他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイトライジング』(3)

寄せては返す 波のように

 

 ところで、物語とは、大塚英志氏が様々な物語論をまとめたところによれば、基本的に、「行って」「帰ってくる」という構造を持っている、ということです。


 つまり、主人公が、ふとしたきっかけから、日常を離れた場所へおもむき、そこで様々な苦難や困難を乗り越え、何かを失ったり得たりして、もといた場所へ帰ってくる、という構造です。

 

 たとえば、『バットマン ダークナイトライジング』にあてはめてみると、前2作での闘いから、もといた場所へ戻り、何となくさえない生活を送っていたブルースが、再びバットマンとしての自分を強く望まれているのを感じて奮起し、自らの身体を鍛え上げて困難を克服し、結果としては、ゴッサム・シティを勝利へ導くわけです。

 

 この『ダークナイトライジング』の結末について、私は、「バットマンは、ゴッサム・シティを救うために命がけで闘い、死んだ」と解釈しました。


 けれども、ネットを見ると、劇中の様々な伏線や、最後の謎かけのようなヒント、いくつかの場面は、バットマンは死んだけれども、ブルースは生きていて、妻あるいは恋人となったセリーナとともにいるのを、アルフレッドによって確認されている、という結果だとしているものが多いようでした。

 

 ですが、もし本当に、この映画の結末が、その通りだとするならば、正直、私としては、残念な気がするのです。

 クリストファー・ノーラン監督作品の、私があまり好きではないところが、ここで出てしまったのかな、と思ったのです。


 つまり、主人公など、観客が感情移入していた側の人物に、たとえば「死」であるとか、困難から救われない状況で終わるのではなくて、必ず、いくつかの希望や、明るい結末で終わらせようとするところです。

 

 よくいえば、彼は、きちんと物語を閉じられる監督だといえるでしょう。


 ブルースが、日常から再び困難な闘いの場へおもむき、理解者を得て、生還する、という展開は、物語の構造をきちんと踏襲しているからです。

 

 けれども、私は、「行って」「帰ってこない」物語があってもよいと思っているのです。

 

 言い換えれば、表層的には、「行ったっきり」に見えて、別の意味では、主人公が、これ以上はないというほど、深い着地点に帰還する、という物語が好きなのです。

 

 ブルース/バットマンは、幼い頃に両親を失い、その間接的な原因となった(と信じ込んでいる)自らの臆病さと闘い、克服し、翼をもつバットマンとなりました。


 けれども、彼は、平生はもちろんのこと、大富豪の御曹司らしく、プレイボーイを装っているときでさえも、心底はしゃいでいるようには見えず、どこかで静かに絶望しているかのように見えます。


 バットマンの、黒いコスチューム(=死者を弔う喪服、ともとれます)に身を包み、“悪”と闘いながら、いったい彼は、何を感じ取っていたのでしょうか。

 

 

                            《(4)へ つづく》