他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイトライジング』(2)

「どこへでも行けたのに」―引き継がれた闘い

 

 さて、傷心のブルースを慰めるように現れた、もう一人の女性が、ミランダ・テイト(実は、ラーズ・アル・グールの娘タリア・アル・グール)です。


 彼女は、ウェイン産業(ブルース)が計画を頓挫させた“慈善事業”に積極的で、プライベートでも恋人のような関係に発展し、ついには、ウェイン産業の会長の座に就きます。


 そして、もう一人、仮面をかぶり、「持たざる者からは決して奪わず、持てる者からは遠慮なく奪う」泥棒、キャットウーマン/セリーナが登場します。


 彼女は、ブルースの指紋を盗みとったり、ゴッサム・シティを破滅させようと企むベインにバットマンを引き渡したり、当初は、“油断ならない女”です。

 

 物語の前半において、ブルースにとって「味方」であり、一番の「理解者」であると思われたミランダが、実は黒幕だった、という展開は、ある意味、こうした物語の王道といえるでしょう。

 

 実は、ブルースとミランダの対立軸は、お互いの両親によって用意されたもので、ゴッサム・シティを守ろうとしたブルースの両親と、ゴッサム・シティを破滅させようとしたラーズ・アル・グールの対立が、その息子と娘に引き継がれたということになります。

 

 つまり、ブルースとミランダは、最初から、それぞれの“血”の呪縛による仇同士であるということが、観客に明かされなかった大きな秘密として、最後に暴露されるのです。

 

 そして、物語の後半において、ブルース/バットマンと行動を共にするようになり、互いの生き方への共感から、親愛の情さえ抱くようになる相手がセリーナ/キャットウーマンです。

 彼女は、バットマンから、バット・ポッドと「クリーン・スレート」を贈られ、ゴッサム・シティを去って、自らの過去を清算し、別の人間として行き直すこともできたのですが、闘いの場に戻り、バットマンにこう言います。

 

 「どこへでも行けたのに。あなたも、私も」

 

 

人間関係の稀薄化?

 

 

 優れた物語は、その余白の部分で、現実の世界や社会の一側面を、さりげなく、あざやかに切り取って見せてくれます。

 

 近年、地域近隣の結びつきや、家族関係などの人間関係が稀薄化している、といわれて久しいですが、さて、本当のところは、どうなのでしょうか。

 

 ほんの少し、外へ出かけただけでも、目に映るのは、人間と、人間関係だらけです。

 

 街を歩いていても、電車に乗っても、表面上は笑顔で、さも心から楽しそうにおしゃべりをしている人たちを見るにつけ、私の気持ちは、むしろ、翳ることの方が多いのです。

 

 もし、人知れず、心配ごとや悩み、胸につかえるような不安や悲しみを抱えているのに、“笑って”“楽しそうに”“しゃべらなければ”いけないのだとしたら……その心中は、どれほど苦しいだろう?どれだけ痛いだろう?

 

 そう思ってしまうのです。

 

 人間は、「個」になりたくても、「孤」でいるようであっても、決して、様々なつながりやしがらみや縁から、完全に自由になることはできません。

 

 家族、特に親の思いは、それがいかに真面目なものであるか、何も言わずとも子どもに伝わりやすく、子どもは、親の姿がそこにあろうがなかろうが、その思いに縛られて(一生涯を)生きていかざるを得ないのです。

 

 ブルースや、ミランダにしても、本当は、親の生き方や思いとは別の考えや感情をもって、まったく関係なく生きていってもよかったはずです。

 

 そうして、血縁につながれていないと思われるセリーナでさえも、自らがゴッサム・シティで果たしてきた役割と、たとえほんの少しの間でも、意志の通じ合いを感じたブルースをおいて去ることはできなかったのです。

 

 「個」になり、「孤」になって生きていきたくとも、実際には、目に見えない糸や縄、鎖にがんじがらめに絡めとられ、とらわれて生きていかざるを得ない私たちなのですから、「人間関係が稀薄化している現代」(これは憂慮すべき事態だ)、などと、たいした思慮もなしに軽々しく言うべきではないのではないかと、私は思うのです。

 

 

                             《(3)へ つづく》