「たいていの場合、動物は悲しそうよ」と彼女は言いつづけた。
「歯が痛いとか、お金をなくしたとかいうためではなくて、人生全体が、いっさいのものがどうであるかを、しばしのあいだ感じたために、人間がひどく悲しんでいる場合、人間は真実悲しいのよ。そういう場合、人間はいつもすこし動物に似ているわ」
私は、動物の中でも、キリンが好きです。
長いまつげの下の、大きな目は、何だかいつも悲しげで、もの憂げに見えて、それがとても美しいと感じるからです。
動物が、しばしば、言葉では到底説明できるものではない、深淵にある真実をまっすぐにみつめているような、穏やかで静かな思索にふける哲学者のような顔をするのを、私は、自分の家で飼っていた犬に見たことがあります。
夕陽に染まる庭のどこかを、じっと静かに見ている彼女が、そんな表情をしたのを見たとき、私は、何か、動かしがたいものに圧倒されるような気持ちになりました。
“抑うつリアリズム”
うつ病とは、「マイナス思考」、という認知の歪みを特徴とする病だ、という世間一般の認識とは、どうも何か違うらしい、ということを示す実験があります。
1979年、心理学者のアロイとエイブラムソンは、うつ病者のグループと、健常者のグループに分けて、ある実験を行いました。
それは、「ボタンを押すと緑色の明かりが点灯する」ことを確かめるという単純なもので、被験者に求められるのは、ただボタンを押すことだけでした。
そのあと、被験者たちは、緑色の明かりが点灯することと、自分がボタンを押すことの間に、どのような関係があったと思うか、と聞かれます。
実は、緑色の明かりが点くか点かないかは、実験者側がコントロールしており、被験者がボタンを押すこととは、何の関係もなかったのですが、それを言い当てたのは、健常者群ではなく、うつ病者群の方でした。
興味を引かれたアロイとエイブラムソンは、さらに、実験をすすめました。
今度は、実験参加者をランダムに分けて、片方のグループには、一人に5ドルずつ渡し、「緑色の明かりが点かないと、あなたはそのたびにお金を失う」と言い、もう片方のグループには、お金を渡さずに、「緑色の明かりが点けば、お金がもらえる」、と言いました。
この実験でも、被験者がボタンを押す、という行為と、緑色の明かりが点くということにはまったく関係がなく、(ただし、あまりはずれても実験の仕組みがばれてしまうので、後半、被験者がボタンを押すと緑色の明かりがつくように調整していきます)、実験後に、また感想を聞きます。
その結果、健常者は、お金を得られるよう努力すれば(緑色のボタンを押すタイミングさえ間違わなければ)、お金をもらえるようになる、と認識しており、自分は努力したのに、お金がもらえないのはおかしい、と考えていました。
それに対して、うつ病者は、自分がボタンを押して、緑色の明かりが点くか点かないか(お金をもらえるかもらえないか)は、自分のコントロール外であり、お金がもらえても、それは偶然(運)だったと、事実を正しく認識していたのです。
彼らは、こう言ったのです。
「だって、緑色の明かりが点くか点かないかは、そちらでコントロールしているんでしょう?」
「彼は同様に正しく、ただメランコリー的でない他の人々よりも鋭く真理を捉えているにすぎないように見える」
「どうしてそのような真理を手にするために最初に病気にならねばならないのか」
S.フロイト『喪とメランコリー』
うつ病者の、気分が沈んで元気のない様子を見ると、多くの人は、彼らのことを、「後ろ向き」で、ものごとを正しく捉えることができず、マイナス思考に偏っている、としか見ませんが、実際には、必ずしもそうとはいえないのです。
他の人なら、目をつむったり、視線をそらしたりできる現実から、目をそむけることができず、真正面から見てしまうがために、彼らはすっかり意気消沈し、落ち込んでしまうのです。
つまり、うつ病者の問題は、「後ろ向き」なことではなく、むしろ、「前向き」すぎること、と言った方がいいのでしょうね。
「ぶつかるかもしれない」は「確実にぶつかる」
さて、映画の話に戻ります。
『メランコリア』、というのは文字どおり、うつ病、うつ傾向のことですが、宇宙の彼方からやってきたこの青い星は、地球と衝突する運命にあります。
うつ病者に対して、悲観的な方向で「~になるかもしれない」、と伝えると、だいたい彼らは、ほぼ100%「~になる」、と考えてしまうかのように…。
興味深いのは、ここで、形勢逆転、というのか、クレアとジャスティン姉妹の心理状態が逆転する、ということです。
人間社会の中に、落ち着き払って居心地の良い場所を確保し、素敵に美しく暮らしてきたクレアは、惑星メランコリアが、“地球と衝突するかもしれない”可能性を知ってからは、極度の不安と心配で、みるみる落ち着きをなくしていきます。
対照的に、これまで気分が沈み込み、お風呂にも入れず、食欲もなかったジャスティンは、甘いジャムを、心ゆくまでうっとり、むさぼるように舐め、お風呂にも入って、すっかり元気になります。
破綻した人間関係のお手本から、安定した愛情をもらえなかったであろうこの姉妹は、それぞれに、どうやってそこから受けた傷を修復したのか、その方法が違いました。
例えてみれば、幼い頃の家族関係というものは、家を建てる際の、(つまり、これから先の人生を生きていく上での)土台や柱のようなもの、なのではないでしょうか。
ボロボロの基礎を、念入りに覆い隠し、修復し、その上に、分厚く美しい豪華な装飾を施した「家」に仕上げたのがクレアなら、ジャスティンは、壊れた基礎部分をそのままに、崩れ落ちた廃屋のような「家」にずっと暮らしてきたようなものかもしれません。
一般的には、クレアのような人を、「過去を努力によって克服した」「前向き」な人、ジャスティンのような人を、「破綻した過去をいつまでも乗り越えられない」「後ろ向き」な人、と言うのでしょう。
けれども、実際には、過去に背を向けたのはクレアの方で、ジャスティンは、その過去をまっすぐに見つめたままで生きてきたのだと思います。
ジャスティンの夫になるはずだった男性、マイケルは、ジャスティンのために買った、というりんご園の写真を見せながら、こう言いました。
「十年後、きみは木陰に椅子を置いて座っているだろう。その頃も、気分が落ち込むこともあるかもしれないが、りんごがきみを幸せにしてくれる」。
りんごが、落ち込んでいるジャスティンを幸せにするなどということは、まずあり得ないでしょう。
もし、ジャスティンが幸せなら、彼女の口に、りんごは甘く、とても美味しいでしょう。
けれども、彼女が落ち込んでいたなら、りんごは苦く、まるで灰のような味がすることでしょう。
そんな幻想を抱いている男性と結婚しても、うまくいくはずはなく、彼女は、それをちゃんとわかっていたのです。
結婚式のばかばかしい大騒ぎ、「おめでとう」「幸せに」「愛してる」、そのすべてが、嘘くさい空虚さに満ちたものであることと一緒に……。
《終わり》