他人の星

déraciné

裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に 第15話」

 

 「では、それならば…。…でも、なぜ…。あの者は、いったい………」

 

 姫は、自らに問うように、言いました。 


 そのとき、遠くで、犬が吠えたような声が響きました。

 ふたりは、ぎょっとして、足を止めましたが、あとには、静寂があるばかりでした。


 「先を急ぎましょう。とにかく、ここにいるべきではありません。ここはもはや、あなたさまのようなお方が、とどまるべき場所ではないのです。」


 召使いは、強い口調でそう言うと、はっとしたように口をつぐみ、しばらくしてから、おだやかに言いました。


 「大丈夫です、姫さま。魔物というものは、神出鬼没、変幻自在なはずです。そのようなものが、こつ然と、牢屋から消えたとて、何の不思議がありましょう。姫さまを、魔物だなどと言ったことを、逆に利用すればよいのです。あの偽者の姫さまだって、魔物ではなく人間だなどとは、口が裂けても言わないでしょう。自分が偽者だということを、白状するようなものですから。」

 

 しかし偽の姫は、この勇気ある召使いとまったく同じ理由で、ある男に、城門の外で番をさせていました。

 

 その者は、偽の姫に惑わされた数いる男のうちの一人でした。

 

 その男は、王の若き側近でしたが、王よりも、偽者の姫に忠誠を尽くしており、何でもよく言うことをきいたのです。

 


 偽の姫は、その者に命じました。


 「いいかい、よくお聞き。あのわたくしの偽者は、たしかに魔物。魔物とは、神出鬼没、変幻自在。あやしげな術を用いて、牢を抜け出し、城から出ることも可能であろう。お父さまは、甘すぎる。魔物というものを、知らなさすぎる。だからおまえは、城門の外で、魔物を待ち伏せし、気づかれないようつけていって、人目につかぬ場所で殺してしまうのだ。よいな?」


 偽の姫にとって、本当の姫は、二度とふたたび、自分の前に現れてもらっては困る存在でした。

 お城の中の者すべての素性を知ることは不可能でしたし、いつ誰が真実に気づいて、本当の姫の逃亡を助けないとも限りません。絶対に、そのようなことがあってはならないという怯えから、偽者の姫は、本当の姫の、確実な死を望んだのでした。

 

                            《第16話へ つづく》

裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に」第14話

 <前回までのあらすじ>

 夏祭りの夜、偶然に出会ったお城の姫と村娘は、お互いの姿が瓜二つなのに驚きますが、村娘の提案で、二人は祭りの間入れかわることにしますが、姫は、村娘によって、古井戸の底に突き落とされてしまいます。

 しかし、古井戸の底にはキズを負ったオオワシがおり、姫は、命拾いをします。やがて月日は流れ、いまや偽の姫となっている村娘の結婚話をきき、姫は、オオワシの助けを借りて、古井戸の外へ脱出し、お城へ向かいます。

 姫は、無事、王と后に再会しますが、偽の姫の巧妙な言葉によって、実の両親から、魔物の疑いをかけられ、処刑されることとなってしまいました。

 

 

 姫は、お城の地下にある、冷たい牢屋に閉じ込められ、すっかりうちひしがれていました。

 からだはすっかり疲れていましたが、妙に冴えわたる頭は、ぐるぐると、考えることを、やめようとしませんでした。


 父も母も、実の娘である自分と、あの瓜二つの顔の娘とを、本当に、見分けることができなかったのだろうか?

 どちらが真であるのか、どちらが偽であるのか、見抜くことができなかったのだろうか?

 むかし、よく思ったものだ。もし自分が、一国の王の姫という皮を脱いでしまったら、父も母も、自分のことなど、わからなくなるのではないか、と。実際、本当にそうなってしまったとは…………

 


 絶望に沈む姫の心には、あのオオワシのことだけが思い出されました。

 命を賭してまで、自分を地上の世界へ送り届けてくれたというのに、明日の朝には、実の父と母によって殺されてしまうとは、あまりにかなしく、情けなくて、涙も出ませんでした。

 

