他人の星

déraciné

Sentimental journey

 

 

        人生は 旅 だと いう

 

        旅は いつも

        ものがなしくて さびしい

 

        行けば 帰らねば ならず

        かならず 終わりが おとずれる

 

 

        青空 さえ のぞけば

        真昼の 白い 月が

        どこまでも ついてくる

 

        ほんの一時 何もかも 忘れ

        はしゃいでも

 

        ふと 気づけば

        あの月が わたしを 見ている

 

        わたしは ほんとうは

        どの景色のなかにも いないのだ と

 

        ああ わかっていたよ そんな ことは

        とっくに ね

 

 

        高い 空を めざして 飛ぶ

        イカロスの ように

        己れの 翼を 溶かす 太陽が こわい と

        怯えながら そびえる 高層ビルの群れ

 

        くらくらと めまいを 感じる

 

        むかし

        スクラップブックに 貼り付けて

        ずっと 忘れていた 紙の かたまりが

        突如として

        ぬっと 現れ出た ような

        グロテスク 

 

 

        何かを 思い出すことは

        どんな 現実よりも

        生々しくて 痛い

 

        終わりのない はじまりを

        現在進行形の 思い出を

        いつまでも いつまでも 生きていたくて

 

        旅寝の 枕に

        落とす 涙

 

 

        自分の 足音を ききながら 考える

 

        いったい 今まで どれほど 嘘を ついたのか

        したい と したくない の あいだ

        葛藤を 瞬間冷却して

 

        たしかに 分岐していた道を 

        その道しか なかったかのように 

 

        何のために ここまで 来たのか

        何も わからず 帰途につく

 

        暗いトンネル

        いくつも 越えて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクイエム

 

 

        生きること は 世界 への

        誰か

        たった ひとり への

        絶望的な 片想いに 似て

 

        眠れば 重い なまり色の 夢を見て

        起きれば 虚しい 灰色の 朝を見る

 

 

        きらきら 光る 水面 すれすれに

        あなたは まっすぐ 飛んでいく

        水は 喜び しぶきを あげて

        うたい おどる

 

        わたしは 急いで あなたを 追う

 

        かなしみを かなしみで ぬぐい

        憎しみを 憎しみで ぬぐい

        愛を 愛で ぬぐえども

 

        この手は あなたに とどかない

 

        胸を刺す 氷の かけら

        その 鋭い 痛みに

        わたしには はじめから

        翼など なかったことを

        思い出す

 

        どんなに 声を からして 叫んでも

        どんなに あなたの 名を 呼んでも

        

        あなたの 耳には 決して とどかない

 

        わたしは 水の 反映 ですら なく

        ただの ゆめ まぼろし だった と

 

 

        たった ひとりの 凍てつく 夜に

        薄笑いを浮かべる 下弦の月

 

        せめて

 

        この 亡きがらの 胸に

        青い ガラスの 花束を

        愛 の かわりに

        抱きしめ させて 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『バーニング』

 

 

 「姉さん。

 信じて下さい。

 僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。快楽のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。

 姉さん。

 いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。」

 

                          ―太宰治『斜陽』より

 

 

 

 人生は、そのほとんどの時間が、退屈である、と思う。

 

 人生とは、お迎えが来るまでの、暇つぶし、時間つぶしである。

 しかし、太宰のように、「つまらなくなってしまった活動写真」を最後まで見るのに耐えかねて、非常口から、途中退出してしまうこともある。

 

 

 退屈をまぎらわそうと、人は、いろいろなことをやってみる。

 

 たとえば、趣味などが、そのいい例だろう。

 

 つまらないから、走ってみる。

 つまらないから、山に登ってみる。

 つまらないから、旅行してみる。

 つまらないから、本を読んでみる。

 つまらないから、音楽を聴いてみる。

 つまらないから、何かをつくってみる。

 

 あるいは……

 つまらないから、寝てしまう。

 

 数限りなくある、“退屈のまぎらわし方”には、ある意味、その人らしさがいちばん出ていたりするのかもしれない。

 

