他人の星

déraciné

『モンスター』(7)

 

 

 さて、私は、小さいころから、高いところがすごく(すごくすごくすごく)好きで、高いところを見ると、興奮を抑えきれず、走っていってしまうほどの、高所愛好症です。

 

 今は亡き、大好きだった義父が、私の高所愛好症を知って、パートナーの郷里へ帰るたびに、高所にある山や灯台、見晴らしのいい場所へ、よく連れていってくれました。

 そのたびに、テンションは上がりまくり、自分の足もとなんかどうでもよくなって、奇声をあげながら、ぎりぎりの淵まで寄って走りまくる私に、義父は、「こいつはマジでヤバイ」と思ったのでしょう、私の腕をつかんで、私の身の安全を守ろうとしてくれました。

 パートナーは、私の方を見ていられず、うずくまってしまう始末でした。

 

 どうしてなのか、自分でもわかりません。

 うれしい、楽しい、気持ちいい、が、頭の中でごちゃまぜになって、ドーパミンが出まくっているような感じになるのです。

 

 そんな私ですから、あの、高いところまでのぼっていく観覧車も好きでした。

 好き、ですが、そんなに大好き、なわけではありません。

 もの足りないのです。
 もっと言えば、降りた後、ああ、もう戻ってきちゃった、と、寂しくなるのです。

 

 いちばん高いところまでのぼってしまったら、私は、ずっとずっと、そこへとどまっていたいのに、観覧車という、機械的な都合と仕組みのせいで、降りていってしまうだけですから……。


 それでも、私にとって観覧車は、現実という地の呪縛から、つかの間、放れていられる、という意味で、好きな遊具です。

 

 

観覧車“モンスター”


 ところで、映画『モンスター』のDVDを手に取ったとき、このタイトルは、連続殺人犯であるところのアイリーンのことを言っているのだろうか、と、自動的に思いました。

 実際に映画を観ると、「モンスター」という名称は、人物に対してではなく、過去にアイリーンが憧れ、実際に乗ってみたら、こわくて気持ち悪くなって吐いてしまった、という観覧車の名前として登場します。

 セルビーにせがまれ、一緒に行ったプレイランドで、リーは、セルビーと一緒に観覧車に乗りますが、やはり苦手なようで、目をつぶって苦笑いを浮かべます。

 

 高所恐怖症、なのでしょうか?
 いいえ、それだけではないようです。

 

 私にとっては、つかの間の夢の遊具でも、アイリーンにとっては、忌避すべきもののようです。

 

 観覧車は、もとはロシア帝国貴族の遊びのために発明された遊具で、のちに、国どうしの技術力の競い合いによって、機械の仕組みがより高度に発展し、より高く、大きい、あのような形となって、遊園地の中でも代表的な遊具となっていったそうです。(ウィキペディアで調べました)。

 

 機械の仕組みだけで、乗り込んだ人を、地上から離れた高所にまで自動的に押し上げたかと思うと、今度は、やはり乗っている人の気持ちもお構いなしに、再び、地上の囚われ人へと戻してしまう乗り物でもあるわけです。

 

 運命、あるいは「運」という自動機械の歯車が、人間を乗せて、勝手に、あげたり落としたりする。

 

 観覧車とは、リーにとって、自分を取り囲む環境、家族や他人、社会そのものだったのかもしれません。

 

 少女のとき、リーにはまだ、夢がありました。
 美人になって、男性をとりこにし、誰もが憧れる大スターになる。

 

 まだ実際には乗らずに見ていただけの、大きな観覧車に、リーは、強い憧れを感じていました。

 ですが、大人になって、実際に、機械の歯車に、自分の意思も何かもを無視され、踏みにじられるように振りまわされる。

 誰だって、もう二度とご免だ、と思うことでしょう。

 

 つまり、観覧車とは、多くの人間が、その中で、悦びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみ、怒り、憎しみ、ありとあらゆる感情を感じつつも、そのすべてを無視して回り続ける、感情を持つ人間の集合体、社会の象徴だということなのではないでしょうか。

 

 一人一人の人間に出会い、話をするうちに、老若男女かかわらず、人は何と多様な感情を感じていることだろう、ということを感じます。

 けれども、人間は、ひとたび集合体となると、そうした人間的にゆれ動く、繊細な個人的感情とはまるで別の、非人間的な“怪物”に変貌します。

 なぜ、私たちは、踏みとどまることができないのでしょうか。

 

 逆説的で、皮肉ですが、私たちはそれぞれに、与えられた環境の中で「生き延びること」が最大の目標となっているからです。


 環境の空気に合うような、同じ性質を帯びたものにならなければ、そこから排除される可能性があります。


 だからこそ、生きるために、人間は、本来自分の色ではないものにも、生きるためならば、すすんで色を変えようとします。

 

 そんなふうに言っている私は、どこかで、自分を蚊帳の外におこうとしています。

 何だよ、私だってそうじゃないか、と、どんなに自分を地にたたきつけて踏みつけようとしても、できないのです。

 「自分だけは違う。他の人はしても、自分はそんなことはしない」という、根拠のない自信。

 こんなものを、もっているからには、周囲の空気が“モンスター”なら、私自身もまた、その一部になってしまう(あるいはもうなっている)のだろうな、とふいにこわくなることがあります。

 けれども、そのこわさは、すぐに去り、忘れてしまいます。

 

 “モンスター”という観覧車に、乗っているつもりが、いつしか、その“モンスター”をまわす部品か機械の一部になっている。

 

 機械の歯車の一つになったということに気づかずに、人間を振りまわす側にとけ込んでしまえば、楽に生きられるかもしれません。


 けれども、リーは、いつまでも、とけこめずに生きてきて、たとえどんなに気持ち悪くなっても、具合が悪くなっても、振りまわされ続け、最後には、観覧車“モンスター”の意に添わなかった者として、殺されてしまったのです。

 


 それが、この映画のタイトル、『モンスター』の所以ではないのかと思うのです。

 

 

                                  《終わり》