他人の星

déraciné

『LOVELESS ラブレス』(5)

 

 社会や世間にとって、安全かつ無害な人間をつくり出し、その“メンテナンス”を一手に請け負う家族。

 家族に自己責任と自助努力を強いる社会であればあるほどに、個々の家族の閉鎖性は高くなります。

 

 家族とは、家族構成員が反社会的行動や非社会的行動を取った場合、連帯責任を取らされる、ある種の「人質」のようなもので、だからこそ、家族とは、愛情と絆によって結ばれる素晴らしいもの、というイメージが強く打ち出されている、と書きました。

 

 人間が生きる上で発散する、ありとあらゆる欲求や衝動(性と生殖、感情、攻撃、肉体的精神的エネルギーなど)を外社会に出さないようにするため、西欧社会で制度化された「家族というユニット」が、現在の自立自助家族の起源となっています。

 

 家族構成員のメンテナンスを行うとは、つまりそういうことです。

 

 外社会で、「善良なる市民」の仮面をかぶり、表に出せない攻撃性や、(外社会で抱えたストレスでさえも)八つ当たりという形で家庭内で発散させても、それは社会の側からいえば「合法的処理」ですらあるのです。

 あるいは、家族構成員に、社会適応上何らかの問題や異常が起きた場合(あるいは、起きると予想される場合)、社会や世間に「迷惑」をかけることのないよう、“自爆”する機能も備えています。

 

 たとえば、障害をもつ子どもや、引きこもりなど社会不適応を抱えた子ども、介護疲れによる殺人や無理心中などは、世間の同情をかいやすいのに、子どもを「殺人者」として世に放ってしまった場合の、親や家族の責められようを考えれば、はっきりとわかるでしょう。

 

 「てめぇの始末は、てめぇでつけろ」、の「てめぇ」には、少なくとも、個人とその家族までが範囲として含まれるのです。

 

 実際、「殺人」や「傷害致死」では、ほぼ半数以上が家族親族間で起きています。(法務省「家庭内の重大犯罪に関する研究」)。

 (同報告では、カナダとアメリカの数字も紹介していますが、日本とは異なり、暴力や殺人などの重大犯罪が起きているのは、知人・友人間がもっとも多くなっています。世の中物騒になった、と言われがちですが、ことに日本の家庭内犯罪は平成12年以降急増しており、物騒なのは家庭の方、といえそうです。

 日本の家族はなぜこんなに物騒なのかといえば、反社会的行動を家庭という水際で食い止め、外に出さないという、社会から求められた家庭の機能が実にうまくはたらいているから、といってよいでしょう)。

 

 日本の家族は閉鎖的であり、家庭内犯罪もさぞかし多かろう、とは思っていましたが、正直、この数字には、私も驚きました。

 というのは、統計などで、数字として出てくるのは、検挙されるなどの形で表面化した、顕在的なものだけだからです。

 

 近年、児童虐待や、配偶者間暴力が社会問題として扱われるようにもなりましたが、事象や現象というものは、常に、“氷山の一角”です。

 実際には、少なく見ても、その10倍は、潜在的な「殺人」や「傷害致死」が、家庭内で起きているということになります。 

 

 たとえば、直接的殺害ではなくとも、家族に精神的に追いつめられて子どもが自殺したとか、殺人や大事に至らず通報されなかった傷害事件などは、除外されているわけです。

 

 また、日本で見過ごされているもっとも多い虐待は、「過保護過干渉」だと言われます。

 

 身体的虐待、養育放棄、性的虐待心理的虐待については、親から子への「目に見える」加害行為ですが、過保護過干渉については、他から見てむしろ「子どもを気遣い、可愛がる良い親」と見えてしまい、どのような被害がどの程度子どもに生じているか「目に見えない」ため、虐待に含まれていないのです。

 

 それが親の愛情によるものだと、親からも、まわりからも言われ、子ども自身もそう思い込むため、“愛情深い”親に逆らえず、自分を殺す息苦しさやつらさを感じつつも、自分が虐待の被害者だという自覚も生じにくいことでしょう。

 

 

 つまり、人が殺されるとしたら、その加害者は、他人ではなく家族であることが「ふつう」であって、あらゆるケースがそうではないとしても、家族が最大の敵であるということは、それほど珍しいことでも何でもない、ということです。

 

 その家族は、すでに、社会から疎外され、突き放された、陸の孤島です。

 その、「家族」という最後の孤島からも追放されたら、弱い個人は、いったいどこへいけばいいのでしょうか。

 

 どこで、自分のままで、気を休め、憩うことができるというのでしょうか。

 

 

 ボリスとジェーニャの子、アレクセイは、新しい恋人との性的満足と幸福感でいっぱいになっている父親からも、母親からも、「いらない」と言われてしまったのです。

 

 いなくなってしまったアレクセイを、ボリスとジェーニャは、互いにいがみ合い、こうなってしまったことの責任はおまえにあると責め合い、子ども捜しのボランティアの人たちだけが、プロとして、冷静に、アレクセイの行方を捜します。

 

 やがて、「プロ」の捜索も行き詰まり、ボリスとジェーニャは、自分たちの息子のように行方知れずになった少年の、無残な遺体を見せられ、それまでのプライドも強がりも、すべて、打ち崩されてしまいます。

 ボリスはおそろしさと嘆きのあまりうずくまり、ジェーニャの、「何があってもあの子を手放すつもりはなかった」、という言葉が、遺体が安置されている暗い部屋に、むなしく響きます。

 

 ジェーニャの、この言葉は、「本当の気持ち」なのでしょうか。

 

 ボリスの手前、「子どもなどいらない」と意地を張ったものの、本当はそうではなかったのでしょうか。

 あるいは、新しい恋人に打ち明けた、「自分の不幸な生い立ちによって子どもを愛せなくなった」という話と、無意識的につじつまを合わせるため、「子どもなどいらない」と言ったものの、本当はそうではなかった、ということなのでしょうか。

 

 よくはわかりません。

 

 ですが、私には、ジェーニャのこの叫びは、何よりも、自分の中に湧き出てきた強い罪悪感が言わせたもののように感じられたのです。

 

 いまここで、もしかしたらアレクセイだったかもしれない少年の遺体の前で、母親らしい言葉を何か強く叫ぶことで、少しでも、自分の罪を軽くしたい。

 「何があってもあの子を手放すつもりはなかった」、という言葉は、ジェーニャ自身の中にあった、「アレクセイの母親」役割が発した、「助けて」という、救いを求める声だったように思われたのです。

 

 

                             《(6)へ つづく》