 いくら退屈だからといって、~をするのはいやだ。~なら、いいかも……。

 と、私たちは、知らず知らずのうちに、退屈のまぎらわし方について、自分にもっとも合うものを選んでいる。

 

 「~をしていると楽しい」、というのは、「~をしていると、もっとも退屈を忘れられる」、と言い換えられるのかもしれない。

 

 

 生きものは、動く。だから、動かなかったら、死体と同じ、という強迫観念がある人は、生きているあかしのように、身体の動く限り、活発に動き回ろうとするだろう。

 

 動かなくても、死体みたいでも、別に気にならない、という人は、脳をデフォルト・モードにセットしたまま、一日、何もしないでぼうっとしていることに、たいしておそれを感じないだろう。

 (私もそのひとりだが、私の場合、活発に動き回ったら、深海魚が突然海の上に引き上げられたときのように、内臓が口から出てしまいそうで、逆にこわい)。

 

 

 “退屈”、というのはつまり、いま続いている日常が、おそらくは、同じような刺激強度でもって、延々と続いていくのだろう、という漠然とした予測に基づいて出てくる感情である。

 

 だから、本当は、とても有り難いことなのだが、その退屈を断ち切ってしまうような、急激で大きな変化、たとえば、大災害などに遭遇するまでは、なかなかわからない。

(それでも、熱さ喉もと過ぎれば何とやら、で、時間が経てば、懲りずにまた退屈しはじめるが)。

 

 

 人という生きものは、ある程度先のことは想像がついても、じゃあそのときどうしよう?どうなるだろう?などと、実感をもって考えることができない。

 

 いちいち、そんな起こるか起こらないかわからないようなことで、おびえたり、恐怖を感じていたりしたら、いまの生活さえおぼつかなくなってしまうからだ。

 

 そんなわけで、人間は、退屈する。

 

 

 本作、『バーニング』の原作、というのか、題材になっているのは村上春樹の『納屋を焼く』だそうだ。

 私は、一度読んだが、内容を忘れてしまったし、それ以外の村上春樹作品や、映画に出てくる小説家についても、知識はまったくない。

 だから、ほとんど予備知識なしで、本作を観たといえる。

 

 

 物語の中心になる人物は三人いる。

 一人は、暴行罪で捕まった父の代わりに牛の世話をしながら、小説家になることを夢見て、日々、自分にできることをしている、真面目な青年のジョンス。

 もう一人は、ジョンスの幼なじみで、彼が思いを寄せているヘミ。

 そして、そのヘミが、アフリカへ旅行に行ったときに知り合ったという、裕福な男性ベン。

 

 

 ジョンスは、決して楽な生活を送ることができる身分ではなく、いつか小説家になるという夢が、彼を未来へつないでいる。

 

 ヘミは、ふらふらしているようでいて、生きる意味や、自分の身のまわりで起こることに対して、ときに心を閉ざし、ときに心を開き、呼吸しつつ、その意味を味わう自由を愛している。

 

 裕福で、働く必要もなく、高級車を乗り回すベンは、人生にすっかりうんざりし、“退屈している”。

 

 彼は、なぜそんなにも退屈しているのか?

 映画に描かれてはいないので、あくまでも仮定の話になる。

 

 “素敵におしゃれで美しい”生活を営み、しばしば、自分と境遇や身分のつり合う仲間と集まったりしているが、おそらく彼は、満足していなかった。

 そうして、たまたまアフリカ旅行中に知り合った、自分とは、境遇も身分も、価値観も違うヘミが新鮮に見えて、最初のうちこそ、“面白い”と思ったのかもしれない。

 

 ジョンス、ヘミ、ベン、三人で“グラス”(大麻)をやりながら、ベンは、ジョンスに自分の趣味を打ち明ける。

 定期的に、古くて(誰かにとっては必要でも)、彼の目から見て不必要で、“自分に燃やされるのを待っている”と見えるビニールハウスを燃やしている、と。

 

