『バットマン ダークナイト』(6)
ジョーカーの「呪い」
「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」
「私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたが好きになりました」
太宰治『斜陽』より
ジョーカーは、バットマンに捕らえられ、あとにSWATがひかえており、ジョーカーの死は、確実です。
けれども、高層ビルからぶら下がっているジョーカーは、自分の死さえも、おそれるようすはありません。
物語をとおして、ジョーカーを殺す好機を、本人によって与えられながらも、バットマンには殺すことができず、ジョーカーにとっては、誰もが恐れる「死」さえも、ジョークであり、ゲームでしかないのです。
そうして、ジョーカーは、あとあとまで、ゲームをとっておいたのです。
復讐鬼と化したデントは、コイントスで、裏切り者の警察官に罰を与え、最後に、ゴードンの息子を殺そうとします。
すんでのところで、バットマンが子どもを救いますが、そのとき、高所からともに落ちたデントの命は助かりませんでした。
はからずも、バットマンは、デントを死なせてしまいます。
「過失致死」ですが、バットマンは、はじめて、因果関係としてわかり得る範囲内で、人を殺したことになります。
つまり、ゴードンの息子の命か、デントの命か、という二者択一ゲームは、最後まで続いていたわけです。
そうして、バットマンは、ゴッサム・シティの人々に希望を残すため、自ら罪をかぶり、ゴードンに追わせて、闇夜を逃走し、物語は終わります。
世界のすべて、自他の生き死にさえジョークであり、ただゲームを楽しむだけの「ジョーカー」の行く先々では、血が流れ、凄惨な場面も多い本作ですが、この架空の物語の世界を、居心地よく感じるのはなぜだろう、と思いました。
ジョーカーは、つまり、「札つきの不良」です。
自分が、危険な人物であり、悪の権化であることを、隠そうともしません。
神出鬼没で、罪のない人を死に至らしめますが、何せ、「札がついている」ので、その他大勢の人々は、彼を「悪」そのものと判断し、一致団結して、彼を捕らえようとするわけです。
けれども、現実の世界は、もっと深刻です。
“ジョーカー”は、まるで、ガラスか何かのように、粉々に割れて、無数のかけらが、世界中に飛び散り、いまでは、姿が見えません。
「札つきの不良が、悪をなした」、というように、因果関係も、はっきりと見えなくなりました。
テレビで、災害や、重大犯罪を見るとき、私たちは、そこにあらん限りの同情を寄せ、心を痛めることもあります。
けれども、人間にとって、リアルな実感をもって自分の痛みとして感じられるのは、自分や、自分の大切な人の身に起こったことについてだけなのです。
メディアにのった途端、それは、どこかで起きたフィクション同様であり、だからこそ、私たちは、それをこわがりもせずに、直視できるのだと思います。
そうして、あとからあとから押し寄せる情報の波に流されて、いずれは、すっかり忘れてしまうのです。
「ジョーカー」のいる『ダークナイト』の世界は、いわばファンタジーであり、だからこそ、日常的に課せられている社会的抑制から解放されて、感情浄化(カタルシス)を楽しむことも可能です。
けれども、フィクションと、ノン・フィクションの世界の区別がつかなくなり、境界線が消失する地平にまで、現実の人間社会が、漂着してしまったとしたら。
人間としての、「きたならしさ」「けがらわしさ」、飛び散った「ジョーカー」の破片を、「スケープゴート」になすりつけ、自らの内にはないものとして、封印し、抑圧してしまったとしたら。
ジョーカーから、逃れようとすればするほど、否応なく、ジョーカーが仕掛けたゲームに、はまり込んでしまうことになるのです。
そこはもう、きっと、血湧き肉躍る、楽しいファンタジーの世界では、なくなってしまっていることでしょう。
《おわり》