それは、真っ青な空がまぶしい、夏の盛りの、ある暑い日のことでした。
一匹のセミが、森の奥深くにある、木の幹に止まりました。
セミは、なつかしげに、言いました。
「やあ、久しぶり。おぼえているかな、ぼくのこと」
木は、そのセミが、自分に向かって、まっしぐらに飛んできたときから、もうわかっていました。
「もちろんだよ、本当に久しぶりだね!元気だったかい?」
木は、もう何日も前、自分の根の深いところから、懸命に這い上がってきたセミが、羽化して飛び立った日のことを、思い出していました。
「それにしても、こんな森の奥深くまで、よくきてくれたね!」
木の言葉に、セミは一瞬、沈黙してから、応えました。
「ぼくの故郷は、きみだけだもの。…それはそうと、」
といいつつ、セミは、木の根もとを、きょろきょろと、何かを探すように、見まわしました。
「あの日、ぼくが這い出した穴、もうなくなってしまったの?」
木は、応えました。
「うん、そうだね。きみが羽化したのは、雨が降り続いたあとの、きれいに晴れた日だったけれど、それは、本当に幸運だったよ!晴れたのは、あの一日だけで、翌日からは、また、ずっと雨だった。それで、きみが這い出した穴は、すっかり埋まってしまったんだよ」
木が、セミに、どこかふつうでないようすを感じたのは、このときでした。
いいえ、本当は、もう何秒前、何分前、あるいは、ここへ向かって飛んできたときから、わかっていたのかもしれません。
けれども、木は、自分の根の下で育って、巣立っていったセミが、元気がないだなんて、思いたくなかったのでしょう。
木は、おそるおそる、セミにたずねました。
「…どうして、いまさら、そんなことをきくんだい?」
セミの、美しい透明な目は、心なしか、潤んでいるように見えました。
「…実は、ぼくは、ぼくはね、自分が這い出した、穴の中に、戻りたくて、ここまで飛んできたんだ」
「えぇ?」
木は、あまりにも、驚いてしまいました。
けれども、セミの方には、木のようすに気づく余裕など、ないようでした。
「あの日、羽化なんて、すべきじゃなかった。ぼくはずっと、穴の中で、一生を送るべきだったんだ」
セミのそんな言葉に、木は、すっかり動揺してしまい、なんとかして、セミをなぐさめようと、言いました。
「あの日、きみは、うんと苦労して、たくさんたくさん時間をかけて、それはそれは美しい羽を広げた。ぼくはそれを見て、本当に、ほっとしたんだよ。なぜって、それだけでも、たいしたことなんだから。ぼくの根もとからは、今までに、それこそ、数えきれないくらいのセミが這い出してきたけれど、無事、羽化できたのは、ほんの一握りだったんだよ」
「ほんの、一握り」
セミは、力なく、言いました。
「きみなら、知っているよね。たとえ、羽化できたって、思いを遂げられるのは、それこそ、一握りのやつだけだって」
落ちついて、ものを言うのが、セミにはもう、ここまでが限界のようでした。
何かがはじけ飛んだかのように、セミは、悲しみと怒りを、あらわにしました。
「ああ、ぼくは、ばかだ、なんてばかなんだろう!もとから、叶うはずのない恋をしてしまった!ぼくは、花に恋をしてしまったんだ」
セミの、あまりに激しいもの言いに、木もまた、とても正気ではいられませんでした。
それで、つい、言ってしまいました。
「どうして、そんな…」
「どうして、だって?…恋に、理由などあるものか。心を奪われたら、それっきりさ。あの子は、ひまわり、と言った。ひらひらした、黄金の花びらといったら!ぼくは、あんな美しいもの、ほかに見たことがなかった。それでぼくは、来る日も来る日も、彼女のところへ飛んでいった。そうして、できるだけ、彼女の負担にならないよう、そっと、彼女の首筋に止まって、きみが好きだ、大好きだって、うたい続けたんだ」
ここまで言って、セミは、重く、せつない、ため息を吐きました。