 つまり、一見して、何の不自由もなく、不安もなく暮らしているベンは、自分の退屈を、存在価値がないビニールハウスに投影している、とみることもできるだろう。

 

 退屈がっているのは、自分ではなくて、あの古くて汚い不必要なビニールハウスだ、と。

 

 “一文無し”で、家族との関係も希薄で、人とのつながりをもっていないヘミこそが、退屈なビニールハウスであり、ベンが殺すのにも、好都合な対象だったのだろう。

 いらない汚いビニールハウスを燃やしたところで、誰も、騒ぎ立てはしない。

 だからこそ、“バレる心配もない”。

 

 

 もう何十年も前のことになるが、ある学校でいじめがあり、被害者がいじめられたことを苦に自殺した翌日、加害者の少年は、誰か代わりに自分を楽しませてくれるやつはいないか、と言った、という。

 

 衝撃的だった。

 

 退屈、というものは、それほどきびしく、おそろしいものなのだ。

 

 

 ベンは、左胸のあたりをたたきながら、ジョンスに言った。

 ビニールハウスが燃え上がるのをみると、ここに、ベースの音を感じるんだ、と。

 

 ヘミが、アフリカのサン族の、リトルハンガーと、グレートハンガーの踊りについて話す、その内容が、象徴的である。

 

 もし、ただお腹がすいているだけの、“リトルハンガー”なら、答えは明白で、食べ物を食べればいい。

 

 しかし、“グレートハンガー”、つまり、生きる意味に飢えているものは、いったい何を食べれば満たされるのか?

 

 ベンの退屈ぶりは、もはや、末期症状である。

 退屈で不必要なビニールハウスに見立てて人を殺すときにだけ、生きている意味を身体で感じるのだから。

 

 

 そしてラスト、ヘミを殺したベンを、ジョンスが刺し、ベンの車ごと、火を放つ。

 

 ジョンスがベンにとどめを刺した瞬間、ベンは、ジョンスを強くかき抱く。

 そして、心なしか、映画のどの場面よりも、生き生きとした表情になったように見えた。

 

 

 “自分に燃やされるのを待っている”ビニールハウス=人を殺す、と同時に、実は、ベンこそが、“誰かに燃やされることを待っていた”ビニールハウス、そのものだったのではないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

graduate

 

 

       「これから スタバで

       ゆずシトラスティー 飲むの」 と

       彼女たちは 言った

 

       その 言葉の 響きに

       青くて 鮮烈で さわやかな 香りがした

 

       降っても 晴れても

       同じ教室で すごした 日々が

       彼女たち ふたりを 包みこみ 

 

       いまは 夕暮れどき

 

       もうすぐ ここを 去っていく 時間だね

 

 

       光と 風に 送られて

       やがて 飛び立つ 教室の扉を

 

       彼女たちは 右へ

       わたしは 左へ

       分かれて 歩く

 

       おそらく 二度と 会うことはないだろう

       その 背中を

       長い 長い 廊下の曲がり角で

       思わず 振り返る

 

       彼女たちは 一度も 振り返らず 行った

 

       ものたりない ような

       なごりおしい ような

       かなしい ような

       せつない ような

 

       胸のなかで 木枯らしのように

       うずをまく 気持ちに

 

       ああ わたしの方が 幾分

       さびしがり だったんだな と

 

       誰も いなくなって 静まりかえった

       長い廊下の はるか先を 思う

 

 

       これから 彼女たちが 飲むという

       “ゆずシトラスティー” は

 

       甘酸っぱくて すがすがしくて

       それに

       柑橘系 特有の

       ほんのり 残る 苦みも あるの だろうか

 

       幸せ とか

       人生 とか

       愛 とか

       そういうもの みたいに 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        「キョッ キョッ」

        という音に 

 

        いったい なぜ どうして いま と

        おどろいて

        声の主を  探した

 

        その 数秒後 には

        勘違いだ と 気づいて

        ああ 馬鹿だな と思う

 

        この 音は

        車の アンサーバック

 