 そのとき、何者かの足音が、暗く冷たい石の廊下に響きました。

 その者は、こちらへ近づいてくるようでした。

 見ると、それは、一人の召使いでした。


 召使いは、牢屋の中に、姫の姿をたしかめると、こう言いました。


 「姫さま。いま、そこから出してさしあげます。」
 「あなたは?いったい………」
 「とにかく、ここを出ましょう。それから、お話しいたします。」


 召使いは、そう言って、何本もある重そうな鍵の中から、迷わず一本の鍵を選び、それで牢屋の扉を開けました。

 捕らえられてしまったのが、本当の姫であるとわかった者が、ここにいたのでした。

 

 その召使いは、むかし、幼い姫がみつけたこの城の秘密の抜け道のことを知っていました。

 ですが、ときどき迷うこともあったので、そこは姫が、むかしの記憶をたどって先導しました。


 そして、城の中心部からだいぶ遠ざかると、召使いは、話しはじめました。


 「姫さまは、お小さいころ、よくこうやって、わたくしの息子と遊んでくださいました。それに、いつぞやは、息子が、城の隠し部屋に入り込んで迷子になったところを助けてくださったこともありました。あなたさまは、身分の違う者に対しても、いつも分け隔てのないお方でした。」


 姫は、その一言ですぐに、あの小さい、賢い男の子のことを思い出しました。


 「ああ、もしかしたら、あなたは?」

 「ええ、そうです。わたくしは、あの子の父親でございます。」
 「そうでしたか。彼は、元気にしているのですか?」
 「はい、それはもう。いまでは村で、職人をしながら暮らしております。」
 「そうですか。」
 「………わたくしには、あなたさまこそ、本当の姫さまであることが、すぐにわかりました。それで、急いで村へ行って、息子に事情を話し、城の抜け道のことを聞いて参ったのでございます。息子は、自分が助けたいと申したのですが、みつかったりしたらかえってあやしまれるので、思いとどまってもらいました。……いいえ、あなたさまが、本当の姫さまであると気づいた者は、他にもいたと思うのです。ただ彼らは、自分の身に火の粉がふりかかってくる事態を、極力避けたかっただけなのです。ただふつうに、そういう思いがまさっただけなのです。あるいは、王さまと、お后さまでさえも………」
 「………え?」
 「王さまも、お后さまも、本当は、どこかで、何が真実か、わかっておられたのかもしれません。けれども、ああしたお立場の方は、守らなければならないものが大きすぎ、また、多すぎるのでしょう。おふたりは、向かい合って、何かを話すこともないのかもしれませんし、あるいは、何かを知っても、誰にも口をつぐんでいるのかもしれません。それに、たとえ真実でなくても、人は誰しも、信じたいことしか信じないものなのです。……ですから、誰にも、何も、たしかなことは、わからないのです。」

 

 その言葉に、姫の心は、小舟のように、ゆれるばかりでした。

 

                            《第15話へ つづく》

気持ち

f:id:othello41020:20190330215107j:plain

 

 

           どうせ 死ぬのに
           

           死にたくなる
           

           

           どうせ 死ぬのに
           

           生きたくなる
           

 

           どうせ 死ぬのに

 

 

 

inner childー内なる子

f:id:othello41020:20190329185216j:plain

 

          お日さまは


          ぼくに


          早く動けと せかすから
 

          きらいだ と言い

 

 

          雲は


          ぼくに


          鉛になれと 呪いをかけるから
 

          きらいだ と言い

 

 

          まして 雨は

 

          ぼくのことを 憎んでいる
 

          だから あんなに 冷たいんだ 
 

          ぼくだって 大嫌いだ と言い

 

 

          窓すら 見ずに
 

          背を向けて 
 

          座り込む この子

 

 

          いったい
 

          何と言って
 

          なだめすかし
 

          どうやって
 

          連れ出せばよいのか
 

          わからずに

 

 

          きょうも
 

          一日が 
 

          暮れていく

 

 

「わたし」は何からできているのかー映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(4)

 

「社会の子」

 

 Here I am walking naked through the world

   Taking up space,society's child

   Make room for me,make room for me,make room for me

 「裸で世界を歩いてる

 ここにいるんだ、僕だって、社会の子どもだよ

 場所をあけてよ、居場所がほしいんだ、僕に居場所をつくってよ」

              ― MR.BIGGoin' Where The Wind Blows” 1996年

 

 

 かなり乱暴なくらいに、意訳しました。

 おとなも子どもも、みんな言いたい気持ちを、ストレートに表現している歌詞だと思います。

 なかなか、こんなに素直には、言えないかもしれませんが…。

 

