他人の星

déraciné

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』 (5)

“そのとき”が来るまで、誰も気づかない

 

 さて、ここからは、再び、ネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 前回ふれた、少数派は「悪」とみなされやすい、という人間心理の傾向は、『蠅の王』の物語でも、その後の少年たちの行動に徐々に影響を及ぼし始めます。

 

 その先に、大きな悲劇が待ち構えていようとは、少年たちの誰も気がついていなかったことでしょう。

 

 ラーフの側に残る者、ジャックの狩猟隊に加わる者、その流れにまだ柔軟性と弾力性が残っていた間は、ラーフとジャックの、緊張状態にありつつも、互いを補い合うような関係は、まだ完全には壊れていませんでした。

 

 彼らは、二つの群れに分かれて、島の別々の場所を根城としながら交流し、ラーフたちもまた、肉が食べたいときには、ジャックたちに分けてもらっていたのです。

 

 けれども、物語の後半で、決定的なできごとが起こってしまいます。

 

 「選ばれた」リーダーであるラーフのそばには、いつも“ピギー”が寄り添っているのですが、彼は極度の近視であり、ビン底のように分厚い眼鏡がないと、ほぼ何も見えません。

 

 実は、この「眼鏡」こそが、ラーフにとっては、救助を求めるための烽火、ジャックにとっては、とらえた豚を焼いて食べるための火を起こすために、絶対に必要なものなのです。

 火をおこし、それを自由自在に操ることができるようになったところから、人類の文化や生活が飛躍的に進化していったことを象徴していますね。

 

 生きていくために必要な“火”を起こすこの道具は、ピギーのものであり、ラーフの側にあったものなのですが、しだいしだいに仲間を増やしていったジャックは、その便利な“火”を自分のものにしようとして、急襲を仕掛け、ピギーから、眼鏡を奪ってしまいます。

 

 「火がほしいとさえいえば、いつだって分けてやる」つもりだったラーフは、ジャックの強引で暴力的なやり方に憤りを覚え、ジャックのところへ抗議に行きます(ラーフの仲間は、もはや、ピギーと、双子の兄弟サムとエリックだけになっていました)。

 

 ラーフとジャックの、お互いへの憎悪の感情には、この機に至ってもなお、温度差があります。

 ラーフは、ジャックが激しく自分を忌み嫌っているらしい、という話をきいて、「なぜ」と驚いてしまうほど、まだ余裕を保っていますが、ジャックの側には、もはや、そんな余裕はないようです。

 

 相手と対話や交渉をする気などないからこそ、力ずくで、“火”を奪っていったのでしょう。

 

 ラーフとジャックの間には、最初から、意見や態度の違いによる緊張があったのですが、彼らの関係が(特に、ジャックの側に関して)、いつの間にか、修復不可能なまでに悪化してしまっていたのだ、と、読み手が気づくのも、おそらくこの事件によってではないのでしょうか。

 

 

 

すべては、“無意識”の導くままに…

 

 一見して、“急変”したかのようにみえる現象の多くが、現実にはまったくそうではなく、潜在下で、確実に、ちゃくちゃくと用意が進められていたことに気がつく者は、ほとんどいないと思います。

 

 例えば、様々なアレルギー症状なども、その一つです。

 よく、「コップの水があふれる」現象に例えられるように、アレルゲンとの接触が、知らないうちに、コップの中に一滴、一滴、蓄えられていき、その水が、臨界点に達して、コップからあふれ出たときが、症状の出るときなのだそうです。

 それだけでなく、地震などの災害、温暖化、加齢の影響、病、その他多くの身近な現象も同じで、私たちが気づけるのは、誰の目から見てもそれとわかるような状態になってからです。

 

 

 つい先日、NHKテレビで放映されている番組『チコちゃんに叱られる』を見ていて、気づかされたことがありました。

 

 たしか、「オーケストラに指揮者はなぜ必要か」?「指揮者はなぜ手を振るのか」?という問題だったような気がします。(ちがったら、ごめんなさい)

 

 その答えは、「指揮者は、一瞬先の未来を演じているから」でした。

 指揮者の頭の中には、すべての楽譜のみならず、指揮者それぞれのとらえ方による、その作曲家らしい楽曲の演奏の在り方があって、そのとおりに、オーケストラを導くために、常に、一瞬先、一瞬先の楽譜の流れを、指揮で示している、というのです。

 

