他人の星

déraciné

『LOVELESS ラブレス』(2)

 

 探しものをする。

 それも、何か、とても重要で、大切なものを探す場合、その行為や行動が、命にかかわる事態を引き起こすことになるかもしれない―。

 

 私は、この映画を観るまでは、そんなふうに考えてみることはありませんでした。

 実際、「ものをなくす」、ということにかけて、私は、名人級、です。(←自慢になりませんが)。

 

 たとえば、今の今まで使っていたボールペンも、飲もうと思って出したばかりの薬も、どこかへ吹っ飛ばし、テーブルの下を、どこだどこだと探し回る、なんてことは、日常茶飯事、食器を拭き終わったふきんも、小スプーンも、まったく知らないうちにゴミ箱へ捨ててしまいました。

 そればかりでなく、大切なCDまでなくしてしまい、パートナーを巻き込んで、部屋中(家じゅう)大捜索したものの出てこず、泣く泣くもう一枚買った、というのは、つい先日のことでした。(こんなときいつも、「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」という、西條八十『ぼくの帽子』の一節が、頭に浮かびます。CDは、今の時点でも、みつかっていません。パートナーからは、「捨てたんだろう」、と言われています)。

 

 そんな、些細で、大したことのないものなら、命にかかわるようなことはない……のかもしれません。けれども、何ごとも、油断は禁物です。

 

 

 ちょっとした探しものでも、たとえばそこが、自分がよく知らない場所だったとしたら。

 どこか深い森の奥だったとしたら。

 たとえば、よく知らない森のなかで、たった一人、きのこでも探していて、貴重なきのこを一本、また一本とみつけて、うれしさのあまり、知らないうちに道を外れ、どんどん奥へ進んでいったとしたら。

 

 予備の食料もなく、寒さへの備えもなく、遭難してしまったとしたら。

 そして、自分がここへ来たということを知る人が、誰もいないとしたら。

 

 救助が来るまで、果たしてその人は、生きていられるのでしょうか。

 

 

 この映画も、自覚もないうちに、“探しもの”をはじめてしまい、それが、命取りの事態を引き起こしてしまった―。

 そんなお話だったと、私には、感じられたのです。

 

 関係の破綻した夫婦、ボリスとジェーニャは、それぞれ、まったくそうとも知らずに、取り返しのつかない探しものの旅へと、予備の食料も、寒さへの備えもなく、誰にも連絡せずに出かけてしまったようなものなのです。

 

 二人がそれぞれ、互いに背を向けて、まったく別の方角を向いて探していたもの。

 それは、“幸せ”でした。

 

 ボリスの子を妊娠した新しい恋人は、情事のあとで、「こわい」、とつぶやきます。

 ボリスの愛の言葉は凡庸です。「今までこんな気持ちになったことはない」、「こんなに人を愛したことはない」、と、彼女にささやくのですが、彼女は、「それを、あなたは、前の奥さんにも言ったのでしょう?」と言います。

 

 「そのときは、本当に、そう思った」、だから相手に伝えた、限りない愛の快楽が感じさせる幸福、その言葉の先に、いまの夫婦の愛の破綻があるわけです。

 だから、彼女は、いつか、自分たちの愛も、そんなふうにあっけなく破綻するのではないかとおそれ、涙を流したのです。

 

 ジェーニャの場合も、同様です。

 

 彼女もまた、新しい恋人と、めくるめく情事を重ね合います。

 その濃密な関係のなかで、彼女は彼に、母親とうまくいっていないこと、不幸な家族関係のなかで育ったことから、子どもを愛せなくなったことを打ち明け、彼から、思いどおりの慰めを得ることができたのです。

 

 ボリスも、ジェーニャも、きっと、こう思ったことでしょう。

 

 いままでの「幸せ」は、偽りだった、最初の相手は、間違いだった、もっと早く、いまの相手に出会えていたら。

 まるで迷い子のように、怯えたり、こわがったり、不愉快な思いなど、しなくてよかったのに、と………。

 

 

                             《(3)へ つづく》