他人の星

déraciné

『パラサイト 半地下の家族』(1)ー人間の価値?ー

 

ワインの価値は

 

 

 「つまり、人間はラベルなんだよ。一流のビンテージなら、一流の人間に飲まれ、安いビンテージなら、安い人間にしか相手にされない」

 「そうかな。たとえこれが1000円の安いワインだったとしても、12万円だって言われたら、みんな、ありがたがって飲むんじゃないか」

 「それはつまり、貼ってあるラベルさえ立派なら、中味なんて安物でも、それなりに見えるってことか」

 

 1999年に放映されたドラマ、『危険な関係』(井上由美子脚本)第1話の中で交わされた会話です。

 豊川悦司演じる主人公、魚住新児は、タクシードライバーをしていますが、ある夜、偶然にも、新児のタクシーに、高校時代の同級生、都築雄一郎(石黒賢)が乗車してきます。

 高校時代、新児と雄一郎は、同級生でした。

 当時、勉強のできなかった雄一郎は、一流企業を経営する親の後を継ぎ、いまではすっかりエリートの一員、という顔をしています。

 それに対して、高校生の頃成績優秀だった新児は、今では、毎朝、自分で淹れたコーヒーをボトルに入れ、仕事の合間にそれを飲むことをささやかな楽しみとするタクシードライバーであり、二人の間の、地位と財産の格差は、歴然としているのです。

 

 雄一郎は、現在の自分の“一流ぶり”を、これみよがしに新児に見せつけ、宿泊先の高級ホテルに、まるでボーイのように、仕事中の新児をつき合わせ、ワインを飲みつつ、話をします。

 雄一郎が、男はラベル(着ている服や財産、地位、他者からの評価)で決まると言うのに対して、新児は、“一流”のラベルさえ貼ってあれば、人は容易に騙され、ありがたがりさえする、と主張するのです。

 

 そして、この直後、ある“事件”が起き、物語が展開していくのですが……。

 

 

 映画『パラサイトー半地下の家族ー』を見た後、私はなぜか、今から21年も前のあの頃、毎週のように楽しみにしていたドラマ『危険な関係』を思い出したのです。

 

 

 

異種の“におい”

 

 

 半地下の狭い住居に住むキム家の4人(父ギテク、母チュンスク、息子ギウ、娘ギジョン)は、定職に就けず、内職で何とか食いつなぐ貧しい生活を送っています。

 

 そこへ、転機がやってきます。

 

 息子ギウの友人で名門大学に通うミニョクが現れ、自分が留学する間、ギウに、代わりに、裕福なパク家の娘の家庭教師を頼みたいと言います。

 

 ギウは、大学受験に失敗し、浪人をしてはいますが、十分な能力を持っており、妹のギジョンは、デザイナー志望で、その優れた技巧を用い、ギウの身分証明書を偽造します。

 (しかし、人のいいパク夫人は、他でもない、ミニョクの紹介なら間違いない、と、ギウの身分を疑いもしないのですが)

 

 こうして、ギウがパク家の娘ダヘの家庭教師になったのを始めとして、次に、パク家の息子ダソンの絵画教師兼アートセラピストとして、妹のギジョンが、さらに、むかしの経験を生かし、父ギテクはパク家の運転手に、そして、もとはハンマー投げのメダリストだった母チュンスクは、(もといた家政婦追い出し作戦も成功して)、家政婦にと、人を疑うということとは無縁のパク家の人々のおかげで、一家で“就職”が決まるのです。

 

  ただ一人、息子のダソンだけは、キム家に共通する“におい”を、敏感に察知するのですが、そんなことは、まったく問題にもならないほど、パク家の人々は、純粋なのです。

 この“におい”こそが、物語の結末を、ヘルタースケルターのように、地獄の底まで真っ逆さまに突き落とすきっかけになるのですが………。

 

 そのにおいというのは、つまり、「半地下」に住む人たち特有のものであり、それは、冒頭の『危険な関係』でいうところの、新児の着ているタクシードライバーの制服であり、雄一郎が着ている立派なスーツであり、つまり、ワインのボトルにつけられた“ラベル”の一つであるわけです。

 

 ところが、その中味は、といえば、高校時代、新児は優等生であったように、パク家の人々の経歴や業績、能力も、決してひけをとるようなものではありません。

 

 ギウも、ギジョンも、それぞれ自分の能力を十分に活かし、誰が見ても、落ち着き払った、ごくまっとうな教師であり、ギテクの、運転手としての手腕、チュンスクの、家政婦としての手腕も、その地位には十分ふさわしいのです。

 

 

 

 

人は、人に、ラベルを貼りたがる

 

 

 「つまり、人間はラベルなんだよ。一流のビンテージなら、一流の人間に飲まれ、安いビンテージなら、安い人間にしか相手にされない」

 

 人間社会の現実は、雄一郎が言ったとおりなのだと思います。

 

 「たとえこれが1000円の安いワインだったとしても、12万円だって言われたら、みんな、ありがたがって飲むんじゃないか」

 

 新児が、この台詞で言いたかったのは、実際にはそれほど価値のないものであっても、世の中や誰かが、「価値がある」という“ラベル”さえ貼れば、みんな、「ありがたがって」あがめ、あやかろうとし、それを手に入れさえすれば、自分の価値までも上がったような気持ちになる、人間は、そういうものだ、ということだと思うのです。

 

 実際、人間は、気力や体力、精神力、あるいは、特に、高いお金を払ったものに対しては、「これは良いものだ」と思い込もうとする性質があります。

 心理学では、「認知的不協和」と言うそうです。

 高いコストを払って、ひどく苦労してまで、やっと手に入れたものが、こんなくだらないものだった、などという、「釣り合わない感」は、心理的に実に不愉快なため、無意識に、自らの本心や本音を偽ろうとするのです。

 

 

 映画の中で、象徴的に使われていた、あの立派な山水景石もまた、「財運と合格運」のお守りとして、ミニョクからギウへ贈られますが、価値が分からない人にとっては、ただの石です。

 

 人は、この世に存在するあらゆるものに価値づけをし、系統立て、それによって、世界や社会を秩序立て、コントロールしようとします。どんなことでも、比較によってしか判断できないため、そうでもしないと、ものごともできごとも、何も判断、選択することができなくなってしまうためです。

 

 その技法を、人間を判断するときにも、当然、用いるわけです。

 そうして、ひとたび、“ラベル”(レッテル)を貼られれば、よほどのことでもない限り、張り替えられることは、ほとんどないのではないでしょうか。

 

  一度決めたものを、迷ったり悩んだりする暇を、多くの人間は、もっていません。

 なぜなら、たった一日を、ごくふつうに生活するだけでも、人は、たくさんの情報を処理し、山ほど課題を解決しなければならないからです。

 

 

 ですから、その人間に、どんな“ラベル”が貼ってあるかで、他者からどんなふうに見られるか、大きな影響を受けざるを得ず、一度ついてしまった“イメージ”を払拭することも、とても難しいのです。