他人の星

déraciné

わたしは何からできているのか?―映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(3)

 

「愛情」って何?

 

 どうしても、避けることのできない問いだと思います。

 

 なぜなら、この映画は、母親のへリーンから、4歳の少女アマンダを救出し、愛情をもって育てようとした警部ドイルによって、話の本筋が動いているからです。

 

 自分の娘を殺された過去のあるドイルにとって、それは、どれほどの思いと覚悟を込めた計画か、想像に難くはありません。

 そして、この“誘拐”劇に関わった、(たくさんの不幸な子どもたちを見てきた)ドイルの仲間たちもまた、たった一人でもいいから救いたい、不幸の連鎖を断ち切りたい、という気持ちが、どれほど強いものだったのかも伝わってきます。

 

 子どもは、たとえ愛情に欠けていても、実の親とともにいる方がいいのか、それとも、愛情さえあるのなら、法を犯してでも、他人のもとで育つ方がいいのか、大変難しい問いですが、ここでキーワードとなっているのが、「愛情」です。

 

 そもそも、愛情とは、いったい何でしょうか。

 

 たとえば、私たちの脳の中では、他者との間に親密さを感じるとき、“オキシトシン”という快感物質が分泌されることがわかっています。

 人間は、見知らぬ他人に対する原始的恐怖をもっているのですが、防衛や警戒心を解いて、相手に近づき、交流をもつために、どうしても必要とされる物質です。

 

 では、この“オキシトシン”は、出れば出るほどいいのかというと、決してそうではありません。

 

 オキシトシンが分泌されすぎると、今度は、自分なのか、他人なのか、適切な距離感が保てなくなり、相手が自分の思いどおりにならないと怒りを感じ、支配的になってしまうのです。

 たとえば、それが「親」ならば、「ありのままの自分を受け入れてくれ」、「(おまえともあろうものが)どうして自分をわかってくれないのか」と、子どもに甘える親になってしまう、ということです。

 

 つまり、“愛”とは諸刃の剣であり、行き過ぎた「愛情」は、「虐待」になってしまうのです。

 

 その意味でも、過保護・過干渉は、立派な虐待なのですが、外から見れば、「愛情深い親」、「仲の良い親子」に見えますし、子どもにとっても、暴力をふるわれたり、放任されたりしているわけではないので、見極めが難しいためか、虐待として明確に定義されていないのです。

 

 人間が人間に注ぐ愛情は、“不足”か、さもなくば“過剰”になりがちで、“適量”は至難の業、あるいは、不可能、といってもいいのかもしれません。

 

 

 映画終盤、ドイルとともにいて、幸せそうなアマンダを見ると、きっと誰もが、ああ、この子が幸せに育ってくれたらいいのに、と、思うことでしょう。

 私たちは、「愛」、という言葉に、条件反射的に、「幸せ」を思い浮かべるのだと思います。

 

 人間は、中途半端な予測こそできますが、実際には、運命のどんな手も、避けるすべをもっていません。

 だからこそ、「なるべく」「できるだけ」、という確率でもって、「幸せ」の光がさしていると感じる、明るい方へ、行こうとするのだろうと思います。

 

 

 けれども、現実の、人間の生活や日常がどうであるかを考えるにつけ、私は、茫然としてしまうのです。

 

 人間は、たとえ「幸せ」になったとしても、それだけでは満足できない生きものです。欲張りで気が多く、刹那的で、注意散漫、気が散りやすい生きものです。

 

 もっと「幸せ」になるにはどうしたらいいのか、あるいは、「幸せ」をなるべく長く持続させるためにはどうしたらいいのか、策を練りに練って、奔走しまくっているうちに、果たして目的は何だったか、すっかり忘れてしまうことさえあるのではないでしょうか。

 

 幸せになりたい、といいながら、実際、本当は何を求めているのか、本人ですらわからない人間全般を、どう考えればよいのでしょうか。

 

 

 この映画を見て、何となくものがなしい思いにとらわれて、問いかけられ、投げかけられた問いに、何一つ、答えが出せなかったのは、そのせいなのです。

 

 

                             《(4)へ つづく》