        なのに わたし は 

        昼間 なのに ヨタカが 鳴いている と

        あたりを みまわし

        その 姿を 探した

 

        自分は ひとさまに 見せられるほど

        美しくない から と

        遠慮 して

        闇に まぎれてしか あらわれない

 

        ヨタカの 鳴き声 と

        聞き間違え なんて

        どうして してしまったか

 

        情けなく なって

        かなしく なった

 

        鳴きながら 泣いて

        泣きながら 鳴いている

 

        あの 鳥の

 

        いじらしくて 愛らしい 気持ちを

 

        踏みにじってしまった 気が して

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『シークレット・サンシャイン』(2)

 

 

 私たちは、幸福を求める。

 この世に生まれた以上は、幸福に生きたいと願う。

 しかし、実際には、フロイトが言うように、「不幸を経験する方が、はるかにたやすい」。

 

 フロイトによれば、私たちを、幸福から遠ざけるものは、自分の身体、外界、他者との関係の三つである。

 

 それは、仏陀の教えによる、「四苦八苦」と重なる。

 

 生老病死に加えて、愛別離苦(愛する者と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(憎む者に会わなければならない苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(人間の肉体や心から生じる苦しみ)で、八苦となる。

 

 

 要するに、自分の身体と心をもって、生まれてはみたものの、ほとんどのことは、思いどおりにならず、自分の身体ですら、いつどうなるとも知れず、心は、「苦しむな」といっても、もとから苦しむようにできている。

 

 なぜなら、「苦しみ」は、自らが危険にさらされている、という警報の役割を果たしており、警報が鳴らなければ、もっと危険だからである。

 

 

 

幸福になれる三つの道

 

 では、私たちが、幸福になる方法はないのか?

 

 答えは、「ある」。

 

 たとえば、岡田尊司氏によれば、脳内の作用によって、私たちが幸福を感じる仕組みは、三つある。

 一つは、美味しいものを食べて食欲を満たしたり、性的興奮によって放出される、脳内麻薬エンドルフィン、二つめは、困難な目標を、努力によって達成した瞬間に放出される、報酬系物質ドーパミン、三つめは、愛する者と一緒にいたり、ふれ合ったりするときに放出される、愛着と安らぎのホルモン、オキシトシンである。

 

 

 フロイトもまた、人生という、このあまりにも惨めな旅路を、いくらかでもマシにしてくれるものを、三つあげている。

 一つは、「自分たちの惨めさを耐えられるものにする強力な気晴らし」、二つめは、「惨めさを軽減してくれる代償的な満足」、三つめは、「惨めさを感じなくさせてくれる麻薬」である。

 強力な気晴らし、というのは、うさ晴らしの酒や薬物、代償満足とは、仕事や創作活動に没頭すること、そして、三つめの麻薬とは、宗教である。

 

 宗教について、フロイトは、こんなふうに説明している。

 

 「しかしもっと良い方法がある。この世界を改造してしまえばいいのだ。………そして現実の世界の耐えがたいところを」「多数の人々が力を合わせて」、「願望の形成によって訂正し、この狂気を現実に持ち込」んでしまえばいいのである。

 

 つまり、宗教は、人間の精神の働きを麻痺させる麻薬と同じであり、集団妄想の一つだという。

 

 

 夏目漱石もまた、幸福へ至る道として、三つの可能性をあげている。

 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入(い)るか」、である。

 

 死は、究極の逃避逃走であり、だからこそ、人は、苦痛に満ちた生の何もかもを終わらせたくなったとき、自分の命を、死に吸いとらせる。

 

 あるいは、「気が違って」正気を失い、意識の座のすべてを、無意識に譲り渡してしまえば、あとには、恍惚たる幸福が残るのかもしれない。

 

 そして、宗教もまた、同様である。

 絶対的な善であり、正義であると信じる何ものかに、自分をまるごと明け渡し、大きな機械の一部のようになって、安堵を得る。

 

 機械の一部になる、ということは、自らもまた機械になるのだから、迷ったり悩んだりする必要はなくなり、現実に対して、型どおりに対処していけばよい、ということになる。

 

 

 

人生に必要なのは“鎮痛剤”

 

 フロイトが言っているように、人生を担うには、どうしても、何らかの鎮痛剤が必要だ。

 

 人生という、大手術に、鎮痛剤なしで臨める者がいるだろうか?

