他人の星

déraciné

「わたし」は何からできているのか?ー映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(2)

 

 母親の背後にあるもの

 

 それでは、なぜ、へリーンは、“ちゃんと”母親役割を果たすことができないでいるのでしょうか。

 

 たしかに、子どもを育てるということは、一大難事業であって、「自分」というよりは、自分の中の「親」役割を優先的に考えなければならない場面が多くあるのは確かだと思います。

 

 「欲求を我慢する」ということに関しては、たとえば、人と最も近いといわれるチンパンジーの実験などで、大きな報酬がひかえていることがわかると、苦もなく目の前の欲求を我慢できることがわかっています。

 少し離れた場所にあるエサを手に入れるためには、近くにあるものでどんな道具をつくり、それをどのように使えばよいのか、考えることができるというのもそういうことです。

 

 へリーンの場合は、どうでしょうか。

 

 へリーンとアマンダは、先々、何か大きな夢や望みのある生活とはほど遠い、経済的に貧しい暮らしをしています。

 憶測にすぎませんが、へリーンの、ドラックと酒に溺れる生活は、おそらく、現実逃避からはじまり、それが常習化することによって、依存症になり、抜け出ようにも、そのきっかけもサポートもない状態で、ずるずると続いてしまっているのではないかと思います。

 

 ドラッグや、アルコールに溺れる人を、「意志の弱い人」、「だらしない人」とみなし、そういうことをしているから、経済的困窮に陥ったのだろう、という見方は、今日でも根強いと感じます。

 

 ですが、それは、大きな間違いです。

 

 かつて、19世紀末のイギリスで、大規模な社会調査が行われたことがありました。

 その目的は、世界で最も早く産業革命を成し遂げたイギリスで深刻化する一方の貧困問題について、原因を明らかにし、根本的な解決策を探ることでした。

 貧困者の家庭では、アルコール依存や浪費の問題をもつことが多く、イギリス当局は、「貧困は、その人の努力が足りないせいだ」と考え(自己責任論ですね)、まるで見せしめか懲罰のような法律を設ける以外、何もしませんでした。

 

 しかし、社会調査の結果、実は、原因と考えられていたものは結果であり、結果と考えられていたものが原因だったということが、はっきりしたのです。

 つまり、アルコール依存や浪費が原因で貧困に陥るのではなく、非正規雇用と不安定収入によって、人間としての尊厳が奪われた結果、希望のない生活の中で、お酒や浪費にのめり込んでいく、という因果関係が明らかになったのです。

 

 彼ら、チャールズ・ブースと、シーボーム・ラウントリーの社会調査は、のちに、イギリスを、世界最初の福祉国家建設へと歩ませる原動力となりました。

 

 

 いつの時代にも、子どもが一番最初に犠牲を強いられることになるのは確かです。

 

 ですが、犠牲にされる子どもの背後には、犠牲にされた(むかしは子どもだった)親がいることを、忘れてはならないと思うのです。

 

 ただ、こうした問題は、社会的な要因が云々……、と指摘しただけでは終わらない、人間のもつ様々な感情や性質を含んでいると感じますので、もう少し続けて、考察を深めてみたいと思います。

 

                            《(3)へ つづく》