かくも凶暴な…
「恋愛は 流動的なもの オリジナリティなもの 常に個人の力仕事よ
つまり 世相という 道徳観念に もたれかかった 恋愛はけっして
たくましくなれない ってことなのよね」
いわゆる「24年組」と呼ばれた漫画家の中で、私は特に、竹宮惠子と大島弓子が好きで、今でもよく読みます。
大島弓子の『水の中のティッシュペーパー』では、ボーイフレンドができても「結婚まではプラトニックで」という家訓をきっちり守り続け、キスさえしない姉の木戸栗子(くりこ)に対して、妹の実子(じつこ)は、「相思相愛だとわかったからメイクラブしてきた」と言い放ち、栗子を驚愕させます。
その実子が栗子に向かって言った台詞が、冒頭にあげた言葉です。
もともと“性”というものは自由奔放であり、その前に、どんな厳しい秩序や道徳も、決して役に立ちはしません。
壁でも、垣根でも、越えてはならない境界でも、バリバリと破壊して、先へ先へと、人間を駆り立てる衝動こそが、(恋しい相手と一体になりたいという性的欲求を本態とする)恋愛です。
生物の進化の歴史の中で、“性”は、“死”と引きかえに獲得されたものなのですから、意識も理性も越えて、有無を言わさず、人を、嵐の中に引きずり込みます。
“死”と同様、人間の手中になどおさまるものではなく、もともとアウト・オブ・コントロールなわけです。
だからこそ、日本でも、戦前は特に恋愛は危険思想扱いされ、家同士の取り決めに従わなかったり、階級・身分違いの恋、不倫など道ならぬ恋をすれば、生物学的死か、社会的死か、いずれかの状況へと追い込まれたのです。
今でも、状況はさして変わっていないようにも感じますが……
社会転覆に結びつく可能性が、少しでもあるものには、何とかしてカセをはめて、飼い慣らそうとするのが社会の常です。
恋愛が、結婚という制度によって、社会に組み込まれていった過程が、まさにそうなのです。
結婚とは、お互いがお互いにとっての特定の性の相手であり、それ以外の相手とは、性的関係をもたないことを、社会へ向かって約束し、おおやけに宣言する社会的制度なのです。
ですから、結婚しているにもかかわらず、他の人と性的関係をもつことは、「汚い、穢れている」、「家族を傷つけた」、「人間としてどうよ?」とまで言われ、風当たりがかなり強いのです。
逆にいえば、近代的な家族とは、人間の、凶暴な性のエネルギーを閉じ込め、封じ込め、何らかの形で消化させるための装置として機能することを(そして、社会に役立つ安全安心健全な人間を世に送り出すことを)、社会の側から要請されてきたのです。
抑圧される“性”なるけもの
さて、映画『追想』に戻ります。
1960年代、『追想』の時代にあって、(特に女性の側の貞操をめぐって)起きていたことが、時と場所を異にして、『水の中のティッシュペーパー』の木戸家でも起きていたわけです。
家族は社会の縮図ですから、ある一つの家庭の情景を切り取ってみれば、そこに、社会の姿が、何らかの形で必ず立ち現れてきます。
そして、「社会」というものは、大抵、家族や友人、知り合い、あるいは、たまたま近くにいる人など、身近な他者を通じて現れます。
実は、同じく、不自由の身でいることを強いられたもの同志なのですが、「抑圧する側」(優位におかれたもの)と「抑圧されている側」(劣位におかれたもの)との対立は、たくみに隠され、回避されることが多く、だいたいの対立は、“同志”同士の間で起きてしまうことが多いのです。(いわゆる“内ゲバ”ですね)
規律や道徳に厳しいフローレンスの家庭のまわりにも、そうした60年代の社会の空気がありました。
フローレンスに対して、性的虐待をしていた父親は、家庭内に社会の空気を無意識に持ち込んだ―立場が下の者(子ども)は、立場が上の者(親)の所有物であり、何をしてもかまわない―、“操り人形”のようなものにすぎなかったのかもしれません。
そうして、フローレンス自身、まだ幼かったこともあり、あるいは、父親からそのような、信じられない(信じたくない)行為を強いられたことなど、とても受け入れられるはずもなく、その記憶をほとんど抑圧しているのです。
エドワードとことに及ぼうとしたときの、彼の失敗によって、自分のお腹のあたりが“汚れされた”ことがトリガーとなって、彼女は、父親と一緒にいる幼い自分の姿を、フラッシュバックのようにして思い出すだけなので、おそらく彼女は、幼い自分が、いったい何をされたのか、はっきり覚えていないのでしょう。
ですから、愛するエドワードに、自分の側の事情を話し、わかってもらうことも不可能なわけです。
フローレンスは、「私を見ないで!」と叫んで、部屋から飛び出して行ってしまい、一人取り残されたエドワードの、“男としての自信と誇り”が、めためたに傷ついてしまうのには、十分すぎるできごとだったのではないでしょうか。
彼は、まるで、自分がおねしょをして汚したふとんの横にでも立たされているような、屈辱と恥ずかしさを感じたことでしょう。