他人の星

déraciné

人を死に至らしめるもの(1)

 

 「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。……<中略>……ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。つまりそのためなんだ、誰も彼も疲れた様子をしているのは。なにしろ、今日では誰も彼もが多少ペスト患者になっているのだから。しかしそのために、ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ。」

                      アルベール・カミュ『ペスト』

 

 いまこの時世にあって、この言葉を読み、どう感じるでしょうか。

 どんなことについて言っていると思うのでしょうか。

 

 私は、この言葉を読んだとき、こう思いました。

 ここでいわれている“ペスト”とは、いわば比喩であって、人は、自分が「善かれ」と思う考えや価値観、あるいは、自らが“正義”だと思う言動や態度を、人にも強いて、“感染”させてしまう。

 

 そういうことを言っているのではないか、と思ったのです。

 

 この言葉のすぐあとには、こんな言葉もあります。

 

 「人間のあらゆる不幸は、彼らが明瞭な言葉を話さないことから来るのだ」。

 

 たとえば、他人を自分の考えに従わせたいとき、人は、はっきりと「こうしろ」「ああしろ」とは言わないのが常です。

 

 それではどうするのか、どうやって人を従わせるのか、つまりそれが、「忖度」です。

 

 少なくとも、「近代成熟化した社会」(たとえ仮面であっても)にあって、あからさまに、近世期以降登場してきた「人権」を侵害するようなことをすれば、そのかどで訴えられるかもしれないし、そうでなくとも、原始的人間からさっぱり進化しない、愚かで汚らしい、知性のかけらもないヤツ、と思われかねない。

 要するに、自分に火の粉が飛んでこないようにするために、はっきりした「明瞭な言葉」を話さず、用意周到、証拠が残らないようにして、相手が「うん」と言わざるを得ないように、じわじわと圧力をかけるわけです。

 そうしておけば、「そんなつもりはなかった(のに、相手が勝手にそう受け取った)」と、自分は責任の免れるばかりか、そう受け取った相手に罪をなすりつけることさえできるのですから、頗る都合がいいのです。

 

 

 けれども、人間は、ある条件さえ整えば、他人に「~しろ」、とはっきり言い出します。そうして、それに従わない人間を、あからさまに批難し、集団で攻撃します。

 

 権力者や、専門家の言うことになら、従おうとするのでしょうか?

 それならば、まだしも、マシかもしれません。

 

 マスメディアが、これこそが「正しさ」であり、絶対的正義であるというイメージをさりげなく、たたみかけるように打ち出し、それによって人々が煽動されれば、偏って誤った価値観の「オーバーシュート」は、簡単に起こり得ます。

 

 それは、決して、カミュの言うところの「明瞭な言葉」ではありません。

 

 それは、もはや、自分の考えや思想を表すところの「明瞭な言葉」を奪われた、沈黙にも等しい、(あるいは、それ以下の)、ただの無駄吠えです。

 

 「何も言えないのなら、黙っていればいいのに」。

 アンデルセンの言葉です。

 

 

 

天災か?人災か?

 

 「コロナウィルス」。

 

 未だ正体のよくわからない、この病、特に、それに関係するメディアが伝える人々の動きや、そこから社会事象が世界の中心でゆっくりとうずを巻き始めたとき、私は、そこへ巻き込まれまい、とするつもりでした。

 

 なぜなら、私は、医療関係者でも科学者でもなく、“パンデミック”という現象についての専門家でもないからです。

 つまり、経験と知識の両方がまるっきり欠けている、ど素人だからです。

 

 ですから、私に言えるのは、「知りません」と「わかりません」という言葉だけです。

 この病や現象、あるいは、それに関係する人々の様々な行動について、議論できるような、そういう立場に、私は、はじめからいないのです。

 

 

 けれども、そんな高みの見物も、つい先日、終わってしまいました。

 

 火の粉は、飛んできたのです。

 

 

 つい数日前のことでした。

 

 食料品の買い出しに行ったとあるスーパーでのできごとでした。

 

 買い物かごを持った私のあとを、カートを引いてついてきていたパートナーが、誰かに呼び止められた気配がしました。

 私は、誰か、近所の人か、知り合いにでも声をかけられたのだろう、くらいに思って、気にも止めず、先に歩いていきました。

 

 けれども、あとから来たパートナーの表情を見たとたん、ぎょっとしました。

 彼の顔は、怒りのあまり、蒼白でした。

 どうしたのかときくと、見ず知らずの高齢男性から、「マスクをつけるよう」言われた、というのです。

 

 私たちの間では、マスクにはさしたる科学的根拠と効果は認められないという共通の見解のもとに、(にもかかわらず息苦しいし、臭い)、誰かと対面して話さなければならない場合を除き、原則、マスクをせずに行動していました。

 

 

 彼の言葉を聞いたとたん、私の頭は、瞬間発火しました。

 

 「どこ!その人!誰!どの人!言ってやるから!」

 

 ふと気づくと、周りの人が、見たり振り返ったりするほどの声量でした。

 私は、もっと大きな声を出すつもりでいました。

 たったいま、私のパートナーに向かって、偉そうにものを言ったその高齢男性に、聞こえるように、もっと、もっと、大きな声で。

 

 こう言うと、パートナーを守ろうとしたようで、かっこいいようですが、そうではありません。

 自分に親(ちか)しい者は、否応なく自分の一部であり、自分が言われた気がしたのだと思います。

 

 何より、無自覚に「ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうような」ことをしたその人に対して、激しい怒りを感じたのです。

 

 パートナーに制止されなければ、おそらく私は、店内くまなく行き渡るような大声で、叫んでいたと思います。

 

 「いま他人(ひと)にマスクつけろと言った奴、誰だ!いますぐ出てこい!」と。