを手に取った。

 

 そこに書かれてあった、庵野秀明、その人となりを知る手がかりになるであろう、最初の資料、それが、「1995.10.6 オン・エアが始まってしまった後に、スタジオにて」、というこの文章であった。

 

 ……が、しかし、そこには、冒頭の部分にある「浅はか」をはじめとして、「小心物」、「さして取り柄のない」、「異常」、「バカ」、「非力」などなど、ありとあらゆる自己否定の言葉が並んでいた。

 

 私は、直感的に、「噓だ」、と思った。

 

 こういう、自己否定や自己卑下の言葉を、何度も何度も執拗に繰り返す人に限って、ものすごい自信とプライドに満ちた人なのだ、という答えを、私の脳の中に蓄積されたデータが、はじき出した。

 

 何となく、苦手かも……。

 

 以来、その印象は、変わっていない。

 

 しかし、だが、すなわち。

 

 「きみのことは苦手だが、きみの才能は、認めざるを得ない」、というスタンスで、庵野氏の作品に興味をもち続けてきた。

 

 とにかく、面白い物語をみせてくれる、数少ない創作者だからである。

 

 

 そして先日、放映されたドキュメントを見て、思ったのは、庵野監督という人は、まさに、まるで右脳、そのもののような側面をもった人なのではないか、という印象だった。

 

 何かを求めて、体の動くまま、ふらふらと、現場を彷徨する姿が、そう見えたのである。

 

 

 脳は、大きく右脳と左脳とに分かれていて、その役割は、はっきりと分かれるものではないにしろ、それぞれに違う特徴をもつ。

 

 「心が動く」とき、先行して反応するのが右脳であり、私たちは、その段階では、自分の心が動いたことをまったく認識していない。

 

 それに対して、右脳がなぜ、何に反応したのか、モニタリングし、実況中継し、理由を後付けし、主に言語で解説しようとするのが、左脳である。

 この段階に至って、私たちはようやく、自分の心が動いたことを意識できる。

 

 たとえば、男性に、A、という女性の顔の写真と、B、という女性の顔の写真を見せて、好きなタイプの方のボタンを押させる、というものなどが、右脳の反応と左脳の働きについての実験としては、よく知られたものだと思う。

 

 人は、自分が意識できない、かなり早い段階で、どちらが好きかを選んでいる。

 これが、右脳の働きである。

 そして、それを、「どうして、どんなところが好きなの?」という質問に、もっともらしく答えることができるよう、理由を後付けするのが、左脳の働きである。

 

 「目が素敵」、とか、「唇が魅力的」、とか、もっともらしい理由を言うけれど、本当は、本当のところは、その説明で合っているのかどうか、誰にもわからない。

 

 実際、実験では、わざと、その人が選ばなかった方の女性の顔の写真を見せて、「この女性の顔のどこが気に入ったのか」ときいても、ほとんどの人が、自分が選ばなかった方の女性の顔だなどと気づきもせずに、もっともらしい理由を答えたのである。

 

 

 つまり、口をきかない右脳が、ただ興奮したり、集中したりしているのを、左脳がなんとかこじつけて理由を考え、場合によっては捏造する。

 

 とにもかくにも、この世の中では、理由を言葉にして、(耳に聞こえたり、目に見えるものに変換して)出力しないことには、人は、他人だの、社会だの、世界だのと、コミュニケーションによって「つながる」ことができないからである。

 

 

 

 

                               《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消息不明

 

 

 

        土曜日に 液体で発見された あたしは

        火曜日まで 戻らなかった

 

        金曜日には よどんだ沼の ほとりで

        死体袋のまま 横たわり

        列車が 轢いていった

 

        月曜日に 気体となって ふわり

        忽然と 消えた あたしは

        夜半過ぎ 扉を たたいた

 

        「ウシロ ノ 正面 ダレ ダ」

 

 

        日曜日 ベッドの上で 

        固体となって 発見された あたしは

        自分の 名すら もたなくて

 

        ただ ひたすらに

        雷雨だけ を 待っていた

 

        溶けて 流れた その先は

        さいごの 希望を つなぐ けれど

 

        新聞の 活字の 切り貼り みたいに

        みんな ばらばら 

        不均衡を かろうじて 保つ

 

        水に 濡れて 並べられた

        あたしの 切れ端は

        なめくじ みたいに 不完全 復活

  

        赤黒い みみず みたいな 血の筋が

        欄干から 垂れて のぞいてる

 

