他人の星

déraciné

ドキュメント『シン・仮面ライダー~ヒーローアクション挑戦の舞台裏』(2)

 

 

 「社会に適応しきれないモノが、欲求不満を防衛反応にて解消しようとする精神的行為を、フィルム作りという集団的かつ、商業アニメという経済的行動で遂行しようとしているという矛盾もあります。」

 

                   ―庵野秀明『フィルムを作ることの快感』

     

 

 庵野氏の、「社会に適応しきれないモノ」、とは、他でもない、自分自身について、そう感じてきた、ということなのだろう。

 

 たしかに、庵野氏のように、感じたままに彷徨する「右脳」的な「モノ」は、いかなるものであっても、それが、左脳によって分析され、外部に出力されない限り、引き出しにしまわれたままの手紙のように、誰にも知られず終わることになる。

 

 今日では、それ自体が「経済的行動」となり、大金に化けさえすれば、「才能あるね」、と、人々の喝采、憧憬、賞賛をあびることになるのだから、なおさら、「左脳」的な働きが、必要不可欠、なのである。

 

 

 さて、ドキュメントでは、総監督庵野秀明氏が、ロケーションや、撮影したものに、何らかの反応を示すのを見て、現場のスタッフやキャストが、「今のが~だったから(気に入った、気に入らない)のではないか」、と、推測しつつ、手探りで、撮影がすすんでいく。

 

 しかし、それですすむかと思えば、一度「いい」と言ったものが、今度はひっくり返される。

 

 そのたびに、撮影現場は混乱し、スタッフ、キャストを巻き込んで、空気感が悪くなっていく。

 

 総指揮者である「庵野秀明」、という右脳が、言葉にならない、どうしようもない何ものかを求めて、「いい」だの「悪い」だの、非合理的にしか見えない反応を示すのを、なんとかして、躍起になってつかまえて、建設的なかたちにしていこう、というのが、現場のスタッフとキャスト、つまり左脳の働き、ということである。

 

 

 そして、『シン・仮面ライダー』の重要な軸となるアクションのスタッフ、殺陣を担当する田渕氏の、じわじわとした不安と焦燥が、怒りとなり、ことの次第によっては「辞める」、という、穏やかならぬ流れを生み出していく。

 

 しかし、ここでも、庵野氏の思わぬ行動によって、現場の空気が反転する。

 

 庵野氏が、涙ぐみ、許しを乞うたのだ、という。

 

 

 俳優たちの顔にも、明らかな困惑の表情が浮かんでいた。

 台本にある役を、ひたすらに、ひたむきに演じればいい、という、本来のやり方は通用しない。

 

 最後の山場、仮面ライダー1号、2号とチョウ・オーグの闘いは、俳優3人に、ほとんど丸投げされている。

 

 チョウ・オーグ、つまり仮面ライダー0号も含めて、1号、2号のライダーたちに、真剣さが見られない、あくまでも、物語という「噓」で、つくりものの世界だけれども、あたかも「本気でやっている」かのように、演じてほしい、という理由から、である。

 

 

 

 物語のなかを、盲目状態で彷徨する庵野氏を、それでもいい(それがいい)から支えたい、ついていきたい、というスタッフがいてこそ、今の庵野氏がある、といってもいいだろう。

 

 新劇場版エヴァQを終えた後、うつ状態に陥ってしまった愛弟子・庵野秀明に、「あなたなら、(たとえ活動を一時休止しても)、待ってくれる、ついてくる人はいるでしょう」、と、師・宮崎駿が言ったとおりである。

 

 

 噓、だけれども、リアル感がほしい、意外性のドラマがほしい、というのが、庵野氏の、一貫した主張だったように思う。

 

 映画で本郷猛・仮面ライダー1号を演じた俳優池松壮亮氏は、アニメではなく実写においてのリアルは、肉感や生っぽさではないか、と言っていた。

 そんなふうに、まじめに考えたり悩んだりしているところは、ドラマの本郷猛さながらでもあった。

 

 あるいは、役を手探りで演じなければならない、となれば、自然に、本番でも、本番を離れても、そのキャラクターを生きることしか、なくなるのかもしれない。

 

