他人の星

déraciné

『葛城事件』(4) ※ネタバレあり

二人目の犠牲者、そして…………

 

 保の自殺によって、リミッターが外れたように、稔は、凶行に走ります。

 

 刃先の長いサバイバルナイフが、その手にしっかりと握られ、陽の光を受けて光るのを、稔は、自室のベッドの上で、じっとみつめます。

 そして、リュックを背負い、何気なく家を出ると、電車の駅の通路で、おもむろに(スマホか何かでも取り出すように)ナイフを取り出し、踊るように、次から次へと、人に斬りかかっていくのです。

 

 

 それからというもの、マスコミが家に押し寄せ、あれほど清の自尊心を満足させ続けた“城”の壁には、まるで関係のない人たちが、心ない言葉を落書きしていきます。

 一国一城の「王」たる清は、まるで小間使いのように、壁の落書きを消さなくてはならなくなります。

 妻・伸子は精神を病み、清は、以前の知り合い・友人だった仲間からも疎まれ、なじみだったスナックからも出入りを断られ、とうとう、家に一人きりになってしまうのです。

 

 

 なぜ、これほどまでに、清は、家族を追い詰め、追い詰められた家族が、次々に犠牲となり、結果的に、何の関係もない多数の人までも犠牲になってしまったのでしょう?

 

 世の中は、常に、強者の論理で動いていきます。

 家庭もまたしかりです。

 

 支え合い、助け合うことのできる家族などない、とは言いませんが、もっとも力をもった強い者(立場や、経済力など)が、その気になりさえすれば、家族は、王とその召使いのような、主従関係となり、しかも、その支配は、日常生活の中で、延々、ずっと続くのです。

 

 葛城家のように、当然の帰結として、犠牲者が出て崩壊する、ということでもない限りは。

 

 清は、まさか、自分が家族を追い詰めているとは、思いもしなかったことでしょう。

 それどころか、「家」、という立派な城まで建ててやり、そこへ住まわせ、何不自由なく暮らさせてやっているというのに、どうして、自分の愛に報いるように、家族が行動してくれないのか、不満でいっぱいだったことでしょう。

 だからこそ、この手の“愛情”は、タチが悪いのです。

 

 何もかもが壊れたあと、清は、「自分は犠牲者だ」と言います。

 

 もし、その言葉どおりだとするならば、清は、何の「犠牲」になったのでしょうか。

 

 個々人の性や攻撃性の問題、その他いろいろと、表に出されては都合の悪いものを封じ込めておく、本来そういうものであるところの“家族”イメージを、あたたかい愛情に満ちたもの、と信じ込ませている何ものか、の犠牲になったのでしょうか。

 

 犠牲者はやがて加害者となり、さらに犠牲者をどんどん生み出し、増やしていってしまうのかもしれません。

 

 

 「伸子」「保」「稔」

 家に一人きりになった清は、むなしく、家族の名を呼びます。当然、誰も返事をする者はいません。

 

 清は、そばにあった掃除機のコードを、息子たちの誕生の記念の木に結びつけ、首吊り自殺を図ろうとしますが、枝が折れて、どさりと地に落ちます。

 自殺さえできなかった清は、家に戻り、自分が荒らした部屋の中で、一人、そばをすするのです。

 

 人のやることなすことのほとんどは、喜劇でもなく、悲劇でもなく、両方入り混じった、実に中途半端な、滑稽なものでしかありません。

 それを受け入れて、生きていくことなど、できるのでしょうか。

 

 

 惜しむらくは、清役を演じた三浦友和さんの、人のよさがどうしても出てしまい、言葉ではなく、空気だけで人を押し、威圧するような、こわい、おそろしい父親になりきれていなかったところでしょうか。

 

 

                                《終わり》