 そうです。

 指揮者と、オーケストラを、人間の心の構造に例えれば、指揮者が“無意識”で、オーケストラが“意識”なのです。

 観衆が聴くことができるのは、指揮者の頭の中で、一瞬先に流れているであろう音ではなくて、実際に、その指揮どおりに演奏されている楽器の音だからです。

 

 

 ものごとは、いつも、潜在下、あるいは無意識下、つまり、私たちが気づいたり、注意を向けたりする前に、すでに起こり始めています。

 

 それを、私たちは、「ものごとは、いつでも、自分で意識して、自分で考えて決めている」、と思い込んでいます。

 だからこそ、「自己決定」だの、「自己責任」だのいう言葉が、これほど横行しているのでしょう。

 

 実際には、私たちが、何かを判断したり、決めたりして、実行に移す、その常に一歩先を、“無意識”が決め、先行し、導いているとも知らず………。

 

 「無意識」とは、具体的にいえば、生まれてから現在まで、たった一度でも、見たり聞いたり、感じたり考えたりしたこと、実際に経験したこと、自分自身の取った言動や態度、反応、そのすべてです。

 

 私たちは、そのほんの一部しか覚えておらず、それが“意識”と呼ばれるものを形成します。

 

 私たちは、自分の身に起きたことや、自分の内面で起きたことのほとんどを忘れてしまいますが、だからといって、それらの経験や体験が、どこかへきれいさっぱり消えてしまうわけではありません。

 

 「私」「自分」という意識がたとえ忘れても(思い出すことができなくても)、それらは、音もなく静かに心の奥底に降り積もり、沈殿し、巨大な無意識層をつくり、ふだんの、何気ない言動や判断、考え方、気持ち、あるいは性格と呼ばれるものに至るすべてに影響を与えます。

 

 私たちは、「自分のことは自分がよく知っていて」、自分で考えた上で「自分が決めた」と思っていますが、実は、すべてのリーダーシップをとり、その船がどこへ向かうのか、舵をとっているのは、“無意識”だということになります。

 

 “意識”は、永遠に、“無意識”を追い越して、その上に立つことはできないのです。

 

 

 

指揮者が、手を振るとき

 

 前回書いた、一連のマスク騒動についても、同じことがいえると思います。

 

 2010年代後半以降、特に20代、30代女性を中心に、「マスク依存症」が少しずつ知られるようになりました。

 風邪やインフルエンザの予防など、確たる目的がないにもかかわらず、日常的にマスクを着け、やがて、マスクを着けないでは不安で落ち着けなくなる、というのが中心的な症状です。

 社会不安症や、対人恐怖症との関連が指摘されており、マスクを着けることで、一つには、他者の視線から自分(とくに、素の感情)を読み取られることがないよう、身を守ることができる、というものです。

 鼻から下は、相手に表情で気持ちを伝える際、重要な部分であり、日常的に他人に気を遣って、無理に笑ったりすることに疲れてしまっている人は、気が楽になれるのだと思います。

 

 マスクのもう一つの効用は、その人がどんな顔なのかが隠されるので、「匿名性」が高まり、安心が得られる、ということでしょう。

 本来、「顔」は、その人をその人たらしめているアイデンティティの中でもかなり重要な役割を果たしており、他者とは違う独自の「私」であることをアピールする、いちばん目立つポイントとなるものです。

 本でいえば、「表紙」でしょう。

 それを「隠す」ということは、むしろ、「他者とは違う、独自の存在であること」を隠し、気づかれないようにする、という意味を帯びます。

 

 通常、人は、ほかの誰とも違う特別な人間でありたい(他の人と一緒にされたくない)、という欲求をもっています。

 けれども、そうした自己顕示欲による自己主張が、むしろ、社会で生きていく上で邪魔になったり、場合によっては、生活と生命に危機をもたらしかねない場合には、自分の身を守るために、「隠そう」「隠さなければ」という無意識の衝動が働くようになります。

 そこで、マスクを着けるわけです。

 

 つまり、マスクを着けるのは、「外界から身を守り、安心するため」なのですが、ことのことは、人間が、たとえ黙って何もせずともつながり合い、関係し合わずにいられない、社会的動物である以上、他者との関係にも当然影響を及ぼします。

 

