「ねえ ダーリン 世の中には セックスに過剰に何かを求める 悲しい人たちが 多すぎるわ」
岡崎京子『3つ数えろ』
「あなたの欲しいものは あなたの所有していないものである」
「セックスが我々を救ってくれない今、いかなる衝動が我々を救ってくれるのか?」
同 『にちようび』
最初に岡崎京子の漫画を読んだときには、「うわ、きついな」と感じました。
ですが、すぐに、これは、人間や人間社会と切っても切れない、性と暴力の問題について、あやういバランスを保ちつつ向き合っている文学作品なのだと思いました。
性と暴力、この2つの衝動と、いかに折り合いをつけていくかが、人間の文明社会の成熟と退行の歴史だったといえるでしょう。
性とは、過剰に抑圧しすぎれば暴発を招き、秩序も安寧もどこへやら、人間のわけのわからなさや、手に負えなさが、いちばんむきだしになったエネルギーそのものなのだと思います。
「愛と、資本主義」
映画『追想』では、粉々に砕け散った“素敵な初夜”から、美しい海岸線の続く浜辺を、逃げるようにフローレンスが去っていき、あとから、エドワードがようやく追いつきます。
すると、フローレンスは、彼に向かって、決定的な一言を告げます。
自分は、もう無理だから、今後、そういう欲求は、「他で」、つまり、他の女性との間で処理してほしい、と言ったのです。
その言葉に、エドワードは、ひどくショックを受けます。
「我のからだをもって、汝を崇めん」
結婚の誓いにあった言葉を、懇願するように彼女に言いますが、フローレンスの、ぼんやりしたような、かなしげな表情は変わりません。
こうして、二人の婚姻関係は、たった6時間で、あっけなく終わったのです。
需要と供給の不一致。
他の誰でもない、特定の相手から欲しいと願うものが、永遠に手に入らないという、絶望感。
他でもない、特別な相手が望むものを、与えることができないと知った悲しみ。
いかに“愛”といえども、相手との間での、ものやサービスの交換が、ある程度、公平平等だという共通認識が得られなければ、その関係を続けていくのは困難になってしまうことでしょう。
そして、二人が別れて数年後、もともとロック好きな青年であったエドワードは、レコード店を経営し、そこへ、母親の誕生日にプレゼントしたいから、と、少女がチャック・ベリーのレコードを買いに来ます。
その少女こそ、もと四重奏団の仲間、チャールズと結婚したフローレンスの娘だったのです。
少女がフローレンスの娘だとわかったエドワードは、レコード店員からのお祝いだと言って、レコードをただでプレゼントし、少女の後ろ姿を見送ります。
楽団の仲間、チャールズとの間には、3人の子どもがおり、孫までいるフローレンスは、端から見れば、順調な人生を送った幸せな老婦人に見えるかもしれません。
けれども、エドワードと別れた後、チャールズとの結婚生活が、本当に幸せなものだったかどうかについては、劇中、まったくふれられていないので、わかりません。
チャールズが、実は性的に手慣れた男性で、上手にフローレンスを導くことができたのか、あるいは、フローレンスの父親のように、権威主義的な男性であったのか(支配的な男性に慣れている女性は、トラウマ―心の傷―の再現として、自然かつ自動的に、服従してしまうものであり、新たな行動を学ぶよりも、その方が、本人にとって楽だったりするのです)については、謎のままです。
映画のラスト、彼女が四重奏団の仲間と最後のコンサートを開くことを知ったエドワードは、むかし、フローレンスに「自分はここで観るよ」と約束した席で、静かに“ブラボー”と言い、彼の存在に気づいていた彼女は、そっと涙を流します。
それは、年を取って、若い頃を思う、郷愁の涙でしょうか。
それとも、本当に愛していたのは、あなただけだった、という、言葉にならない想いでしょうか。
「引っ込みがつかない」、という言葉があります。
自分が思っているとおりに、素直に行動すれば、ことは丸く収まるのに、一度そういう態度に出てしまった以上、どこまでも、自分の行動や態度に一貫性を持たせないと、沽券に関わる、という、あの感じです。
意地を張ったり、なだめてみたり、愛もまた、駆け引き(まるで、ものをお金で買うときの値切りのように)と無縁ではあり得ないのです。
ときに、人は、本当に欲しいと思っているものから、まるでわざとのように、自分を、はるか遠くまで押し流してしまうこともあります。
ほんの少し、ほんの少し、この舟を、波に遊ばせ、引き戻せるかどうか、試してみよう。
などと思って、綱を放して、振り返ってみたら、思いのほか波は高く、はるか沖まで流されていって、もう届かない。
人でも、ものでも、何でも、本当に大切なものは、意外とそんなふうに、あっけなく、去っていってしまうのかもしれません。
《おわり》