他人の星

déraciné

映画『メランコリア』(3)

 

 

 ママとパパが おまえをだめにした

 そのつもりはなかったんだろうが そうなったのさ

 彼らは 自分たちの失敗を たっぷりおまえにつめこんだ

 おまえのためによかれと よけいなものまで追加して

 

 でも 彼らだって だめにされたんだ

 古くさい帽子と コートを着た愚か者にね

 しょっちゅう ひどく混乱しているか

 でなければ 互いの首を絞め合っているようなやつらにさ

 

 人は 人に 不幸を手渡す

 浅瀬の暗礁を 深くえぐるように

 なるべく早く 逃げ出すことだ

 そして おまえは 子どもをもつな

 

                 フィリップ・ラーキン『これも詩だ』

                                                                  Philip Larkin ‘This be the verse‘

 

 

 ※何とか訳してみました。大胆な意訳、あるいは誤訳、ご容赦ください……

 

 

 

“家族教”?

 

 前回、あらゆる広告やコマーシャルに、幸せの象徴として、仲睦まじい親子、家族の絆が象徴として多用されている、と書きました。

 

 それは、売りたい商品や企業のイメージアップのみならず、おそらくは、社会集団の最小単位である家族を安全なものにしておいて、社会の秩序や安寧を維持しようという、社会防衛のための重要な役割を、家族に担わせよう、という意図がなきにしもあらず、なのではないかと、私は思っています。

 

 ……ところで、私たちは、知らず知らずのうちに、あらゆるメディアを通して、こうした幸せ家族イメージをすり込まれているのですが、その効果は、いかほどのものでしょうか。

 

 ここに、興味深い数字があります。

 今年2月、10歳~15歳の男女3,600人を対象として行われた内閣府調査によれば、「自分は親から愛されていると思うか」という質問に対して、「あてはまる」、「どちらかといえばあてはまる」合わせて96.4%、また、「あなたは今、自分が幸せだと思うか」という質問に対しては、「そう思う」、「どちらかといえばそう思う」合わせて93.6%の青少年が、そのように答えています。

 

 この結果を見て、Wow!!日本って、なんて幸せな国なんだ!!と思う人は、どれほどいるでしょうか。

 

 私は、むしろ、こわさやおそろしさを感じました。

 

 というのは、通常、調査などを取ると、「はい」、つまり賛成や肯定的意見と、「いいえ」、つまり反対や否定的意見が、五分五分、とはいかなくとも、せいぜい、6対4くらい(極端に振れても7対3)で拮抗するのがふつうなのです。

 

 なのに、肯定的意見だけに偏って9割、というのは、異常で、尋常ならざる事態です。

 

 もしかして、家族は、幸せなものであるべき、とか、いつの間にか、洗脳されてしまったのでしょうか?

 

 陰謀とか、オカルトとか、そういう意味で言っているのではありません。

 

 メディアによる、恋愛、結婚、出産、家族の幸せイメージすり込みが、このところ、かなり露骨だな、と私自身、感じているからです。

 

 逆に、人を、犯罪者とか、反社会的危険分子にする環境要因を、「孤立」だと、ことさら偏って強調するところを見ると、なおのこと、その意図が、透けて見えてくるのではないでしょうか。

 

 人とのつながり、つまり「絆」(これはもとはといえば「絆し」(ほだし)、つまり、牛や馬をつないでおく縄のこと)によって、連帯責任をもたせ、社会にキバをむく前に、その「危険な」キバを抜いてしまう。

 おそらくは、そんなところでしょうね。

 

 

 実際、私たちが、ニュースなどで見聞きして感じるイメージと違って、凶悪犯罪は、増えていません。

 

 つい最近も、見知らぬ人を殺したり、傷つけたり、そういうニュースばかりを取り上げて、世の中物騒になった、危険だと、あおり立てていますが、それは、事実とまったく異なっています。

 

 たとえば、令和2年の警察庁の犯罪情勢を見ると、令和2年の刑法犯の認知件数は61万4,231件(人口千人当たりの刑法犯の認知件数は4.9件)で、戦後最少だった令和元年をさらに下回っています。 

 

 ちなみに、重大犯罪の被害者になりやすいのは誰かをみてみると、日本は、殺人、傷害致死で、家族・親族が被害者になることが5割以上と最も多くなっています。

 それに対して、殺人に限って見てみると、カナダ、アメリカともに、加害者と被害者の関係は友人・知人である場合が多いのです。(法務省『家庭内の重大犯罪に関する研究』)

 

 要するに、現代日本は、全体として、非常に安全な社会になっており、また、見知らぬ他人が重大犯罪の被害者になることはまれで、家族が被害者になる率が高いという、他の国と異なる特徴をもっているのです。

 

 ……あらあら、ヘンですね。

 

 「私は親から愛されている」、「私は今幸せ」、などと、9割もの青少年が思っている国で、家庭内で重大犯罪が起こる率が高いなんて。

 

 一般に、顕在的な数値として現れる自殺や他殺の10倍は、未遂に終わっており、その周囲には、さらに100倍、1000倍もの、苦悩する人がいる、と考えられています。

 

 大義名分、「家族は愛すべき存在」、だから、「私は愛されている」、けれども、何だか、関係が近い分、適切な距離感を保ちにくくて、決して強く憎悪しているわけではないけれども、「何だか、辛い」、「何だか、息苦しい」、「何だか、淋しい」………。

 

 家族に対して、そんな複雑な思いを感じている人は、それほど少なくはないのではないでしょうか?

 

 

 もしかしたら、人は、家族から、愛し方・愛され方を学ぶのではなくて、傷つけ方・傷つけられ方を学ぶのかもしれません。

 

 

 

“自虐の縄”

 

 話を、『メランコリア』に戻します。

 

 おそらくは、親によって、傷つけ方と傷つけられ方を、十二分に教わったらしいジャスティンの、自虐行為には、歯止めがかかりません。

 

 マイケルにとっては、精一杯の愛情表現だった、りんご園の土地の写真の贈り物のみならず、結婚初夜、美しくゴージャスな妻をかき抱きたい思いでいっぱいのマイケルさえおきざりにして、ジャスティンは、ひとり、ふらふらと、さまよい歩きます。

 

 そして、彼女から宣伝広告のアイディアを引き出すようにと、上司からさしむけられ、ストーカーのように、ジャスティンをつけ回すつまらない男と、まるでトイレで用を足すようにセックスし、上司を「権力欲のかたまり」と罵倒し、彼女は会社をクビになります。

 

 それだけでなく、最愛の妻となるはずのジャスティンの勝手な行動についていけず、ついに、マイケルさえも去っていってしまいます。

 

 

 “愛すべき・愛したかった”対象から、ひどく傷つけられた過去をもつものの、自傷や自虐の凄まじさは、時として、驚くほど容赦がありません。 

 

 

 愛情の対象として、何度も繰り返し喪った両親を、ここへ来て、再び喪い、自分の才能を活かせる職場も地位も失い、夫となるはずだった男性も失い、このあと、ジャスティンは、奈落の底まで、真っ逆さまに落ちていくのです。

 

 

 

 

                                《つづく》