 さながら、私たちが、未知の時間に押し出されるがまま、否応なく、先へ先へ、歩いていかなければならないとき、「私は(いつ、どこでも)私である」、というアイデンティティの感覚に、頼らざるを得ないのと、同じように……。

 

 

 「事実は小説よりも奇なり」、という。

 けれども、実はこの言葉はもとは逆で、「小説は事実よりも奇なり」だった、という話もある。

 

 

 この世は、ごまかしやまやかしだらけで、語られる言葉のほとんどは、世迷い言だ、と、私は思う。

 

 私たちは、ほんものではない、リアルでもない、ただの、“ごっこ”の物語を生きている、だけなのかもしれない。

 

 先が見えないのは、物語の中を生きているキャラクターと同じである。

 

 私たちもまた、物語の創造主、神さま都合、あるいは、庵野氏のように、物語がどこへ向かうのかわからずに、目隠しをして、彷徨っている世界を生きている(生かされている)だけなのかもしれない。

 

 誰かが、「ある人が、こんな世界で、こんなふうに、生きていました」、という物語をつくったとしても、誰にも見られない、暗幕の後ろで物語が始まり、終わってしまうことは、決して稀なことではない。

 むしろ、それが、この世では「常態」である。

 

 だが、しかし、いずれにしても……

 

 庵野氏だけでなく、才能ある創作者や芸術家には、場の空気を読んでほしくない、と、つくづく思う。

 

 それは、気に入らなければ、キャストやスタッフを、大声で罵倒したり、怒鳴りちらしていい、ということではない。

 

 ぎりぎりの土壇場で踏ん張って、頑張っているキャストやスタッフに、これ以上負担をかけるわけにいかないとか、楽にさせてやりたいとか、そういう妥協を、してほしくないのである。

 

 でなければ、私たちは、本当に素晴らしい作品に、出会うことができなくなってしまうからだ。

 

 

 もしも、どこかに、「まだ見ぬ故郷」、のような場所が、あるのだとしたら。

 

 そこに到達できる力をもたないものは、そこに到達できる力をもった人に、思いを託すしかない。

 

 そこは、どんな風が吹いていて、どんなにおいがするのか。

 朝、どんなふうに陽が昇るのか、夕陽がどんなふうに沈んでいくのか、その色は、どんなだとか、「かわりに見てきて、おしえてほしい」のだ。

 

 

 ……そういえば、『シン・仮面ライダー』も、思いを託す、とか、思いを引き継ぐとか、そういうことが、テーマの一つになっていたように思う。

 

 

 自分の知らない、面白いものが見たい。美しい世界を見たい。

 

 だからこそ、庵野秀明が描き出す世界を、「きみのことは苦手だが、きみの才能は認めざるを得ない」、というスタンスで、私は、これからも見続けていくのだろう、と思う。

 

 

 

                                   《終》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドキュメント『シン・仮面ライダー~ヒーローアクション挑戦の舞台裏』(1)

 

 

 「自己嫌悪、よく実感する感覚。

  自己肯定、あまりなじみのない感覚。

  自分を一言で表せる言葉は、「浅はか」に尽きる。」

 

                ―庵野秀明『フィルムを作ることの快感』

                (NEON GENESIS EVANGELION サントラCDより)

 

 

 

 「いったい、何が始まったのだろう?」

 

 というのが、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の社会的な“ざわめき”を、まだ傍観者として見ていたころの、印象だった。

 

 その後、知り合いから借りた、番組を収録したビデオ(時代を感じますね!)を見て、ドハマりし、以来、何か、それにふさわしい場面に出くわすと、劇中のセリフが口をついて出る。

 

 「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ………」

 「私が死んでも、代わりはいるもの」

 「笑えばいいと思うよ」

 「バームクーヘン?」

 「あんた、バカぁ?」

 「自分を褒めてもらいたがっている。たいした男じゃないわ」

 「もっと僕に優しくしてよ!」

 「偽善的!ヘドが出るわ!」

 「シンクロ率が、400%を超えています!」…………

 

 そういう末期症状が出たのは、『機動戦士ガンダム』(ファースト)以来、だと思う。

 

