「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」
大好きな言葉です。
人生をあらわす言葉として、私は、これ以上の表現に出会ったことはありません。
芥川は、本当にすごいな、頭が切れるな、と思います。憧れます。
けれども、かなしいかな、私は凡人です。
「じゃ、どうすればいいの?」
私が大学生の頃、祖母が、亡くなりました。
当時の私にとって、「死ぬ」、ということは、かなり観念的なものであって、実感のまったく伴わないものでした。
ただ、親や周囲を見ていて知っていたのは、「死とは、悲しいものだ、悲しむべきものだ」、ということだけでした。
小さい頃から、よく遊びに行っていた祖母の家。
祖母がつくる料理は、カレーでも、天ぷらそばでも、とんかつでも、とにかく本当に、何でもおいしかったこと。
友だちと東京へ遊びに行きたい、でもお金がないと言った私に、家の掃除をしてくれたら、5万円あげるよと言ってくれた祖母。
それで、早速朝から掃除しに行くと、私の母が「下品だ」と言って、絶対見ないワイドショーを見て、アハハハハ、と声を上げて笑っていたこと。
思い出はたくさんあるのに、その祖母が「死んだ」ときいても、さっぱり悲しいとも、何とも思えなかったのです。
私は、これは、私の人間としての名誉のためにも、ぜひとも悲しまなければ、と思いました。
それで、夜だというのに、犬を鎖から放して引き縄につなぎ、自分のそばにいさせて慰めてもらおうとしたり、(彼女は、散歩に行くものだと思ったらしく、はしゃいで、ぐるぐる走り回り、さっぱりおとなしくしてくれませんでした)、“親友”(今はもう付き合いもありませんが)に電話をかけて、祖母が死んだことを伝えてみたりしたのですが(彼女は、開口一番、「(まず誰よりも先に自分に電話をかけてそんな話をしてくれて)嬉しい」、と言いました)………。
結果は、やはり、さっぱりでした。
それは、最後のお別れのときも同じでした。
母や親族親戚みんな集まって、祖母の棺を取り囲み、すすり泣いているのに、私だけ、悲しくならないのです。
さて、どうしたものか………。
それどころか、お葬式で、しめやかにお焼香が執り行われているとき、ふと、妙な衝動が湧き上がってきました。
あちらこちらで、ハンカチを眼に当てる人がいます。
鼻をすすり上げる音が、あちこちで聞こえてきます。
さて、母と、妹と、私がお焼香をする番が来ました。(父は、喪主を務めていました)。
私は、抹香から立ち上る煙を、胸一杯に吸い込みました。そうして、あくまでも自然に、でも大げさに、げほんごほん、と、むせてみせたのです。
ねらいどおり、くす、くす、と、笑い声が聞こえてきました。
あとで、伯母が、「思わず笑っちゃったわよ」、と言いました。
私は、とても満足でした。
とにかく、あの、しめっぽくてつらい、その一方だけの雰囲気が、なんだか苦しくていやだったのです。
それ以前から、私は、大抵、あまのじゃくでした。
明るくはしゃいでいる空気の中では、ひとりで深刻ぶり、冷たくて暗い空気の中では、わざとおどけてみせるのが、いつの頃からか、クセのようになっていたのです。
かなしくておかしい、おかしくてかなしい物語
さて、映画『追想』です。
恋愛や性に、まだ十分な自由が許されていない(だからこそ、個人の感情や経験が、社会への反逆となり得た)1960年代、バイオリニストのフローレンスは、歴史学者志望の青年エドワードと出会い、惹かれ合うようになります。
生まれ育った環境も、趣味嗜好も違う二人ですが、お互いがお互いにとって、代替え不可能な特別な存在であることを、プラトニックなレベルでわかり合い、結婚に至るのですが………。
※ここからは、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
フローレンスの父親は、封建的家族制度を象徴するような厳しい父親であり、フローレンスは、家族にエドワードを紹介しますが、「父とのテニスでは、絶対に勝たないようにして(決して機嫌を損ねないように)」、と忠告します。
父にとって、娘は自分のものであり、たとえ娘の結婚相手であっても、「男として自分の方が上」でなければ気が済まないのです。
「きみはぼくのものだ」、と、エドワードはフローレンスに言いますが、フローレンスは、明らかに父親をおそれており、彼女は少女の頃、父親から性的虐待を受けていた可能性があることが、劇中で(はっきりとではありませんが)示されています。
生まれて最初に出会う異性、父親との関係は、親子というよりは、支配服従の上下関係であり、性に対しても、「一方的で」「こわい」「おそろしい」不快感しかないフローレンスは、エドワードとの交際中、一度も性行為をしないまま(性の指南書の知識だけで)結婚に至り、初夜を迎えることになります。
フローレンスにとっては、エドワード、エドワードにとっては、フローレンスが、お互いに、初めての相手として、この“愛の共同作業”に取り組もうとするのですが、それが、二人の婚姻関係を、たった6時間で終わらせるきっかけとなってしまうのです。
《つづく》