他人の星

déraciné

『パラサイト 半地下の家族』(3)―「悪」もなく「善」もなく―

 

 

 

 ここからは、大いにネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 さて、めでたくパク家に全員が職を得たキム家は、パク一家が息子ダソンの誕生祝いのキャンプに出かけたのをいいことに、パク邸の居間を占拠し、酒盛りを始めます。

 

 そして、この夜、予期せぬ事態が起こります。 

 

 キム家が策略と連携プレーによって追い出した元家政婦ムングァンが、「忘れ物をしたから」とたずねてきたことにより、こっそり地下にかくまわれていた夫グンセの存在が、明らかになります。

 

 キム家の素性を知ったムングァン/グンセ夫婦と、キム家は、当然、言い合い、もみ合いのすったもんだの大騒ぎになりますが、パク一家が、激しい雷雨のため、急遽予定を変更し、帰ってくることになり、ムングァン/グンセ夫婦を何とか地下に拘束し、ギテク、ギウ、ギジョンは、パク邸を脱出しましたが、激しい雨は、彼らの半地下の家を浸水させてしまいます。

 

 眠れずに一晩を過ごした3人は、翌朝、うってかわって快晴となった日曜日、ダソンの誕生パーティーをするからと、パク家から非常招集をかけられるのです。

 

 疲れ切ったギテクが運転する車で、パク夫人は上機嫌で買い物をし、「昨日の雨のせいで、今日は、いいお天気」と言いつつ、ギテクのにおいが気になって、窓を開けます。

 

 ダソンのパーティに集まり、飲んだり食べたり、楽器の演奏に興じたりする「優雅な」人々を、カーテン越しに見るギウは、複雑な思いを感じ、隠れてキスを交わしたダヘに、「僕はこの場にふさわしい人間か」と聞きます。

 

 そして、ギジョンもギウも、地下のムングァン/グンセ夫婦と何とか和解しようとするのですが、いずれも失敗に終わり、とうとう、悲劇が起こります。

 

 あの雨の夜のけががもとでムングァンは死に、愛する妻を失ったグンセは、地上へ出て、パーティ会場へ乱入し、ギジョンを刺し、その騒乱と混乱のさなか、ギテクは、自分のにおいに不快さを露わにしたパク氏を刺し殺してしまうのです。

 

 

 

悲劇は、“機械仕掛け”で

 

 

 ギテクは、作中、見られるように、とても温厚な人物です。

 家族ともども世話になったパク家の人々に危害を加えたり、不幸のどん底に陥れようとか、そういうつもりもまったくありません。

 本人自身、何が起きたのか、よくわかってすらいないのです。

 グンセと交替するように、地下に潜んで暮らすようになってからは、パク氏を殺してしまったことを、ひどく悔いています。

 

 また、ギジョンを刺し殺したグンセもまた、妻ムングァンを愛し、パク氏を「リスペクト」していました。

 富裕なパク家の人々も、とても善良で、誰かを陥れようとか、害を及ぼそうとか、そうした“悪だくみ”とは無関係な、優しい人々です。

 

 ギテクの妻、チュンスクが、「私だって、金持ちだったら、もっと優しくなるよ」と言ったとおりなのです。

 

 よく、「いじめられっ子は、いじめっ子になる」と言います。

 人は、自分がされたように、(特に、ひどいめにあっていれば、復讐のようにして)相手にも、同じようにする傾向があります。

 

 そこそこの権力や経済力、地位に恵まれた人が、往々にして「好人物」なのは、誰かに虐げられたり、ひどいめにあわされたことが少ないからなのかもしれません。

 パク家の人々が、やすやすと人を信用するのも、疑心暗鬼になって、人間不信に苦しむことなどないからでしょう。

 加えて、経済的余裕は、心の余裕につながりますから、ちょっとやそっとで心がささくれ立ったり、脆弱になったりすることも少ないでしょう。

 

 ただ、「生活の悲哀」というものを知りませんから、たとえば、大雨などの災害で住む場所を失うことがあるなど、思いもしませんし、そうした人たちの気持ち(そういう人たちが一体何に苦しみ、どんな挫折を味わうのか)にも鈍感なだけなのです。

 

 

 

 実は、『パラサイト 半地下の家族』と前後して、『ジョーカー』も見たのですが、この点において、両者は、好対照をなしていました。

 

 『ジョーカー』では、人を殺し、罪を重ねていく彼を、彼の過去のトラウマと、いまなお虐げられ続けている状況、その加害者は、富裕層や“エリート”たちである、という流れをつくり、「ジョーカー」を、正義のヒーローにまつりあげてしまい、少なくとも、私にとっては、面白い映画ではありませんでした。

 

 誰かを悪に、誰かを善に、仕立て上げることで、観客の同情や共感を乱暴に呼び込もうとする構図が、皮肉にも、アメリカ社会の分断の深刻さを象徴しているようにも思えたのです。 

 

 

 それに対して、『パラサイト 半地下の家族』には、絶対的に悪い人間も、善い人間も、登場しません。

 

 悲劇は、その階段を、一段たりとも踏み外すことなく、用意周到に準備されていったのです。

 

 例えば、大雨の翌日、キム家がパク家から招集されることなどなかったら?

 

 住居を奪われ、ほとんど眠れず、疲れ切っていたギテクの車で、「昨日の雨のおかげで今日はいいお天気」などと、パク夫人が言わなかったら?

 それと同時に、ギテクのにおいを逃すために、車の窓を開けなかったら?

 

 着る服すら雨で奪われたキム家の人々に対して、ありあまるほどたくさんの服を持ち、さらに買い物をするパク夫人の姿など見ていなかったら?

 

 何の邪魔も入ることなく、ギジョンが、あるいは、ギウが、ムングァン/グンセ夫妻と和解するのに成功していたら?

 

 ダソンを、(お姫様役のギジョンを救う)ヒーローにするという(馬鹿げた)寸劇のために、パク氏とともにインディアンの扮装をし、疲れと不安によって、傷つきやすい状態にあったギテクが言った、「でも、奥様を愛しているのですから、仕方がないですよね」の言葉に、パク氏が事務的に「これは仕事だ。給金も払うのだから」と言わなかったら?

 

 そして、パク氏が、ギテクのにおいに不快感と拒絶感をあらわにしなかったら?

 

 

 そうです。

 あの悲劇が起こるまでに、細かな手続きが、一つ一つ、やり損じられることなく、入念に用意され、ギテクを追い詰めていった、ただそれだけなのです。