 そして、作品を気に入れば、「いったいどんな人が、これを?」と、創作者に、俄然、興味がわいてくる。

 

 エヴァは、鷺巣詩郎氏の音楽もまた、大きな魅力の一つだった。

 私は、すぐに、サントラCDを手に取った。

 

 そこに書かれてあった、庵野秀明、その人となりを知る手がかりになるであろう、最初の資料、それが、「1995.10.6 オン・エアが始まってしまった後に、スタジオにて」、というこの文章であった。

 

 ……が、しかし、そこには、冒頭の部分にある「浅はか」をはじめとして、「小心物」、「さして取り柄のない」、「異常」、「バカ」、「非力」などなど、ありとあらゆる自己否定の言葉が並んでいた。

 

 私は、直感的に、「噓だ」、と思った。

 

 こういう、自己否定や自己卑下の言葉を、何度も何度も執拗に繰り返す人に限って、ものすごい自信とプライドに満ちた人なのだ、という答えを、私の脳の中に蓄積されたデータが、はじき出した。

 

 何となく、苦手かも……。

 

 以来、その印象は、変わっていない。

 

 しかし、だが、すなわち。

 

 「きみのことは苦手だが、きみの才能は、認めざるを得ない」、というスタンスで、庵野氏の作品に興味をもち続けてきた。

 

 とにかく、面白い物語をみせてくれる、数少ない創作者だからである。

 

 

 そして先日、放映されたドキュメントを見て、思ったのは、庵野監督という人は、まさに、まるで右脳、そのもののような側面をもった人なのではないか、という印象だった。

 

 何かを求めて、体の動くまま、ふらふらと、現場を彷徨する姿が、そう見えたのである。

 

 

 脳は、大きく右脳と左脳とに分かれていて、その役割は、はっきりと分かれるものではないにしろ、それぞれに違う特徴をもつ。

 

 「心が動く」とき、先行して反応するのが右脳であり、私たちは、その段階では、自分の心が動いたことをまったく認識していない。

 

 それに対して、右脳がなぜ、何に反応したのか、モニタリングし、実況中継し、理由を後付けし、主に言語で解説しようとするのが、左脳である。

 この段階に至って、私たちはようやく、自分の心が動いたことを意識できる。

 

 たとえば、男性に、A、という女性の顔の写真と、B、という女性の顔の写真を見せて、好きなタイプの方のボタンを押させる、というものなどが、右脳の反応と左脳の働きについての実験としては、よく知られたものだと思う。

 

 人は、自分が意識できない、かなり早い段階で、どちらが好きかを選んでいる。

 これが、右脳の働きである。

 そして、それを、「どうして、どんなところが好きなの?」という質問に、もっともらしく答えることができるよう、理由を後付けするのが、左脳の働きである。

 

 「目が素敵」、とか、「唇が魅力的」、とか、もっともらしい理由を言うけれど、本当は、本当のところは、その説明で合っているのかどうか、誰にもわからない。

 

 実際、実験では、わざと、その人が選ばなかった方の女性の顔の写真を見せて、「この女性の顔のどこが気に入ったのか」ときいても、ほとんどの人が、自分が選ばなかった方の女性の顔だなどと気づきもせずに、もっともらしい理由を答えたのである。

 

 

 つまり、口をきかない右脳が、ただ興奮したり、集中したりしているのを、左脳がなんとかこじつけて理由を考え、場合によっては捏造する。

 

 とにもかくにも、この世の中では、理由を言葉にして、(耳に聞こえたり、目に見えるものに変換して)出力しないことには、人は、他人だの、社会だの、世界だのと、コミュニケーションによって「つながる」ことができないからである。

 

 

 

 

                               《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消息不明

 

 

 

        土曜日に 液体で発見された あたしは

        火曜日まで 戻らなかった

 

        金曜日には よどんだ沼の ほとりで

        死体袋のまま 横たわり

        列車が 轢いていった

 

        月曜日に 気体となって ふわり

        忽然と 消えた あたしは

        夜半過ぎ 扉を たたいた

 

        「ウシロ ノ 正面 ダレ ダ」

 

 

        日曜日 ベッドの上で 

        固体となって 発見された あたしは

        自分の 名すら もたなくて

 

