他人の星

déraciné

『LOVELESS ラブレス』(6)

 

「私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立(ぼうだち)に立竦(たちすく)みました。それが疾風の如く私を通過したあとで、私は又ああ失策(しま)ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横(よこた)わる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがたふるえ出したのです。」

                          夏目漱石『こころ』

 

 この描写は、「先生」と友人のKが、下宿先の「お嬢さん」をめぐって三角関係になり、「先生」がKを出し抜く形でお嬢さんとの結婚を決めた後、Kの、生々しい自死後の遺体を見たときのものです。

 

 先生自ら同じ下宿へKを誘っておきながら、彼の「お嬢さん」への想いを聞いたとたん、「性の争い」と「嫉妬」が起こり、自分の卑怯な行為のせいで、Kを死なせてしまった、「もう取り返しが付かない」、という強い罪悪感が、生きている間ずっと、「先生」を苦しめることになります。

 つまり、「先生」は、誰に言われるでもなく、自分を責め続け、たとえ「お嬢さん」と結婚しても、自ら、「幸福」からすっかり退いてしまったのです。

 

 人は、何か、とんでもない自分の行いや失態のせいで、誰かを傷つけたり、死なせたりしてしまったと感じたとき、深く強い罪悪感にとらわれます。

 そうして、場合によっては、そのために、自分の一生をすすんで“台無し”にし、幸福になれるチャンスからも、わざわざ遠ざかろうとします。

 

 肝心なのは、自分をそこまで追いつめ、ひどく責め苛むのは、他の誰かではなくて、自分自身だということです。 

 

 なぜなのでしょう?

 

 精神分析創始者フロイトは、「自己」という一人の人間の中には、三人の自分がいる、と言っています。

 一人は、自由奔放さと、他人の顔色をうかがう従順さを持ち合わせた「子ども」のような自分=「イド」、もう一人は、社会のルールに従うことや、他人の面倒を見ることを何より重視する「親」のような自分=超自我、さらにもう一人は、「子ども」の自分と「親」のような自分を、ときと場合によって使い分けをする「大人」の自分=「自我」です。

 

 日頃、私たちが「自分」として意識するのは、この「自我」なのですが、自我はいわば中間管理職であり、社会の規則がどうだろうが、自分勝手好き勝手にやりたい「イド」の「沸き立つ釜」のようなエネルギーにつきあげられつつ、それをなんとかなだめすかして、社会に適応させようとしなければなりません。

  イドのもつ欲求や衝動は、本来、社会生活の範疇になどにおさまりきらない、生きものとしての、人間のありのままのエネルギーであり、当然、抑え込むのは一苦労です。しかも、抑圧しすぎると、精神的な健康が損なわれてしまうため、「自我」は、そのエネルギーを、なんとか社会の許容範囲で発散させるようにつとめなければなりません。

 

 もう一方では、そのほとんどが、自分の親を通してしつけられた、社会規範どおりにふるまうよう命じてくる「超自我」からは、いつも責め立てられています。

 超自我の「~べき」という要求は、犯罪者を罰する裁判官のように厳しく、「自我」がどれほどうまくやったとしても、「超自我」はたいてい、「自我」に対して、有罪判決を下すのです。

 

 というわけで、「自我」は日々、「自分」という人間を、なんとか社会適応させるため、「子ども」の自分と、「親」のような「自分」の間で、「あちらを立てればこちらが立たず」、くたくたに疲れ果てているわけです。

 

 

 映画『LOVELESS ラブレス』では、結局、息子のアレクセイは行方知れずのままであり、ボリスとジェーニャは離婚し、それぞれ、新しい恋人との、「幸せ」であるはずの生活を送ることになります。

 

 ですが、ボリスの顔からも、ジェーニャの顔からも、すでに、あの、相手へのときめきと熱情に満ちた表情は消えています。

 新しい妻との間に生まれた子どもが騒ぐと、ボリスは、その子をケージの中へ入れてしまい、泣いても叫んでも、気にも止めません。

 一方で、ジェーニャもまた、あれほど求めていた新しい恋人と一緒でも、無表情です。彼女が、雪の降る寒い屋外へ出て、ランニングマシンの上を走ると、目の前には、色あせた、アレクセイ捜索願いの広告が貼られています。

 

 そして、ボリスとジェーニャは、それぞれの新居で、同じテレビを見ているのです。

 

 それは、ウクライナ内戦によって、安住の地を奪われ、明日をも知れぬ命で生きている人々のようすを伝えるニュースでした。

 

 対照的に、ボリスにも、ジェーニャにも、あたたかい家も、家族もあるのですが、“幸せ”は、彼らの「取り返しのつかない行い」のせいで、すっかり彼らを見放してしまったかのようです。

 

 人間には、自分が経験した・経験していることがすべてであり、たとえば、ボリスやジェーニャに、「あなたたちは、あの人たちよりもずっと恵まれていて、幸せなのですよ」、と言っても、何の実感もなく、彼らはきっと、首をかしげてそっぽを向くだけでしょう。

 

 また、全編を通して、「世界の終わり」を告げるマヤの預言の話も出てくるのですが、人々の多くは、おそらく、たとえ世界が滅亡しても、自分と自分の身内だけは、“撰ばれしもの”として助かる、というハリウッド映画のような根拠のない自信をもって、オカルト趣味のように、何の実感もなく、ほんの一時、楽しむだけなのではないでしょうか。

 

 実際、「世界の滅亡」、などという得体の知れないものよりも、自分の日々の生活や、日々社会に適応して「生きていく」ことに精一杯で、そっちのほうが、何倍、何十倍もおそろしいと、どこかで思っているのかもしれません。

 

 そして何より、自分たちのせいで、息子のアレクセイがいなくなってしまった(おそらくはその命が失われてしまった)という事実は、ボリスとジェーニャの「全生涯を物凄く照らし」、彼ら自身が、誰より厳しい裁判官となって、おそらく彼らは、その冷たく暗い牢獄から、一生、出てくることはできないでしょう。

 

 

 誰が知らなくても、自分が知る罪、誰が裁かなくても、誰が与えなくても、自分が与える罰。

 そちらの方が、ずっと過酷で、ずっと苦しいのだと思います。

 

 

 道も知らず、その手のプロでもないのに、危険な「幸せ探し」に出かけてしまい、気がついたときには、何か、かけがえのないものをなくしたり、落としたり、傷つけたりしてしまっていた……。

 

 日常、明るい日には、何もなかったかのように、無邪気に生活を楽しむことができても、ある日、ふと、影が横切るように、胸に何か、深い罪悪感のようなものがよぎる日が、誰にもあるのではないでしょうか。

 

 そういう意味で、私たちは……いえ、安易に一般化するのはやめましょう。

 

 

 迷子になったのは、アレクセイでもなく、ジェーニャでもなく、ボリスでもなく、自分自身であるような気がした……。

 

 私にとっては、そんな映画だったのです。

 

 

                                  《おわり》