他人の星

déraciné

『モンスター』(4)

「きれいな」文化

 

 「どんな人にも破壊的で、反社会的で、文化に抗する傾向がそなわっている」

 「一部の人々の満足が、その他の、おそらく多数の人々の抑圧の上に成立することを前提とする文化にあっては(現在のすべての文化の現状はこうしたものなのだ)、抑圧された人々が文化に対して激しい敵意を抱くようになるのはよく理解できる」

 「文化的な要求のうちで、美と清潔さと秩序が特別な地位を占めることは明らかだ」

                   S.フロイト『幻想の未来/文化への不満』 

 

 

 

 さて、どんなに汚い公衆便所で用を足しても、自分が「汚い」と思わないのはなぜでしょう?

 

 …とはいえ、いまでは、それほど臭くて汚い便所を探すのは困難かもしれません。

 いつの間に、トイレまでも、明るく清潔な場所になったのでしょう?

 少し前までは、公園や、サービスエリアのトイレ、スーパーのトイレは、だいたい暗くて臭くて汚くて、卑猥な落書きがしてあったり、便器に排泄物の名残りがついていたりしました。

 

 あるいは、自分の口の中で、ごくんと唾をのむのは平気でも、一度コップに吐き出した自分の唾を飲め、と言われたらどうでしょう?できるでしょうか?

 絶対に、嫌ですよね。

 

  糞尿にしても、唾にしても、一度自分の体から離れたものは、もう「自分」ではないからです。

 

 

 映画『モンスター』で、リーは、暴行された男性から、「おまえらのようなやつは(汚くて)きらいだ」と言われます。

 その、「汚くて嫌悪を感じる」女で性的欲求を処理するのは、男にとって、「汚い公衆便所で用を足す」のと同じで、そこで用を足したからと言って、自分が汚いことにはならないわけです。

 

 その一方で、人は、たとえばよく使う道具などをすぐに自分の一部と認識したりもします。

 たとえば、鉛筆を持って、紙の上に字を書くと、鉛筆が感じるはずの(もっとも、鉛筆が人間のような精神機能をもっていれば、の話ですが)、紙のザラザラした感じや、つるつるした感じを、自分の指先に感じるはずです。(リタ・カーター著『脳と意識の地形図』)

 

 不思議ですね。

 

 これだけはっきりしているかに思える自分の体と、そうでないものの境界は、実はかなり曖昧なのです。

 

 …それじゃ、もしかして、人間の体自体、いや、人間の存在そのものも、幻かも!?……と、少しでも思った方は、V.S.ラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊』を一読されることをおすすめします。

  世界中の、どんな遊園地の、どんな絶叫マシーンより、世界が真っ逆さまにひっくり返って(もう二度と元に戻らない)、スリリング!な本です。

 

 

 話が少し逸れましたが、私たちは、整然とした街並みや、美しい花が植えられた公園(美しいトイレも!)、つまり、秩序立てて整えられたものや飾られたものに、「清潔さ」や、文化度の高さを感じるようです。

 

 『モンスター』でいえば、ビジネスガールや弁護士の秘書は、整然としたオフィスで働いているのであり、彼女たちの職業や仕事ぶりは、まさに、「文化的」かつ「清潔」で、「きれい」なのです。

 

 これに対して、娼婦という、どこの誰ともわからない、どんな男とも性行為に及ぶ、という点からして、「整然として」「秩序だった」「清潔な」「美しさ」に反しており、リーに暴行を加えた男の言うように、まるで公園の公衆便所のように「きたない」仕事、ということになります。

 

 実は、「きれい」とか「きたない」とかいう感覚は、そうしたイメージだけでなく、その人の善悪などの価値判断の境界線でもあり、また同様に、「これが自分だ」と感じるものとそうでないものの境界線を示すものでもあります。

 

 すなわち、「善」=「きれい」、「悪」=「きたない」、自分というアイデンティティの範囲内のもの=「きれい」、自分のアイデンティティの範囲ではなく、得体の知れない異質なもの=「きたない」と、私たちは、無意識的に区別しているのです。

 

 

 

肥え太る「私」

 

 フロイトの言うように、「文化の理想とは、その文化が何をもって最高の価値のあるもの、できるかぎりの努力を尽くして獲得する価値のあるものと考えているかを示すもの」です。

 人は生きものであり、生きもの特有の不確実さや不安定さ、不浄、怠惰といったものを本質とし、人間のそうした「望ましからざる」性質を、天体を手本として秩序立てようとしたのが「文化」であるというのです。

 

 「きれい」=自分と自分が属するもの、「きたない」=それ以外の得体の知れない異質なものとすれば、当然、自分自身は、自分というアイデンティティの中心です。

 そこへ、自分の家族も入ってくるのでしょうか。(なだいなだ氏は、そのあたりまでにしておいた方がいいだろう、と言っています)。

 

 「自我」、つまり、これが自分だと意識するものの中心に含むものが拡大すれば拡大するほど、自我はどんどん肥え太り、たとえば国や地域、民族にまで広げれば、自分たちの文化圏の文化よりも、他の文化圏の文化は劣っている、という敵対意識を生むこともあります。(S.フロイト 前掲書)

 

 実は、人間個々人は、それぞれに文化と融和、融合するために、もともともっている様々な衝動や欲望(特に、性や暴力)を放棄させられ、犠牲にしているのです。

 それというのも、人間というものは弱く、一人では生きていけず、家族や社会など、何らかの共同体の中に同化して生きていかざるを得ないからです。

 そして、その、文化のために放棄させられ、犠牲にさせられたことからくる強い欲求不満のはけ口を、どこか、支障のないところにもうけてやるか(社会的弱者や犯罪者、リーのような存在など)、巧妙に向けかえてコントロールすることが、権力の仕事となるわけです。

 

 

 こうした「文化の統治」によって、私たちの社会は、殺人などの暴力、近親姦などの性の氾濫を、「けしからん」として罰し、社会の外へ追い出し、抹殺することによって、社会の歯車は、その全体主義を維持したまま、「正常に」回り続けることが可能になるのです。

 

 

 映画『モンスター』では、セルビーを預かっているドナが、正常に回り続けようとする「文化」と、その維持のために、違反分子に警告を発したり、罰したりする社会の象徴でしょう。

 つまり彼女は、自分自身の中の潜在的な不満の原因と、その正当なはけ口に、もはや目をつぶった存在です。

 

 そして、セルビーは、文化と、その維持のために犠牲や迫害を余儀なくされたものの象徴、リーに、まだいくばくかの「美」を感じているのですが、やがて彼女もまた、ドナのいる世界へと、飲み込まれていってしまうのです。

 

 

                             《(5)へ つづく》