        ただ ひたすらに

        雷雨だけ を 待っていた

 

        溶けて 流れた その先は

        さいごの 希望を つなぐ けれど

 

        新聞の 活字の 切り貼り みたいに

        みんな ばらばら 

        不均衡を かろうじて 保つ

 

        水に 濡れて 並べられた

        あたしの 切れ端は

        なめくじ みたいに 不完全 復活

  

        赤黒い みみず みたいな 血の筋が

        欄干から 垂れて のぞいてる

 

        水曜日の 夜明け まで

        もちつ もたれつ 

        放たれるか 縛られるか

 

        消息 不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Cry baby cry

 

 

       赤ちゃん お泣きよ

       今のうちに たんまりと

 

       大地が 裂けて 風が うなる

       火柱が あがり 水が 逆巻く ように 

       おおいに 嘆いておくが いいさ

 

       この世は 不快な こと だらけ

       この世は なんと 愉快で 滑稽なまでに

       不愉快さに 満ちている こと か 

 

 

       いま きみだけに

       黒い 小さな 魔術師が

       そっと 耳打ち する

 

       この世に 魔法など ありは しない

       あったとしても

       いずれ きみの目には 見えなくなる

       きみは むりやり

       「おとな」 ってものに

       させ られ る

 

       魔法も 秘密も 真実も

       みんなして よって たかって 

       きみの目から うばってしまうのさ

 

       きみは とくべつな 存在だ とか

       きみは ひとりじゃ ない とか

       真っ赤な ウソ を

       きみが 信じて しまうように

 

 

       たった ひとり きみは 歩く

       光を うばわれた 盲(めしい) の 目で

       しばられて 自由にならない 手と 足で

 

 

       いずれ すぐ 

       きみは

       身を あずけられる

       大きな 時間を 喪う

 

       いずれ すぐ

       きみは

       身を 投げ出せる

       大きな 空間を 喪う

        

 

       だから ね

       いまのうちに

       たっぷり たんまり

       泣いておくが いい

 

       この世の はじめで

       この世の 果て

       夢の あとで

       破滅の きざしの

       その まえ に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『シン・仮面ライダー』

 

 

 単純に、素直に、「面白かった」。

 

 アニメーションであること、そして何より、長きにわたるお付き合いだった『シン・エヴァ』は別として、単発映画『シン』シリーズの中では、私には、いちばん面白く感じられた。

 

 『ウルトラマン』や、『仮面ライダー』を代表格とする特撮ヒーローは、ある時期の私にとって、「ライナスの毛布」そのものだった。

 

 子どもは、子どもなりに、孤独を感じることがある。

 そばに誰もいない、ということではなくて、「ああ、自分は、ひとりきりだな」というたぐいの孤独、である。

 そんなとき、いつもそばにいてくれたのが、私にとっては、特撮ヒーローだった。

 

 

 ウルトラマンは、どちらかというと、ドラマの方に重きがおかれているのに対して、仮面ライダーは、「悪の組織」ショッカーによって生み出される、個性豊かな(ちょっと気持ちの悪い)怪人との戦闘シーンに醍醐味があったように思う。

 

 今回の『シン・仮面ライダー』にも、その醍醐味はしっかりと描かれていたと感じた。

 キャラクターや、色彩、存在する場所やイメージも豊かなオーグメント。

 そして、仮面ライダーならではの、戦闘シーンのかっこよさを存分に味わい、最後のクレジットのところで流れる『仮面ライダー』の歌に、思わず自然に、体がリズムをとって動き出すほどだった。

 

 

 いずれにせよ、ウルトラマンも、仮面ライダーも、正義のヒーローというものは、とにかくかっこいいし、ずっと憧れの対象だった。

 

 あれから50年。

 

 こうした時代の中にあって、庵野秀明氏が、いったいどんなふうにこの作品を撮るのか?

