これは、どうみても、『外伝』である。
タイトルは、『魔法少女まどか☆マギカ 外伝 ワルプルギスの廻天』とすべきだったのではないだろうか。
公式ホームページには、“『叛逆の物語』の正統なる続編”とあり、すっかりその気になって観に行ってしまったのが間違いだった、と、腹も立ったし、ひどく悲しくなった。
『叛逆の物語』で、まどかへの“愛”(妄想が暴走している感はあるが)のために、悪魔になったほむらを、どう救済するのか。
その際、ほむらによって、記憶を改変させられた、まどかをはじめとしたおなじみの魔法少女たちが、どんなふうに抗い、あるいは甘受し、ときに反発し合いつつも、協力し合うのか。
そして、 『叛逆の物語』が、暁美ほむらの物語だったのだから、次はきっと、鹿目まどかの物語をみせてくれるのではないか、という大なる期待もあった。
鹿目まどかは、『魔法少女まどか☆マギカ』の主人公であり、その名字にこめられているように、おそらくは、物語の“要”であるはずである。
しかし、「主人公が最後まで魔法少女にならない」、という縛りによって、まどかは、ある意味、物語の世界によって、“主人公になることを拒まれて”いる。
テレビシリーズから『叛逆の物語』までの間、まどかの人物像は、他のキャラクターに比べて造形が薄い。
それもそのはずだ。
「あまたの世界の運命を束ねる因果の特異点となったキミなら、どんな途方もない望みだろうと叶えられるだろう」
と、キュゥべえ(インキュベーター)に言わしめたほど、彼女が計り知れないエネルギーを秘めているのは、ほむらが彼女を救いたいあまり、時間遡行を繰り返した結果であって、「ごくふつうの家庭で平和に育ったごくふつうの女の子」には、強い感情など生まれようもない=強い因果を引き寄せられない、という設定からであろう。
だが、たとえ、ごくふつうの円満な家庭で幸せに暮らす女の子だって、いろいろあるはずだ。
たとえば、まどかは母親と親しいが、自分の母親にすら気を遣っている。
忙しい朝、「最近どうよ?」ときかれても、まどかは素直に、自分の近況を話す。
だが、中学2年生という難しい年頃の子どもには、「そういうの、ウザい」と無視する権利がある。
手足伸びきって、身体はすっかり大人なのに、心がまだ追いついていない、そのギャップから、思春期は、心が嵐のように荒れ狂う「疾風怒濤期」とさえいわれていたのだから。
まどかは、学校でも同じく、誰にでも、優しい気遣いをみせる。
人は誰しも、喜怒哀楽の感情を、ワンセット揃いでもっているのに、まどかは、他のキャラクターに比べても、特に、「怒り」の感情をほとんどみせない。
怒りは、とても大切だ。
その人の“逆鱗”がどこにあるか、誇りとかプライド、不安や迷い、ここだけは譲れないというこだわり、守りたいものがにじみ出るものだからだ。
そして………。
『叛逆の物語』の正統なる続編なら、と期待したところが、結果は惨憺たるもの、今度は、あろうことか、まどかは主人公どころか、“のっぺらぼう”にされてしまった。
もしこれで本当に終わりなら、『魔法少女まどか☆マギカ』は、主人公が最後まで魔法少女にならないばかりか、主人公にさえなれなかったお話です、と言わざるを得ない。
もともとの5人の魔性少女の中で、話を丁寧に、深く掘り下げていった『叛逆の物語』に対して、『ワルプルギスの廻天』は、新しいキャラクターを4人も投入し、それぞれの“ゲスト”の背景を描くことにかなりの時間を費やし、物語が横軸方向に引っ張られてしまったのだから、内容が薄くなるのは、当然だろう。
名前をあげれば、紫丁香、セルマ・テレーゼ、ワス、マルグリートの4人だが、ことに、後半の、“ラスボス”?セルマ・テレーゼとのバトル、マルグリートの出自のエピソードは、明らかに蛇足だと思う。
(このあたりになって、私は物語についていく気力を失い、バトルから途中離脱したさやかちゃんと一緒に、映画館を出て、帰りたくなった)。
少なくとも私は、マミ、ほむら、さやか、杏子のことを、そして、特に、今度は(今度こそ)、まどかのキャラクター性を、もっと深く掘り下げてほしかった。
いかようにでも、できたはずである。
それほど、『叛逆の物語』は素晴らしかったのだから。
2時間、という、映画としても長い時間、バトルやら、魔女の出現シーンやら、あちこちで、ドカーン、ボカーン、と、爆発やら、火柱が上がり(おいおい、そんなに破壊を繰り返したら、破壊できるビル群なんて、もう残ってないんじゃ……というくらい)、刺激が強く、音と色と光の情報の洪水に、映画館を出る頃には、頭と首と肩と背中と腰が痛くなり、クタクタに疲れ切ってしまった。