 「すすんでそうしたかったわけじゃない」、「こんなはずじゃなかった」、という気持ちが強い場合、錯誤帰属(ものごとの原因がどこにあるかを見誤ること)が起こりやすくなります。(「私がこうなったのは、いったい誰のせい?!」という怒りや憎しみは、コントロールしたり、簡単に消したりすることができるものではありません)

 

 繰り返しますが、人は、もともと、自分の思いのままに行動したい、他者とは違う(優れた)自分を誇示し、それを他者から認められたい、という欲求をもっています。

 

 しかし、そうした人間らしい望みや希望をあきらめざるを得ず、固い鎧に身を包み、自分を押し殺さざるを得ないのは、いったい誰のせいか、その原因を、他者(場合によっては人間全体と人間社会)に向けるのです。

 

 自分より立場や力の強いもの、逆らったり、歯向かったりすれば、自分に不利になるような存在に対して、こうしたフラストレーションは、火を噴きません。

 

 自分に身近であったり、自分より弱い立場の者(たとえば、少数派の人など)に対して、火を噴きやすいのです。

 

 

 

 私は、いま、“コロナ禍”と呼ばれる状況の中で、大多数の人がマスクをしているのを見て、胸の奥が、むずむずする感覚をおぼえます。

 

 おそらく、その、先行してちらほら見られていた「マスク依存症」が、すでに現在の、コロナ関連の○○警察出現を予言していたのであって、さらにその少し前、誰も“マスク依存”などという現象に気がついていなかった、そのとき、すでに、指揮者が手を振りはじめていたのではないか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』(4)…にかこつけて、「マスクするのしないの云々かんぬん」について

 

 

 「ラーフは他の所を通らず、この固くなっている一条の砂地の上を歩いていった。考えごとをしたかったからである。この砂地の上だけしか、足に気をとられずに自由に歩ける所はほかになかった。波打ち際を歩きながら、彼はあることに気づき、愕然とした。この物憂い人生の姿が、今、急に理解できたように思われたのだ。人生のあらゆる行路は、いわば、その場その場限りのものではないのか、われわれの現実の生活の大部分は、自分の足もとを用心することだけに過されているのではないか、と思われた。」

                      ―ゴールディング『蠅の王』 

 

 

 

もし足もとにだけ気をとられていたら、雪崩が来ても気づかないかもしれない

 

 

 6月も終わりに近づいた、蒸し暑いある晩のこと、実家の母から、電話がかかってきました。

 

 母は、電話口で、ため息をつきつつ、言いました。

 「暑いねぇ……」

 私は、言いました。

 「うん。だから、夏は、マスクを適宜外さないと、熱中症になるから、その方が危険だからね」

 「え!?……でも、マスクしてないと、感染しそうでこわいし…。だから、パパの車の中でも、外でも、ずっとマスクしてるんだよ」

 「あのね、マスクって、自分が感染しないっていうより、他人に飛沫飛ばさないようにする効果しかないの。だから私、人と対面して話さなくちゃならないとき以外は、マスクしてないよ」

 

 そのあと、私は、「自分はマスクをしていない」などと、正直に、母に話すのではなかったと、ひどく後悔することになりました。

 

 折り返し、すぐに、父から電話が来たからです。

 父は、とても90歳を過ぎているとは思えない、大きな、張りのある声で、言いました。

 

 「おまえ、なんでマスクしないんだ!」

 

 しまった、“マスク警察”は、ここにもいたのだった、と気づくには、遅すぎました。

 

 むかしから、何かにつけ、「自分は絶対に正しい」、という勢いで、相手を再起不能なまでにのしてしまう父に、私はずっと、強い憤りを感じてきました。

 

 「そりゃ、私だって、学校とか、人と対面して話さなくちゃならないときには、マスクしてるよ」

 「ほらみろ」

 父は、勢いづいたようでしたが、私にも、考えや意見があります。

 何より、個人の行動の自由は、他人の権利を侵すものでない限り、守られてしかるべきだ、と思ったのです。

 暴君(タイラント)然として、家庭の上に君臨してきた父に、またここで自分をつぶされるのは、絶対に嫌でした。

 

 「でも、ふだんは、マスクしてない。口ひらかないし、しゃべらないから」

 

 私も、パートナーも、一緒にバスに乗ったり、ふつうに買い物をするなどの場面では、マスクをしませんでした。そのかわり、おしゃべりをしないのです。

 パートナーと、コミュニケーションをとりたいときには、こんなふうにしています。

 たとえば、スーパーで、(グレープフルーツ、何個買う?3つ?4つ?)と、ききたいときは、まず、グレープフルーツを指さしてから、指を3本立て、次に4本立ててみせ、パートナーが指を4本立てれば、それで会話は完了です。