        水曜日の 夜明け まで

        もちつ もたれつ 

        放たれるか 縛られるか

 

        消息 不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Cry baby cry

 

 

       赤ちゃん お泣きよ

       今のうちに たんまりと

 

       大地が 裂けて 風が うなる

       火柱が あがり 水が 逆巻く ように 

       おおいに 嘆いておくが いいさ

 

       この世は 不快な こと だらけ

       この世は なんと 愉快で 滑稽なまでに

       不愉快さに 満ちている こと か 

 

 

       いま きみだけに

       黒い 小さな 魔術師が

       そっと 耳打ち する

 

       この世に 魔法など ありは しない

       あったとしても

       いずれ きみの目には 見えなくなる

       きみは むりやり

       「おとな」 ってものに

       させ られ る

 

       魔法も 秘密も 真実も

       みんなして よって たかって 

       きみの目から うばってしまうのさ

 

       きみは とくべつな 存在だ とか

       きみは ひとりじゃ ない とか

       真っ赤な ウソ を

       きみが 信じて しまうように

 

 

       たった ひとり きみは 歩く

       光を うばわれた 盲(めしい) の 目で

       しばられて 自由にならない 手と 足で

 

 

       いずれ すぐ 

       きみは

       身を あずけられる

       大きな 時間を 喪う

 

       いずれ すぐ

       きみは

       身を 投げ出せる

       大きな 空間を 喪う

        

 

       だから ね

       いまのうちに

       たっぷり たんまり

       泣いておくが いい

 

       この世の はじめで

       この世の 果て

       夢の あとで

       破滅の きざしの

       その まえ に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『シン・仮面ライダー』

 

 

 単純に、素直に、「面白かった」。

 

 アニメーションであること、そして何より、長きにわたるお付き合いだった『シン・エヴァ』は別として、単発映画『シン』シリーズの中では、私には、いちばん面白く感じられた。

 

 『ウルトラマン』や、『仮面ライダー』を代表格とする特撮ヒーローは、ある時期の私にとって、「ライナスの毛布」そのものだった。

 

 子どもは、子どもなりに、孤独を感じることがある。

 そばに誰もいない、ということではなくて、「ああ、自分は、ひとりきりだな」というたぐいの孤独、である。

 そんなとき、いつもそばにいてくれたのが、私にとっては、特撮ヒーローだった。

 

 

 ウルトラマンは、どちらかというと、ドラマの方に重きがおかれているのに対して、仮面ライダーは、「悪の組織」ショッカーによって生み出される、個性豊かな(ちょっと気持ちの悪い)怪人との戦闘シーンに醍醐味があったように思う。

 

 今回の『シン・仮面ライダー』にも、その醍醐味はしっかりと描かれていたと感じた。

 キャラクターや、色彩、存在する場所やイメージも豊かなオーグメント。

 そして、仮面ライダーならではの、戦闘シーンのかっこよさを存分に味わい、最後のクレジットのところで流れる『仮面ライダー』の歌に、思わず自然に、体がリズムをとって動き出すほどだった。

 

 

 いずれにせよ、ウルトラマンも、仮面ライダーも、正義のヒーローというものは、とにかくかっこいいし、ずっと憧れの対象だった。

 

 あれから50年。

 

 こうした時代の中にあって、庵野秀明氏が、いったいどんなふうにこの作品を撮るのか?

 興味津々だった。

 

 

 最も印象に残ったのは、SHOCKERが、「悪の組織」ではなく、「愛の組織」という点だった。

 

 その正式名称は、Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodelling(脚本協力の山田胡瓜氏の提案だそうである)。

 

 私は、英語が得意な方ではないが、ニュアンス的には、「解析された知識を埋め込み再構成された持続可能な幸福」、というような意味合いなのだろうか。

 

 その「持続可能な幸福」を定義したのは、SHOCKER創設者により生み出された人工知能アイ(愛、にかけているのだろう)であり、具体的には、「最大多数の最大幸福が人類の幸福ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であり、人間の魂を、「ハビタット(生息)世界」に連れ去ることによって達成されるのである。

 

 

 光瀬龍原作/竹宮惠子画の『アンドロメダ・ストーリーズ』を思い出した。

 

 惑星アストゥリアスコスモラリア帝国は、折しも、皇太子イタカを新王に戴かんとする平和な国だったが、マザー・マシンに侵略される。

 マザー・マシンの目的はただ一つ、「すべての人間の理想郷建設を」という、創造主である老師クフの命令(プログラム)の実行であり、生命ある星をみつけると、片っ端から寄生し、コウモリやクモなどの(気味の悪い生き物のイメージは、普遍的なのかも)小型機械によって、その星の人間の脳を乗っ取る。

