「姉さん。
信じて下さい。
僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。快楽のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。
姉さん。
いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。」
―太宰治『斜陽』より
人生は、そのほとんどの時間が、退屈である、と思う。
人生とは、お迎えが来るまでの、暇つぶし、時間つぶしである。
しかし、太宰のように、「つまらなくなってしまった活動写真」を最後まで見るのに耐えかねて、非常口から、途中退出してしまうこともある。
退屈をまぎらわそうと、人は、いろいろなことをやってみる。
たとえば、趣味などが、そのいい例だろう。
つまらないから、走ってみる。
つまらないから、山に登ってみる。
つまらないから、旅行してみる。
つまらないから、本を読んでみる。
つまらないから、音楽を聴いてみる。
つまらないから、何かをつくってみる。
あるいは……
つまらないから、寝てしまう。
数限りなくある、“退屈のまぎらわし方”には、ある意味、その人らしさがいちばん出ていたりするのかもしれない。
いくら退屈だからといって、~をするのはいやだ。~なら、いいかも……。
と、私たちは、知らず知らずのうちに、退屈のまぎらわし方について、自分にもっとも合うものを選んでいる。
「~をしていると楽しい」、というのは、「~をしていると、もっとも退屈を忘れられる」、と言い換えられるのかもしれない。
生きものは、動く。だから、動かなかったら、死体と同じ、という強迫観念がある人は、生きているあかしのように、身体の動く限り、活発に動き回ろうとするだろう。
動かなくても、死体みたいでも、別に気にならない、という人は、脳をデフォルト・モードにセットしたまま、一日、何もしないでぼうっとしていることに、たいしておそれを感じないだろう。
(私もそのひとりだが、私の場合、活発に動き回ったら、深海魚が突然海の上に引き上げられたときのように、内臓が口から出てしまいそうで、逆にこわい)。
“退屈”、というのはつまり、いま続いている日常が、おそらくは、同じような刺激強度でもって、延々と続いていくのだろう、という漠然とした予測に基づいて出てくる感情である。
だから、本当は、とても有り難いことなのだが、その退屈を断ち切ってしまうような、急激で大きな変化、たとえば、大災害などに遭遇するまでは、なかなかわからない。
(それでも、熱さ喉もと過ぎれば何とやら、で、時間が経てば、懲りずにまた退屈しはじめるが)。
人という生きものは、ある程度先のことは想像がついても、じゃあそのときどうしよう?どうなるだろう?などと、実感をもって考えることができない。
いちいち、そんな起こるか起こらないかわからないようなことで、おびえたり、恐怖を感じていたりしたら、いまの生活さえおぼつかなくなってしまうからだ。
そんなわけで、人間は、退屈する。
本作、『バーニング』の原作、というのか、題材になっているのは村上春樹の『納屋を焼く』だそうだ。
私は、一度読んだが、内容を忘れてしまったし、それ以外の村上春樹作品や、映画に出てくる小説家についても、知識はまったくない。
だから、ほとんど予備知識なしで、本作を観たといえる。
物語の中心になる人物は三人いる。
一人は、暴行罪で捕まった父の代わりに牛の世話をしながら、小説家になることを夢見て、日々、自分にできることをしている、真面目な青年のジョンス。
もう一人は、ジョンスの幼なじみで、彼が思いを寄せているヘミ。
そして、そのヘミが、アフリカへ旅行に行ったときに知り合ったという、裕福な男性ベン。
ジョンスは、決して楽な生活を送ることができる身分ではなく、いつか小説家になるという夢が、彼を未来へつないでいる。
ヘミは、ふらふらしているようでいて、生きる意味や、自分の身のまわりで起こることに対して、ときに心を閉ざし、ときに心を開き、呼吸しつつ、その意味を味わう自由を愛している。
裕福で、働く必要もなく、高級車を乗り回すベンは、人生にすっかりうんざりし、“退屈している”。
彼は、なぜそんなにも退屈しているのか?
映画に描かれてはいないので、あくまでも仮定の話になる。
“素敵におしゃれで美しい”生活を営み、しばしば、自分と境遇や身分のつり合う仲間と集まったりしているが、おそらく彼は、満足していなかった。
そうして、たまたまアフリカ旅行中に知り合った、自分とは、境遇も身分も、価値観も違うヘミが新鮮に見えて、最初のうちこそ、“面白い”と思ったのかもしれない。
ジョンス、ヘミ、ベン、三人で“グラス”(大麻)をやりながら、ベンは、ジョンスに自分の趣味を打ち明ける。
定期的に、古くて(誰かにとっては必要でも)、彼の目から見て不必要で、“自分に燃やされるのを待っている”と見えるビニールハウスを燃やしている、と。
つまり、一見して、何の不自由もなく、不安もなく暮らしているベンは、自分の退屈を、存在価値がないビニールハウスに投影している、とみることもできるだろう。
退屈がっているのは、自分ではなくて、あの古くて汚い不必要なビニールハウスだ、と。
“一文無し”で、家族との関係も希薄で、人とのつながりをもっていないヘミこそが、退屈なビニールハウスであり、ベンが殺すのにも、好都合な対象だったのだろう。
いらない汚いビニールハウスを燃やしたところで、誰も、騒ぎ立てはしない。
だからこそ、“バレる心配もない”。
もう何十年も前のことになるが、ある学校でいじめがあり、被害者がいじめられたことを苦に自殺した翌日、加害者の少年は、誰か代わりに自分を楽しませてくれるやつはいないか、と言った、という。
衝撃的だった。
退屈、というものは、それほどきびしく、おそろしいものなのだ。
ベンは、左胸のあたりをたたきながら、ジョンスに言った。
ビニールハウスが燃え上がるのをみると、ここに、ベースの音を感じるんだ、と。
ヘミが、アフリカのサン族の、リトルハンガーと、グレートハンガーの踊りについて話す、その内容が、象徴的である。
もし、ただお腹がすいているだけの、“リトルハンガー”なら、答えは明白で、食べ物を食べればいい。
しかし、“グレートハンガー”、つまり、生きる意味に飢えているものは、いったい何を食べれば満たされるのか?
ベンの退屈ぶりは、もはや、末期症状である。
退屈で不必要なビニールハウスに見立てて人を殺すときにだけ、生きている意味を身体で感じるのだから。
そしてラスト、ヘミを殺したベンを、ジョンスが刺し、ベンの車ごと、火を放つ。
ジョンスがベンにとどめを刺した瞬間、ベンは、ジョンスを強くかき抱く。
そして、心なしか、映画のどの場面よりも、生き生きとした表情になったように見えた。
“自分に燃やされるのを待っている”ビニールハウス=人を殺す、と同時に、実は、ベンこそが、“誰かに燃やされることを待っていた”ビニールハウス、そのものだったのではないのだろうか。