 

 そういう私の日常や考えていることについて、何も知らない父は、あと一歩で、私を負かすことができる、と思ったのでしょう。

 「口ひらかないで、どうやって呼吸するんだ」

 私は、言いました。

 「鼻呼吸だもん」

 

 父は、黙りました。

(その後も、しつこく言葉の応酬は続き、私は、へとへとになりましたが)。

 

 

 そのとき私は、父が代表しているもの、それが、いまの、(あるいは、これから先の)社会の姿のような気がして、何だかいやな、こわい感じがしました。

 このまま、この状態で、「マスクをすることが正しい」という多数派の主張に、みんながなだれこんでいったら、どうなるのだろう?と思ったのです。

 

 実際、マスクをしている人たちが、なぜマスクをしているのかアンケートを取った研究(同志社大学社会心理学)で、一番多かった答えは、「みんなが着けているから」であり、自分や他人が感染するのを防ぐためではありませんでした。

                     (参照:デジタル毎日 2020.08.11)

 

 

 知覚過敏などでマスクを着けられない人もいますが、そうした人がマスクをしなくてよいのは当然ですし、同じように、高齢であるとか、持病があるなど、そうした人たちへの特別な配慮が必要なのはいうまでもありません。

 実際、私は、実家へ行ったときには、マスクをはずしません。

 自覚なしに、高齢の親に感染させてしまう可能性がある以上、はずす気にはなれないからです。

 あんなふうに言っておいて、「そこまで(実家に来てまでマスク)しなくても…」などと、矛盾したことを言う親への、ちょっとした(かなりの)“いやみ”の気持ちも、まったくない、とは言えませんが………

 

 

 別に何も、マスクしないでべらべらしゃべりまくって、飛沫飛ばしまくって、感染を拡大してやろう、なんていう気は、さらさらありません。

 ただただ、多数派の論理で、自分が納得もしていないことに無理やり服従させられることに「否」と言うことや、思想信条の自由と同じように、最低限度の行動の自由が保障されないのだとしたら、それはとてもこわいことになるのではないか、と感じるのです。

 

 ですから、私は、「マスクをしていない私」に向けられる、「こいつ人間じゃねぇ」というような視線や言葉に耐えられなくなるまでは、マスクを、なるべく着けないでいようと思っていたのですが、かなしいかな、私は、そこまで強くありません。

 

 最近では、それが随分と身にこたえるようになり、「外出恐怖症」気味になってきてしまったため、ウィルスではなく人から自分の身を守るための「護身用として」、マスクを持ち歩き、着けることも、多くなりました。

 

 けれども、そうやって外を歩いていると、以前よりもずっと、胸を締めつけられるような心細さを感じるようになったのは、いったい、なぜなのでしょう。

 

 まるで、四方八方、断崖絶壁、ほとんど幅もない尖った場所に、たったひとりで立っているかのような………。

 

 

 

 

少数派は、悪者?

 

 故・なだいなだ氏は、他人からよく、「どうしておまえはそうへそまがりなんだ」と言われることがあったそうです。

 それに対して、なだ氏は、自分のまわりの、大多数の人が、右に行くなら自分は左へ、左へ行くなら、自分は右へ行かなければ、という衝動を感じる。なぜなら、そうしないと、船が傾いて、沈没してしまいそうな気がする、と説明しました。

 

 「ともかくも、これが、私のへそまがりの本当の理由であるので、一見、反社会的、反連帯的な衝動のように見えながら、それが、私の他の人々との連帯意識のあらわれではないかと思うのです。」

             なだいなだ『人間、この非人間的なもの』ちくま文庫

 

 

 つまり、なだ氏にとっての社会的・連帯的行動とは、安易に周囲の多数の人と同じ行動を取ることではなく、その行動が社会全体に与える影響まで広く見渡し、(おそらくは、少数弱者の人たちが居場所を失うという事態をもなるべく防ぐために)、自らあえて、バランスをとるための行動に出ることなのでしょう。

 

 

 「少数派は悪者に見られやすい」という人間の無意識的メカニズムについては、社会心理学では、ハミルトンとギフォードの、誤った関連づけの実験においても、確かめられています。