 

 この世に生まれてきた以上、子どもは、生きていくために、二つのことを学ばなければなりません。

 一つは、まったく知らないこの世界を理解していくこと、もう一つは、この世界と関係をとり結んでいくことです(滝川一廣著『子どものそだちと臨床』日本評論社,2013年)。

 

 子どもは、先に生きている大人たちが理解しているのと共通の方法によって、この世界を理解することが求められます。その一つとして、言語があります。私たちが、リンゴを「リンゴ」、「山」を「山」と表現できるのは、ものや概念と、言葉を結びつけて教えてくれた人がいるからです。

 

 そして、この世界と関係を結ぶということは、端的には、他人との関係の中に入っていくことを意味します。

 

 そのため、世界を理解することと、世界と関係を結ぶことは、互いに影響し合いながら、発達していくのです。

 

 大人についても、同じことがいえるのではないのだろうかと、私は思うのです。

 

 私たちの住む社会では、事件やできごと、言葉や表現の賞味期限は、とても短くなっていると感じます。

 情報の波は、いまや私たちをのみ込んでしまい、足はつかず、波間に浮かんだり沈んだりして、呼吸するのがやっとのようにも思います。

 

 生まれたときから、慣れ親しんだ価値観や、生きるために学んだ術を、そう簡単に手放せるはずもなく、私たちは、自然と、こう思うクセがついているのではないでしょうか。

 

 とにかく、何とかして、ついていかなければ、と。

 

 人間の子どもは、他のほ乳類と比較しても、放っておかれたら生きてさえいられないほど未熟な状態で生まれてくるので、まるでトラウマのように強い印象で、孤独は死と結びつけられているのではないでしょうか。

 だからこそ、自分の意識や認識を越えた奥深いところから、ひとから必要とされ、役に立つ人間にならなければ、という、強迫観念にも似た焦りに突き動かされ、失敗すると、無力感や無能感にとらわれて、ひどく苦しんでしまうのです。(この“苦しみ”さえも、はっきり自覚できるとは限らないでしょう)。

 

 ある意味、人間はとてもけなげで、その世界がどんなものであれ、その価値観を好きだろうと、嫌いだろうと、冒頭にあげた歌詞のように、(何でもするから、)「居場所をつくってよ」、という気持ちを、心のどこかから、消すことができないのではないかと思うのです。

 

 

 話を、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』に戻します。

 

 4歳の少女、アマンダの母親へリーンもまた、社会の子として生まれ、この世界を、すでに先に生きていた人々と同じような方法で理解し、世界(他人)に受け入れられようとしたのでしょう。

 彼女の、衝動を我慢できないという性質は、ある側面において、近代化した社会システムが想定する消費的行動としては、大変都合がいいものなのです。悩んだり、迷ったり、さんざん考えたりせずに、衝動的にものを買ってくれる方が、利益につながるわけですから。

 

 ひどく欲望をあおっておいて、その一方で、ひどく我慢を強いられ、人間を、重度の欲求不満にさせておくのが、現代社会のしくみなのかもしれません。

 

 へリーンもまた「社会の子」であり、母親を通して侵襲してくる「社会」の影響を、否応なく受けて生きていくアマンダは、「社会の子」である私たちを、そのままに映して見せている、といってもよいのではないでしょうか。

 

 心の奥深くに植えつけられている「善き人間」像に気づかずに、誰かが「失敗をやらかした」と感じると、反射的に、その人を「自己責任」といって切り捨てたくなることが、私にもあります。

 

 けれども、こんなふうに考えているうちに、現実には、完全に誰か一人の「自己責任」だといって責め立てることができることなど、この世にあるのだろうか、と思うのです。

 

 

 最後に、もう一度、この言葉をあげて、しめくくりたいと思います。

 

 

 “人間を形づくるのは 自分以外の何かだ

 住む街 隣人たち 家族

 肉体が 魂を包み それを街が包み込む”

 

            映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』2007年(アメリカ) より

 

 

                                  《おわり》

 

 

          

 

 

 

 

 

わたしは何からできているのか?―映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(3)

 

「愛情」って何?