 興味津々だった。

 

 

 最も印象に残ったのは、SHOCKERが、「悪の組織」ではなく、「愛の組織」という点だった。

 

 その正式名称は、Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodelling(脚本協力の山田胡瓜氏の提案だそうである)。

 

 私は、英語が得意な方ではないが、ニュアンス的には、「解析された知識を埋め込み再構成された持続可能な幸福」、というような意味合いなのだろうか。

 

 その「持続可能な幸福」を定義したのは、SHOCKER創設者により生み出された人工知能アイ(愛、にかけているのだろう)であり、具体的には、「最大多数の最大幸福が人類の幸福ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であり、人間の魂を、「ハビタット(生息)世界」に連れ去ることによって達成されるのである。

 

 

 光瀬龍原作/竹宮惠子画の『アンドロメダ・ストーリーズ』を思い出した。

 

 惑星アストゥリアスコスモラリア帝国は、折しも、皇太子イタカを新王に戴かんとする平和な国だったが、マザー・マシンに侵略される。

 マザー・マシンの目的はただ一つ、「すべての人間の理想郷建設を」という、創造主である老師クフの命令(プログラム)の実行であり、生命ある星をみつけると、片っ端から寄生し、コウモリやクモなどの(気味の悪い生き物のイメージは、普遍的なのかも)小型機械によって、その星の人間の脳を乗っ取る。

 

 そして人は、精神と肉体を分けて保管され、そこにいる限り、生きる不安や焦りから守られ、安らいで、幸福でい続けられるのである。

 まさに、Sustainable Happinessそのもののように…

 

 しかし、そうした人間はもはや、全体主義的な善や幸福に反逆する心を持ち合わせた「生きた人間」ではなく、意思を意識下で殺された機械にとって好都合な人形でしかない。

 

 そして、その全体主義的な善や幸福に、反逆を企てたものは「裏切り者」とされ、抹殺される。

 

 「裏切り者には、死を」、である。

 

 

 映画のパンフレットの後ろの方に、SHOCKERのメッセージが掲載されている。

 「それぞれの幸せの形を組織の力をもって、全力で肯定し」、「人類の幸福を探求する愛の組織SHOCKER」。

 

 カルト集団的であり、このあたりに、庵野氏流の皮肉が最大限に込められているのかもしれない。

 

 対して、生まれはSHOCKERでありながら、それに立ち向かう仮面ライダー1号、2号、緑川ルリ子は、孤独であり、安易に群れようとせず、愛ではなく、信頼によって結ばれている。(愛、に負けず劣らず、信頼、というものも、とても難しいものだが…)。

 

 つまり、愛と組織は、相容れない、ということである。

 

 誰かが、強い権力や金力、立場や地位を利用して、これこそが「愛」であると決めつけ、「善かれ」と思って、「正義感」によって、組織の力でその愛を実行しようとすると、どうなるかは、人類の歴史が、いやというほど物語っている。

 

 

 ちなみに、忘れられがちだが、もっとも身近な組織は家族である。

 家族こそ、愛の組織だと、信じて疑わない人がどれくらいいるのかはわからない。

 けれども、私は、家族こそが、もっとも身近なSHOCKERだと思っている。

 

 強い立場にあるものが、自分が善かれと思ったことを、「愛」だといって、他の構成員に押しつけ、それに抗うことができない空気が存在すれば、恐怖政治と変わらない。

 (気づいてしまったら、家の居心地も悪くなるし、自分自身もつらくなるので、無意識に自己洗脳して、“家族がいちばん”と思い込む、ストックホルム症候群に陥る人も、そう少なくないのではないだろうか?)

 

 

 人間の幸福が、「最大多数の最大幸福」ではなく、「最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデル」であったとしても、同じことである。

 

 深い絶望を抱えた人が、その絶望をどうしたいのか、哀しみや苦しみを忘れたいのか、忘れたくないのか、いったい何が救済となるのか、それもまた、幸福と同じで、人それぞれである。

 

 

 自分が幸せなのかどうかを、最終的に決めるのは、自分でしかない、と思う。

 たとえ他人から見て、「幸せ」そうに見えても、本当に満たされているかどうかは、本人しかわからない。

 

 けれども、私たちは、自分ひとりで自分を認め、満足できるほど強くはない。

 

 『アンドロメダ・ストーリーズ』の中で、マザー・マシンの創造主でありながら、自らの間違いを悔いて、その命と引きかえに、マザー・マシンの壊滅を図る老師クフは、「人間は弱く、機械がつくるパラダイスの誘惑に勝てない」、と語っている。