 具体的には、少数派集団のメンバーが取った不適応的な行動は、(多数派集団のメンバーがたとえ同じくらい不適応的な行動を取っても)より目立ち、より「悪い」と評価されやすい、ということが明らかになりました。

         (参照:斎藤勇『イラストレート心理学入門(第2版)』誠信書房

 

 多数派は、多数派であるというだけで、「ふつう」で「正しい」、「優れている」とみなされやすい(ビートたけしさん、きよしさんのツービートの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」はまさに名言ですね)のに対し、少数派は、少数派であるというだけで、「異常」、「不正」、「劣っている」とみなすという、人間の認知のゆがみが根底にあるのです。

 

 こうした認知のゆがみは、人間が日常生活の中で受け取る情報量と、解決しなければならない課題があまりに多すぎるため、簡略化して対処する過程で起こることなので、「治す」ことはほぼ不可能です。

 しかも、この「多数派は正しい、少数派は間違っている」という考え方・感じ方は、差別や偏見ではなく、客観的事実だと思い込んでしまいやすい、というところにも、たちの悪さがあるのです。

 

 

 

 たとえば、ヒツジの群れは、先頭のリーダーが崖から落ちると、全頭、みんな一緒に落ちてしまうそうです。(小原秀雄『人間(ヒト)学の展望』明石書店

 別に「集団自殺」を遂げるつもりがあったのではなく、おそらくは、その先に、新しくてたくさん餌のある生存場所があると信じて、リーダーのあとを、みんなついていくわけですが、群れには、「走る」という止まりがたい、強くて勢いのあるエネルギーが働いており、たとえリーダーが危険を察知して立ち止まろうとしても(大地がない!!)、あとからあとから押し寄せてくる群れの圧力に押されて、結局、みんな仲良く、一緒に崖の底へ落ちてお陀仏、になってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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       鈍色の まぶたの 間 から

       線香花火 のような 太陽 が

       顔を 出す

 

       黄色く 濁った そのひとみは

       わたし あるいは ほかの誰かが 死んでも

       いちべつも くれは しない

       みずからの 重みと 熱と まぶしさ に

       せいいっぱい だから

       

      

       風が どこから か

       甘い 花のかおりを はこんでくる

 

       わたしの 庭には 花など 咲かない

 

       この花 は 

       誰でも ない 何ものでも ない わたし が

       そのにおいに 叶わぬ夢を かさねて

       むせび 泣いている など とは

       思いも しない だろう

 

 

       じりじり として ぼんやり とした

       盲目の 太陽に 焼かれる まま

       ただ 横たわる

       わたしの からだの 上を

       時間だけ が 

       列車の ように 走って いく

       

       そうして いずれ は

       轢死を 遂げる だけ なのだ

      

       誰 にも 何 にも 見られず に

       散って 踏まれて

       くしゃくしゃに なった

       夏のさかり の

       あかい あかい

       さるすべり のよう に

  

  

       

       

 

 

 

 

 

 

       

        

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』 (3)

「仮面」は、「顔」を奪う

 

 ここからは、ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 

 少年たちから、「投票」という民主的な方法で、みんなのリーダーに選ばれたラーフ。

 そして、誰よりも自分こそリーダーにふさわしいと思っていたのに、ラーフに負け、狩猟隊を組織し、野豚狩りに夢中になるジャック。

 

 二人の間の亀裂は、徐々に深まっていきますが、ラーフとジャックの、お互いに対する感情には、かなりの温度差があります。

 

 リーダーの座に収まったことも手伝って、ラーフは、それらしい落ち着きを保ち、ことあるごとにジャックと意見が対立しても、精神的な余裕を失わないのに対し、「負けた」側のジャックの苛立ちと憎しみは、より深刻です。

 

 自分の方が、相手より損をしている(させられている)、相手より、自分の能力の方が上なのに、劣位におかれている、という不満からくる憤怒は、当然、勝者とは比べものにならないほど強いのです。

 

 そして、二人の意見もまた、互いの立場を象徴するかのように、相容れません。

 

 ラーフは、まず何といっても、この得体の知れない状況から、自分たちが無事救助されることを第一に考え、当番制で烽火を絶やさないようにすること、そして、それまで自分たちがなるべく安全に生きていられるよう、家(ホーム)がわりの小屋をつくることを決め、リーダーシップを発揮します。

 