 

 どうしても、避けることのできない問いだと思います。

 

 なぜなら、この映画は、母親のへリーンから、4歳の少女アマンダを救出し、愛情をもって育てようとした警部ドイルによって、話の本筋が動いているからです。

 

 自分の娘を殺された過去のあるドイルにとって、それは、どれほどの思いと覚悟を込めた計画か、想像に難くはありません。

 そして、この“誘拐”劇に関わった、(たくさんの不幸な子どもたちを見てきた)ドイルの仲間たちもまた、たった一人でもいいから救いたい、不幸の連鎖を断ち切りたい、という気持ちが、どれほど強いものだったのかも伝わってきます。

 

 子どもは、たとえ愛情に欠けていても、実の親とともにいる方がいいのか、それとも、愛情さえあるのなら、法を犯してでも、他人のもとで育つ方がいいのか、大変難しい問いですが、ここでキーワードとなっているのが、「愛情」です。

 

 そもそも、愛情とは、いったい何でしょうか。

 

 たとえば、私たちの脳の中では、他者との間に親密さを感じるとき、“オキシトシン”という快感物質が分泌されることがわかっています。

 人間は、見知らぬ他人に対する原始的恐怖をもっているのですが、防衛や警戒心を解いて、相手に近づき、交流をもつために、どうしても必要とされる物質です。

 

 では、この“オキシトシン”は、出れば出るほどいいのかというと、決してそうではありません。

 

 オキシトシンが分泌されすぎると、今度は、自分なのか、他人なのか、適切な距離感が保てなくなり、相手が自分の思いどおりにならないと怒りを感じ、支配的になってしまうのです。

 たとえば、それが「親」ならば、「ありのままの自分を受け入れてくれ」、「(おまえともあろうものが)どうして自分をわかってくれないのか」と、子どもに甘える親になってしまう、ということです。

 

 つまり、“愛”とは諸刃の剣であり、行き過ぎた「愛情」は、「虐待」になってしまうのです。

 

 その意味でも、過保護・過干渉は、立派な虐待なのですが、外から見れば、「愛情深い親」、「仲の良い親子」に見えますし、子どもにとっても、暴力をふるわれたり、放任されたりしているわけではないので、見極めが難しいためか、虐待として明確に定義されていないのです。

 

 人間が人間に注ぐ愛情は、“不足”か、さもなくば“過剰”になりがちで、“適量”は至難の業、あるいは、不可能、といってもいいのかもしれません。

 

 

 映画終盤、ドイルとともにいて、幸せそうなアマンダを見ると、きっと誰もが、ああ、この子が幸せに育ってくれたらいいのに、と、思うことでしょう。

 私たちは、「愛」、という言葉に、条件反射的に、「幸せ」を思い浮かべるのだと思います。

 

 人間は、中途半端な予測こそできますが、実際には、運命のどんな手も、避けるすべをもっていません。

 だからこそ、「なるべく」「できるだけ」、という確率でもって、「幸せ」の光がさしていると感じる、明るい方へ、行こうとするのだろうと思います。

 

 

 けれども、現実の、人間の生活や日常がどうであるかを考えるにつけ、私は、茫然としてしまうのです。

 

 人間は、たとえ「幸せ」になったとしても、それだけでは満足できない生きものです。欲張りで気が多く、刹那的で、注意散漫、気が散りやすい生きものです。

 

 もっと「幸せ」になるにはどうしたらいいのか、あるいは、「幸せ」をなるべく長く持続させるためにはどうしたらいいのか、策を練りに練って、奔走しまくっているうちに、果たして目的は何だったか、すっかり忘れてしまうことさえあるのではないでしょうか。

 

 幸せになりたい、といいながら、実際、本当は何を求めているのか、本人ですらわからない人間全般を、どう考えればよいのでしょうか。

 

 

 この映画を見て、何となくものがなしい思いにとらわれて、問いかけられ、投げかけられた問いに、何一つ、答えが出せなかったのは、そのせいなのです。

 

 

                             《(4)へ つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏切られた青年のためのおとぎ話 「真実は井戸の底に」第13話

 

 「姫よ、いったいこれは、どういうことなのだ?」

 王は、やっと口を開いて、自分たちの娘であるはずの姫にたずねました。

 お后の方は、あまりのおそろしさにすっかり青ざめて、口もきけそうにありませんでした。

 