 

 だからこそ、他の人の生活や生き方をのぞき見たり、世間一般の基準に照らして、自分はどうなのかがひどく気になったり、他の人に、自分の幸せに注目してほしい、ほめてほしい、認めてほしい、という気持ちもわいてくる。

 

 

 幸せになりたくて、幸せになるために生まれてきたはずが、

 幸せは、いつでも、虹の向こうにある。

 

 虹のたもとを、たずねていく間にも、虹は消え失せ、

 また再び、あらわれた日に、追っても追っても、同じこと。

 いつまでも、虹のなかには、入れない。

 

 愛こそが、幸せへと運んでくれる翼だと、信じようにも、

 その翼は、ひどくアンバランスで、ほんの少しの疑惑や葛藤に脆くも崩れ去る。

 

 そもそも、「愛」って何?

 

 

 私たち人類が、自ら、服従欲求を露わにして、ときに、全体主義的な善と幸福に屈服し、傾倒することがあるのも、個人の主観的幸福追求の尋常ならざる困難さと、それゆえの失望や絶望が、あまりに苦しく、深く、つらすぎるから、なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sentimental journey

 

 

        人生は 旅 だと いう

 

        旅は いつも

        ものがなしくて さびしい

 

        行けば 帰らねば ならず

        かならず 終わりが おとずれる

 

 

        青空 さえ のぞけば

        真昼の 白い 月が

        どこまでも ついてくる

 

        ほんの一時 何もかも 忘れ

        はしゃいでも

 

        ふと 気づけば

        あの月が わたしを 見ている

 

        わたしは ほんとうは

        どの景色のなかにも いないのだ と

 

        ああ わかっていたよ そんな ことは

        とっくに ね

 

 

        高い 空を めざして 飛ぶ

        イカロスの ように

        己れの 翼を 溶かす 太陽が こわい と

        怯えながら そびえる 高層ビルの群れ

 

        くらくらと めまいを 感じる

 

        むかし

        スクラップブックに 貼り付けて

        ずっと 忘れていた 紙の かたまりが

        突如として

        ぬっと 現れ出た ような

        グロテスク 

 

 

        何かを 思い出すことは

        どんな 現実よりも

        生々しくて 痛い

 

        終わりのない はじまりを

        現在進行形の 思い出を

        いつまでも いつまでも 生きていたくて

 

        旅寝の 枕に

        落とす 涙

 

 

        自分の 足音を ききながら 考える

 

        いったい 今まで どれほど 嘘を ついたのか

        したい と したくない の あいだ

        葛藤を 瞬間冷却して

 

        たしかに 分岐していた道を 

        その道しか なかったかのように 

 

        何のために ここまで 来たのか

        何も わからず 帰途につく

 

        暗いトンネル

        いくつも 越えて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクイエム

 

 

        生きること は 世界 への

        誰か

        たった ひとり への

        絶望的な 片想いに 似て

 

        眠れば 重い なまり色の 夢を見て

        起きれば 虚しい 灰色の 朝を見る

 

 

        きらきら 光る 水面 すれすれに

        あなたは まっすぐ 飛んでいく

        水は 喜び しぶきを あげて

        うたい おどる

 

        わたしは 急いで あなたを 追う

 

        かなしみを かなしみで ぬぐい

        憎しみを 憎しみで ぬぐい

        愛を 愛で ぬぐえども

 

        この手は あなたに とどかない

 

        胸を刺す 氷の かけら

        その 鋭い 痛みに

        わたしには はじめから

        翼など なかったことを

        思い出す

 

        どんなに 声を からして 叫んでも

        どんなに あなたの 名を 呼んでも

        

        あなたの 耳には 決して とどかない

 

        わたしは 水の 反映 ですら なく

        ただの ゆめ まぼろし だった と

 

 

        たった ひとりの 凍てつく 夜に

        薄笑いを浮かべる 下弦の月

 

        せめて

 

        この 亡きがらの 胸に

        青い ガラスの 花束を

        愛 の かわりに

        抱きしめ させて