 

 窮屈な文明社会に適応して生きていくために、私たちは、自分をある程度改造しなければならない。

 

 長すぎたり、形が不適合な部分は切り落とし、短すぎたり、足りない部分には付け足して、実際、私たちの(表向きの)心というものには、あちこちに、痛々しい、手術痕が残っているではないか………。

 

 

 そうして、私たちは、いつでも、日常的に、現実逃避している。

 

 むしろ、「いま、ここ」、という現実世界に、ずっととどまり続けている人は、どこにもいない。

 

 スマホをのぞき込んでいる人、居眠りをしている人は、はっきりと目に見えて、「いま、ここ」にいないし、一見して、何もしていない人でも、頭の中では、昨日や、もっと遠い過去のこと、近い未来や、遠い未来、思い出、些細なできごと、悩みや気がかりなこと、あるいは、“死”について考えているかもしれない。

 

 仕事をしていたって、その仕事に慣れているのであれば、何か別なことを考えたり、想像したり、思い出したりしているはずだ。

 

 そんなふうに、人は、いつでも、ごく気軽に、タイムマシンに乗って、あちらこちらへと、ふらふら彷徨っている。

 

 

 「いま、ここ」へ、戻って来るのは、自分の中で、危険を知らせる警報が鳴ったときだ。

 

 そう。緊迫感や切迫感、痛みや苦しみが、意識を呼びさますほど、強いとき、なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『シークレット・サンシャイン』(1)

 

 

 もう何十年も前のことである。

 

 高校時代、私は、同級生から誘われ(けっこう強引に)、日曜日に、老人ホームへボランティアに行くのにつき合った(けっこう頻繁に)。

 

 そのたびごと、翌月曜日には、彼女は元気で学校へ行けても、私は、ホームを満たすクレゾールのにおいと、気疲れとにすっかりやられて、具合が悪くて起き上がれず、学校を休むしかなかった。

 

 そんなことを繰り返すうちに、自分は、ボランティアのような、人と関わり合いをもって活動することに向いていないんだな、と自覚するに至った。

 

 

 けれども、ボランティアのような、社会奉仕活動に積極的なのは、何も彼女だけではなかった。

 もう一人、やはり高校の同級生で、数年ののちには洗礼を受けてクリスチャンになった彼女もそうだった。

 

 高校を卒業してからも、彼女とは時々会っていたが、そのとき、彼女から、ほんの数日前に母親を亡くし、ミサに来た男性の話を聞いた。

 そのとき、彼は、こんなふうに語ったらしい。

 

 「母は神の御許に召されたのだから、また会えますから、悲しくありません。」

 

 彼女の表情は、信仰の力の偉大さに、静かに感嘆しているようだった。

 

 けれども、私は、何だかこわくなった。

 

 母親が死んだ……?……死んでも悲しくないのは、母親のことをそんなに好きではなったからなのか……いや、そうではないらしい…… 好きではない人が亡くなったのならともかくも、好きな人に亡くなられたら、悲しいのがあたりまえではないのか………

 

 

 人生は、その半分、もしくは半分以上が、悲しみや怒りで満ちている、と思う。

 

 

 喜びや楽しさは、その場限りの打ち上げ花火のように、盛大に咲き誇るが、一瞬で消えていく。

 けれども、悲しみや怒りは、線香花火のように、じくじくと、内側に熱を溜め込んでぶるぶるとふるえ、小さくなって、静かに消えていくか、最後にぽとりと落ちて消える。

 

 まるで、人生の終わりまで、その感情とともにあり、その感情とともに死んでいくかのように……。

 