 本当の姫は、強く訴えかけるように、瞳を見開いて、話を続けました。


 「お父さま、お母さま。どうか、このわたくしを、よくご覧になってください。あなたがたの目に、わたくしは、どのような者と映るのでしょうか。自らの思いを、自ら知ろうとすればするほど、それはどんどん、はるか彼方へ遠ざかっていきます。そしてまた、それを真の言葉にして伝えようと、思えば思うほど、沈黙が多くなります。あなたがたに理解していただけるようにするためには、わたくしの努力が足りなかったのかもしれません。そうして、あなたがたとわたくしの距離は、知らぬうちに、どんどん離れていってしまったのかもしれません。けれども、この三年間、わたくしは、お父さまのことも、お母さまのことも、一日たりとも、忘れたことがございません。ふたたび相まみえる日を、夢にまで見ていたのでございます。どうか、あなたがたの娘を、よくご覧になってください。あなたがたの前にいる、このわたくしを。あなたがたの娘らしい、何ものをも、身にまとってはいない、このわたくしを。」


 王とお后は、その言葉に耳を傾け、家来たちもまた、静まりかえって、ことのなりゆきを見守っていました。

 

 ですが、王は、この話を聞いているうちに、もうずっとむかし、自分の中で掻き消した、何か、いやな感じのするものが思い出されるような気がして、不愉快になってしまったのです。


 「ええい、黙れ、黙れ!わけのわからぬことを言って、惑わす気だな。おまえは魔物か!」


 王の激しい言葉に、今度は、偽者の姫が、わっと泣き出しました。

 

 「ああ、お許しください、お父さま、お母さま。こうなる前に、きちんとお話しすべきでした。罪は、このわたくしにあります。」

 

 王は、偽物の姫に、優しく言いました。

 

 「姫よ、そんなに泣かずともよい。どうか、わけを話しておくれ。」


 すると、偽物の姫は、とうとうと、語りはじめました。


 「あの十五のときのお祭りの晩、わたくしは、あの者の言うように、ほんの少しだけ、にぎやかでめずらしい市場を見たくなり、お父さまとお母さまのおそばを離れてしまったのです。そのとき、おそろしいほどわたくしにそっくりな、あの者が近づいてきて、わたくしの大切な腕輪を盗み取りました。当然、わたくしは追いかけました。するとあの者は、わたくしが市場を見たがっている気持ちを察して、入れかわろうと言ってきたのです。ですが、わたくしはちゃんと知っていました。人ごみにまぎれて近寄ってくる、わが身に瓜二つの者とは、魔物であるということを。それで、わたくしは、ひとまずその話に乗ったふりをして、あの者のあとについて、森へ入りました。そこで、すきをついて、あの者を、森の古井戸に、突き落としてやったのでございます。すると、どうでしょう。魔物だけでなく、そのとき、わたしのからだをおおっていた、何か、黒くて重い、影のようなものも一緒に、煙のように高く立ちのぼっていき、井戸の中へと、消えていったのです。そのとたん、わたくしの心は、一気に、まるで晴れの空のように明るく、かろやかになりました。そこでわたくしは、あの魔物と一緒に、いつからか、わたくしの中の、陰鬱な何ものかが滅びてなくなったことを感じたのでございます。その日から、一点のくもりなく、わたくしの心はただ、お父さまやお母さまへの愛と、感謝の気持ちで、あふれんばかりになったのです。」


 王は、この話を聞いて、何かに大きく合点がいったようでした。


 「おお、そうか、そうであったか。姫よ、わたしは、いままで不思議に思っていたのだ。そなたが十五であった、あの祭りの夜から、突然、そなたが明るく、優しい、思いやりに満ちた、快活な娘に変わったことを。おお、そういうことであったのか………」


 「さようでございます、お父さま、お母さま。こんなことになる前に、もっと早くお話しすべきでした。ですから、お父さまのおっしゃるとおり、そこにいる者は、まことに、魔物に相違ございません。いまふたたび、お父さまやお母さま、それに、この国を惑わして滅ぼそうと、井戸の底からよみがえった、魔物に違いないのでございます。」

 

 王とお后は、いまや、自分たちにとってかけがえのない存在となった、偽者の姫の言葉を、すっかり信じてしまいました。その言葉が示す、利発さや優しさ、けなげさや愛情深さに心うたれ、ふたりは、信じたいものを、信じることにしたのでした。

 

 そうして、本当の姫は、即刻捕らえられ、明朝、日の出とともに、魔物として、処刑されることに決められてしまいました。

 

                            《第14話へ つづく》