探しものをする。
それも、何か、とても重要で、大切なものを探す場合、その行為や行動が、命にかかわる事態を引き起こすことになるかもしれない―。
私は、この映画を観るまでは、そんなふうに考えてみることはありませんでした。
実際、「ものをなくす」、ということにかけて、私は、名人級、です。(←自慢になりませんが)。
たとえば、今の今まで使っていたボールペンも、飲もうと思って出したばかりの薬も、どこかへ吹っ飛ばし、テーブルの下を、どこだどこだと探し回る、なんてことは、日常茶飯事、食器を拭き終わったふきんも、小スプーンも、まったく知らないうちにゴミ箱へ捨ててしまいました。
そればかりでなく、大切なCDまでなくしてしまい、パートナーを巻き込んで、部屋中(家じゅう)大捜索したものの出てこず、泣く泣くもう一枚買った、というのは、つい先日のことでした。(こんなときいつも、「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」という、西條八十『ぼくの帽子』の一節が、頭に浮かびます。CDは、今の時点でも、みつかっていません。パートナーからは、「捨てたんだろう」、と言われています)。
そんな、些細で、大したことのないものなら、命にかかわるようなことはない……のかもしれません。けれども、何ごとも、油断は禁物です。
ちょっとした探しものでも、たとえばそこが、自分がよく知らない場所だったとしたら。
どこか深い森の奥だったとしたら。
たとえば、よく知らない森のなかで、たった一人、きのこでも探していて、貴重なきのこを一本、また一本とみつけて、うれしさのあまり、知らないうちに道を外れ、どんどん奥へ進んでいったとしたら。
予備の食料もなく、寒さへの備えもなく、遭難してしまったとしたら。
そして、自分がここへ来たということを知る人が、誰もいないとしたら。
救助が来るまで、果たしてその人は、生きていられるのでしょうか。
この映画も、自覚もないうちに、“探しもの”をはじめてしまい、それが、命取りの事態を引き起こしてしまった―。
そんなお話だったと、私には、感じられたのです。
関係の破綻した夫婦、ボリスとジェーニャは、それぞれ、まったくそうとも知らずに、取り返しのつかない探しものの旅へと、予備の食料も、寒さへの備えもなく、誰にも連絡せずに出かけてしまったようなものなのです。
二人がそれぞれ、互いに背を向けて、まったく別の方角を向いて探していたもの。
それは、“幸せ”でした。
ボリスの子を妊娠した新しい恋人は、情事のあとで、「こわい」、とつぶやきます。
ボリスの愛の言葉は凡庸です。「今までこんな気持ちになったことはない」、「こんなに人を愛したことはない」、と、彼女にささやくのですが、彼女は、「それを、あなたは、前の奥さんにも言ったのでしょう?」と言います。
「そのときは、本当に、そう思った」、だから相手に伝えた、限りない愛の快楽が感じさせる幸福、その言葉の先に、いまの夫婦の愛の破綻があるわけです。
だから、彼女は、いつか、自分たちの愛も、そんなふうにあっけなく破綻するのではないかとおそれ、涙を流したのです。
ジェーニャの場合も、同様です。
彼女もまた、新しい恋人と、めくるめく情事を重ね合います。
その濃密な関係のなかで、彼女は彼に、母親とうまくいっていないこと、不幸な家族関係のなかで育ったことから、子どもを愛せなくなったことを打ち明け、彼から、思いどおりの慰めを得ることができたのです。
ボリスも、ジェーニャも、きっと、こう思ったことでしょう。
いままでの「幸せ」は、偽りだった、最初の相手は、間違いだった、もっと早く、いまの相手に出会えていたら。
まるで迷い子のように、怯えたり、こわがったり、不愉快な思いなど、しなくてよかったのに、と………。
《(3)へ つづく》