他人の星

déraciné

映画『追想』(1)

 

 「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」

                         芥川龍之介侏儒の言葉

 

 大好きな言葉です。

 人生をあらわす言葉として、私は、これ以上の表現に出会ったことはありません。

  芥川は、本当にすごいな、頭が切れるな、と思います。憧れます。

 

 けれども、かなしいかな、私は凡人です。

 

 

「じゃ、どうすればいいの?」

 

 私が大学生の頃、祖母が、亡くなりました。

 当時の私にとって、「死ぬ」、ということは、かなり観念的なものであって、実感のまったく伴わないものでした。

 ただ、親や周囲を見ていて知っていたのは、「死とは、悲しいものだ、悲しむべきものだ」、ということだけでした。

 

 小さい頃から、よく遊びに行っていた祖母の家。

 

 祖母がつくる料理は、カレーでも、天ぷらそばでも、とんかつでも、とにかく本当に、何でもおいしかったこと。

 

 友だちと東京へ遊びに行きたい、でもお金がないと言った私に、家の掃除をしてくれたら、5万円あげるよと言ってくれた祖母。

 それで、早速朝から掃除しに行くと、私の母が「下品だ」と言って、絶対見ないワイドショーを見て、アハハハハ、と声を上げて笑っていたこと。

 

 思い出はたくさんあるのに、その祖母が「死んだ」ときいても、さっぱり悲しいとも、何とも思えなかったのです。

 

 私は、これは、私の人間としての名誉のためにも、ぜひとも悲しまなければ、と思いました。

 

 それで、夜だというのに、犬を鎖から放して引き縄につなぎ、自分のそばにいさせて慰めてもらおうとしたり、(彼女は、散歩に行くものだと思ったらしく、はしゃいで、ぐるぐる走り回り、さっぱりおとなしくしてくれませんでした)、“親友”(今はもう付き合いもありませんが)に電話をかけて、祖母が死んだことを伝えてみたりしたのですが(彼女は、開口一番、「(まず誰よりも先に自分に電話をかけてそんな話をしてくれて)嬉しい」、と言いました)………。

 

 結果は、やはり、さっぱりでした。

 

 それは、最後のお別れのときも同じでした。

 

 母や親族親戚みんな集まって、祖母の棺を取り囲み、すすり泣いているのに、私だけ、悲しくならないのです。

 

 さて、どうしたものか………。

 

 それどころか、お葬式で、しめやかにお焼香が執り行われているとき、ふと、妙な衝動が湧き上がってきました。

 

 あちらこちらで、ハンカチを眼に当てる人がいます。

 鼻をすすり上げる音が、あちこちで聞こえてきます。

 

 

 さて、母と、妹と、私がお焼香をする番が来ました。(父は、喪主を務めていました)。

 

 私は、抹香から立ち上る煙を、胸一杯に吸い込みました。そうして、あくまでも自然に、でも大げさに、げほんごほん、と、むせてみせたのです。

 

 ねらいどおり、くす、くす、と、笑い声が聞こえてきました。

 あとで、伯母が、「思わず笑っちゃったわよ」、と言いました。

 私は、とても満足でした。

 

 とにかく、あの、しめっぽくてつらい、その一方だけの雰囲気が、なんだか苦しくていやだったのです。

 

 それ以前から、私は、大抵、あまのじゃくでした。

 

 明るくはしゃいでいる空気の中では、ひとりで深刻ぶり、冷たくて暗い空気の中では、わざとおどけてみせるのが、いつの頃からか、クセのようになっていたのです。

 

 

 

かなしくておかしい、おかしくてかなしい物語

 

 さて、映画『追想』です。

 

 恋愛や性に、まだ十分な自由が許されていない(だからこそ、個人の感情や経験が、社会への反逆となり得た)1960年代、バイオリニストのフローレンスは、歴史学者志望の青年エドワードと出会い、惹かれ合うようになります。

 

 生まれ育った環境も、趣味嗜好も違う二人ですが、お互いがお互いにとって、代替え不可能な特別な存在であることを、プラトニックなレベルでわかり合い、結婚に至るのですが………。

 

 ※ここからは、ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 フローレンスの父親は、封建的家族制度を象徴するような厳しい父親であり、フローレンスは、家族にエドワードを紹介しますが、「父とのテニスでは、絶対に勝たないようにして(決して機嫌を損ねないように)」、と忠告します。

 父にとって、娘は自分のものであり、たとえ娘の結婚相手であっても、「男として自分の方が上」でなければ気が済まないのです。

 

 「きみはぼくのものだ」、と、エドワードはフローレンスに言いますが、フローレンスは、明らかに父親をおそれており、彼女は少女の頃、父親から性的虐待を受けていた可能性があることが、劇中で(はっきりとではありませんが)示されています。

 

 生まれて最初に出会う異性、父親との関係は、親子というよりは、支配服従の上下関係であり、性に対しても、「一方的で」「こわい」「おそろしい」不快感しかないフローレンスは、エドワードとの交際中、一度も性行為をしないまま(性の指南書の知識だけで)結婚に至り、初夜を迎えることになります。

 

 フローレンスにとっては、エドワード、エドワードにとっては、フローレンスが、お互いに、初めての相手として、この“愛の共同作業”に取り組もうとするのですが、それが、二人の婚姻関係を、たった6時間で終わらせるきっかけとなってしまうのです。

 

 

 

                                  《つづく》