「…でも、彼女も、かなわぬ恋をしていたんだ。あの、まぶしくて、暑くて、目もくらむような、とてつもなく、大きなやつさ!彼女は、日がな一日、愛しい彼を、目で追い続けていたよ。あの憎たらしい、太陽ばかりを。ぼくは、彼女が笑った顔など、一度も見たことがなかった。太陽のやつ、彼女に、一瞥もくれないんだ。彼女は、悲しい顔で、いつも言うんだ。わかってるの、わかってるの、だって、私は、こんなにたくさん咲いているひまわりの、ただの一輪にすぎないのだもの。誰とも違わない、みんな同じ、風が吹けば、みんな一緒に、同じように揺れる、ただの一輪の、ひまわりなんだもの、って。ぼくは、言った。そんなことない、きみは、ほかの誰とも違う、ぼくは、きみほど美しい人、見たことがないって。でも、彼女は言うんだ。あなたには、わからない、わかりっこない、って」
木はもはや、セミに、なんと言葉をかけてよいか、わかりませんでした。
それで、できるだけ、優しく、こう言いました。
「…だけど、ねぇ、どうして今さら、穴の中に戻りたい、なんて言うんだい?…叶わなかったかもしれないけれど、きみはその、黄金にひかり輝く、美しい彼女に出逢えたじゃないか。もしきみが、世界へ飛んでいかなかったら、その彼女のことさえ、知ることができなかった。そうだろう?」
木の言葉に、セミは、強くかぶりを振りました。
「いいや!叶わないのなら、会わなければよかったんだ。こんなにこんなに、息もできないくらい、苦しい思いをするのなら!…ぼくだけじゃない。ぼくみたいなのじゃなくたって、ほかのやつらだって、声をからして、のどもとが裂けて血が出るほど、小さな心臓が、今しもはち切れてしまいそうなほど、愛しているよ!愛しているよ!愛しいきみ!どうかぼくをみてくれ、なんてうたっているけれど、ほとんどは、思いを遂げられず、死んでしまうんだ!」
「だけど、きみはたしかに、世界に愛されて、祝福されて、飛び立っていったんだよ!」
木は、たまらず、力づけるような調子で言いました。
けれどもセミは、やり場のない思いに、すっかりいらだっているようでした。
「ああ、そうだね!おぼえているよ!きみは、ぼくが飛び立つ日、そう言って、ぼくを送り出してくれたっけね。こんどは、きみが世界を愛する番だ、せいいっぱい、世界に愛を叫んでおいで、ってね!…だけど、いまはこう思うよ。きみって、まるで、自分が神さまか、なんかのように思っているんじゃないか、って」
木は、ぎょっとしました。
そうです。その木は、本当に、とても立派で、大きな木でした。
お陽さまに向かって、思いきり幹を伸ばし、枝葉を広げて、光をあび、雨を受けとめていると、本当に幸せな気持ちになって、まるで、自分こそが世界で、世界は自分そのもの、という気がしてくるのでした。
木は、ほんの少し、枝をたわませるようにして、言いました。
「それじゃあ、きみはもう、うたわないのかい?」
「うたうものか!」
セミの声は、まるで、何かを嘲笑するかのようでした。
「ぼくは、求愛をうたうことしか、知らないのだもの!ぼくのうたは、ぼくがいやでも、求愛にしか、ならないのだもの!」
セミは、そう言うと、重いからだを、羽にゆだねて、さらに森の奥深くへと、飛び去っていってしまいました。
やがて、秋が深まり、木枯らしが吹いて、色づいた葉が落ちていくごとに、木は、いつもよりも少し、不安とこわさを感じました。
もしかしたら、自分は、あのセミのことを、忘れてしまうのではないだろうか。
あのセミの、嘆きと苦しみを、いずれくる眠りの中で、すっかり忘れてしまうのではないだろうか。
そうしてまた、自分の根もとから飛び立ついのちに、同じように、きれいな言葉を投げかけてしまうのではないのだろうか、と思ったのです。
けれども、新しい、初々しいいのちを、その輝きを、何倍にも勇気づけ、力づけて送り出さずにはいられない、自分の性分が、きっとまた、同じような言葉を吐かせてしまうに違いないことも、よくわかっていたのです。
やがて、ちらちらと、小さな虫のような、粉雪が舞い始めました。
白い雪は、何もかもを消し去り、埋めていきます。
木は、眠りにつく最後の瞬間、自分で自分を、生きながら埋葬しに戻ってきたセミの、とても澄んで、美しく悲しげな目を思い出し、夢の中へ、落ちていきました。
あたりはしんとして、もう、動くものは、何もありませんでした。
《おわり》