 

 そして人は、精神と肉体を分けて保管され、そこにいる限り、生きる不安や焦りから守られ、安らいで、幸福でい続けられるのである。

 まさに、Sustainable Happinessそのもののように…

 

 しかし、そうした人間はもはや、全体主義的な善や幸福に反逆する心を持ち合わせた「生きた人間」ではなく、意思を意識下で殺された機械にとって好都合な人形でしかない。

 

 そして、その全体主義的な善や幸福に、反逆を企てたものは「裏切り者」とされ、抹殺される。

 

 「裏切り者には、死を」、である。

 

 

 映画のパンフレットの後ろの方に、SHOCKERのメッセージが掲載されている。

 「それぞれの幸せの形を組織の力をもって、全力で肯定し」、「人類の幸福を探求する愛の組織SHOCKER」。

 

 カルト集団的であり、このあたりに、庵野氏流の皮肉が最大限に込められているのかもしれない。

 

 対して、生まれはSHOCKERでありながら、それに立ち向かう仮面ライダー1号、2号、緑川ルリ子は、孤独であり、安易に群れようとせず、愛ではなく、信頼によって結ばれている。(愛、に負けず劣らず、信頼、というものも、とても難しいものだが…)。

 

 つまり、愛と組織は、相容れない、ということである。

 

 誰かが、強い権力や金力、立場や地位を利用して、これこそが「愛」であると決めつけ、「善かれ」と思って、「正義感」によって、組織の力でその愛を実行しようとすると、どうなるかは、人類の歴史が、いやというほど物語っている。

 

 

 ちなみに、忘れられがちだが、もっとも身近な組織は家族である。

 家族こそ、愛の組織だと、信じて疑わない人がどれくらいいるのかはわからない。

 けれども、私は、家族こそが、もっとも身近なSHOCKERだと思っている。

 

 強い立場にあるものが、自分が善かれと思ったことを、「愛」だといって、他の構成員に押しつけ、それに抗うことができない空気が存在すれば、恐怖政治と変わらない。

 (気づいてしまったら、家の居心地も悪くなるし、自分自身もつらくなるので、無意識に自己洗脳して、“家族がいちばん”と思い込む、ストックホルム症候群に陥る人も、そう少なくないのではないだろうか?)

 

 

 人間の幸福が、「最大多数の最大幸福」ではなく、「最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であったとしても、同じことである。

 

 深い絶望を抱えた人が、その絶望をどうしたいのか、哀しみや苦しみを忘れたいのか、忘れたくないのか、いったい何が救済となるのか、それもまた、幸福と同じで、人それぞれである。

 

 

 自分が幸せなのかどうかを、最終的に決めるのは、自分でしかない、と思う。

 たとえ他人から見て、「幸せ」そうに見えても、本当に満たされているかどうかは、本人しかわからない。

 

 けれども、私たちは、自分ひとりで自分を認め、満足できるほど強くはない。

 

 『アンドロメダ・ストーリーズ』の中で、マザー・マシンの創造主でありながら、自らの間違いを悔いて、その命と引きかえに、マザー・マシンの壊滅を図る老師クフは、「人間は弱く、機械がつくるパラダイスの誘惑に勝てない」、と語っている。

 

 だからこそ、他の人の生活や生き方をのぞき見たり、世間一般の基準に照らして、自分はどうなのかがひどく気になったり、他の人に、自分の幸せに注目してほしい、ほめてほしい、認めてほしい、という気持ちもわいてくる。

 

 

 幸せになりたくて、幸せになるために生まれてきたはずが、

 幸せは、いつでも、虹の向こうにある。

 

 虹のたもとを、たずねていく間にも、虹は消え失せ、

 また再び、あらわれた日に、追っても追っても、同じこと。

 いつまでも、虹のなかには、入れない。

 

 愛こそが、幸せへと運んでくれる翼だと、信じようにも、

 その翼は、ひどくアンバランスで、ほんの少しの疑惑や葛藤に脆くも崩れ去る。

 

 そもそも、「愛」って何?

 

 

 私たち人類が、自ら、服従欲求を露わにして、ときに、全体主義的な善と幸福に屈服し、傾倒することがあるのも、個人の主観的幸福追求の尋常ならざる困難さと、それゆえの失望や絶望が、あまりに苦しく、深く、つらすぎるから、なのかもしれない。