 ときには、それが、人生のいっさいを、津波のように襲い、押し流してしまうほどの破壊力をもつこともある。

 

 

 そんなとき、もし、神という絶対的な存在を信じ頼ることで慰めを得られるのなら、それはそれでいい、と思う。

 

 こんなことを言っている私も、いつの日か、絶対的なものにすがらなければどうにもならないような事態にみまわれ、すんなり信者に、なんていうことが、絶対ない、とはいえない。 

 

 けれども、少なくともいまの時点では、私は、神を信じていないし、信じる気もない。

 

 それは、神、という存在が、いるのかいないのか、ということではない。

 

 “神を信じる”、という信仰心によって、自分の心や精神の働きに、不可逆的な変化が起き、それが固定化してしまうことへの、おそろしさと嫌悪感があるのだ。

 

 人間の、あたりまえで、ごく自然な感情が失われてしまったとしたら。

 

 たとえば……

 

 自分、もしくは、自分の大切な人に、取り返しがつかないようなひどいことをした人がいても、神が「汝の敵を愛せ」と言っているのだからといって、「赦す」ことができるのか?

 

 私には、それは、人間であることを放棄するに等しいことではないのか、と思われてならないのである。

 

 

 

 

 『シークレット・サンシャイン』。

 それは、夫を亡くした主人公イ・シネが、幼い息子を連れて引っ越してきた、夫の故郷、密陽市に由来するタイトルのようだ。

 

 ピアノ教師をしつつ、息子とおだやかな日々を送りたくて、地域のコミュニティになじもうと、お酒ありの会合に出席して遅くなったある夜、大切な息子ジュンが誘拐され、殺されてしまう。

 

 夫を亡くした上、心のよりどころだった息子まで殺されたシネの悲しみは、彼女の心を容赦なく切り裂く。

 近所の人に誘われ、乗り気でないまま、キリスト教のミサに出席し、彼女は、神の救いに身を委ねることにする。

 

 そして、彼女が見出した一つの救いは、刑務所に収監されている、自分の息子を殺したパク・ドソブ(もとは息子の塾の教師)に面会し、“赦し”を伝えることだった。

 

 しかし、ここで、狂いが生じる。

 

 シネは、自分が犯した罪の重さに苦しんでいるであろうパクに“赦し”を与えることで、彼が、自分の面前で、滂沱の涙を流して感謝する姿を見たかったのだと思う。

 そうして、彼に恩を着せ、その一生を支配する、という方法で、復讐を遂げようとしていたのではないのだろうか……。

 

 ところが、息子を失ったシネが、胸かきむしるような激しい悲しみに苦しんでいた間にも、早くもパクは信仰をもち、神の赦しを得て、心の平安を取り戻していた。

 

 自分の大切な息子を殺した罪人を、なぜ、自分に断りもなく、神は赦したのか。

 なぜ、自分よりも早く、罪人が、心の平安を得たのか。

 

 シネは、神を敵とみなす。

 そして、空を仰ぎ、「あんたには負けない」、と、憎しみをこめて言い、大切な息子を殺された自分よりも、殺した加害者を先に救った神に、復讐を誓う。

 

 苦しみのあまり、彼女の暴走は止まらない。

 

 「愛など嘘」、と歌う曲を大音量で流してミサをめちゃくちゃにし、自分を信仰に誘った女性の夫を誘惑し、救いを得られず苦しむシネのために祈る会には、外から石を投げつけて、窓ガラスを割る。

 

 

 神を信じることで、生々しい感情にフタをして、自分をマヒさせること。

 それできっと楽になれる、という幻想が打ち砕かれ、今度は、神を憎むことが、皮肉にも、彼女の生きる支えになったのかもしれない。

 

 

 神への信仰と感謝に、酔ったように顔を紅潮させ、賛美歌を歌う彼女よりも、神をうらみ、信仰を憎み、自己破壊的行動へと疾走していく彼女の方が、ずっと人間らしく映る。

 

 その方が、ずっと、“正気の沙汰”、というものではないのだろうか……。