 それに対して、ジャックの頭を占めているのは、島に生息する野豚をいかに殺すか、ということであり、やがて彼は、野豚に気取られることがないよう、自分の顔に粘土や木炭で、自分の顔に隈どりをするようになります。

 

 

 「彼は、粘土を塗りたくり、半分他人のものになったような顔を、まだ意味が分からずにぽかんとしているロジャーの顔の前につきだした。

 『これ、狩りに必要なんだ。戦争のときと同じさ。ほら―例の迷彩ってやつさ。何かほかのもののように見せるってやつだよ―』

      ………中略……… 

彼は、踊りだしたが、彼の笑いは、しだいに血に飢えた唸り声に変っていった。

仮面はそれだけで、一つの生き物のようであった。その背後に、ジャックは恥辱と自意識から解放されて、潜むことができたのだ。」

 

 

 ユング心理学では、仮面は「ペルソナ」と言い、私たちが、日常生活や社会生活の中で、適応的でふさわしい行動がとれるよう、様々な役割を演じ分ける(たとえば、家庭人としての役割、仕事上での役割など)ために必要なものとされます。

 

 通常、役割を終えれば、この「仮面」を脱ぎ去り、おそらく「仮面」をかぶっているときよりも脆くて弱い自分に戻り、自分そのものの顔と向き合ったあとで、再び、危険な外界から身を守るため、必要に応じて「仮面」をつけるのです。

 

 さらに、仮面は、匿名性を高めます。

 

 「顔」をあらわにすることは、「その行為をしたのは」「この顔をもつ」「この人間の」「責任である」ことを特定し、本人だけでなく、周囲の人にも強く認識させるため、それが良くも悪くも「ブレーキ」の働きをすることになります。

 

 たとえば、お祭りのときなどには、顔に特殊な化粧を施したりすることによって、日常的、常識的な“カセ”から自分を解放し、ハメを外しやすくしたり、集団との一体感や興奮を高め、ときにはトランス状態になって、感情的なカタルシスをはかることもできるようになります。

  あるいは、神など、何か大きくて絶対的な力をもった存在の一部になったように錯覚したり、ふだんは、「そんなこと恥ずかしくてできない」とか、他人からどう見られるかが気になってしまい、とてもできないような、大胆な行動にも出やすくなることでしょう。

 

 ですが、仮面は、それが示す役割にのめり込みすぎれば、やがてはずすことができなくなり、自分の本当の顔を失ってしまう危険と、いつも隣り合わせです。 

 

 

 ジャックは、顔に隈取りをすることによって、まるで「獣」のように強くなり、「生命をもった動物をうまくだしぬき、自分たちの意志をそれに押しつけ、ゆっくり舌で味わう美酒のようにその生命を舌なめずりしながら奪い去ったという事実」によって、ラーフに負けて傷ついた自尊心を、あるいは無意識に、回復させようとしたのかもしれません。

 

 

 つまり、ラーフの考えでは、文明的に整えられた環境で育った自分たちが、このままでは「人間」ではなくなること、この孤島では、生きながらえることはできず、いずれみな死んでしまうだろうということ、だからこそ、救助してもらえる機会を絶対に逃さないことが、第一なのです。

 

 けれども、ジャックは、生きものの命を奪い、その肉を喰らうことに、強烈な快感と満足を見出しており、自分と狩猟隊に烽火の番をさせようなどというラーフに、強い不信と憎悪を抱いています。

 

 要するに、ラーフの考え方では、文明社会に戻り、清潔な環境下で、もとどおり、文明人らしく生き延びることになるのだろうし、ジャックの生き方では、あまり長くはないであろう生を、獣のように生きることになるのでしょう。

 

 

 一般的には、ラーフの考えが、長期的目線での冷静な判断とされるのだと思いますが、たとえば、人間に養育されなかった野生児は、日々の食料やねぐらを自分で得て「生きること」が日常であり、ある種、「目的に満ちた」生き方をします。

 

 人は、自分が生まれた社会に適応して生きていくための、高い順応力をもって生まれてくるのですから、彼なり彼女なりが、何を重要視し、どのようにして生きていくかは、生まれ落ちた社会によって、いかようにでも変わりうるのです。

 

 ですから、たとえばジャックのように、野豚狩りをし、日々の食料を得て、たとえ短い生であっても、死ぬまで孤島で生きる、という道もあり得たでしょう。

 

 

 ラーフとジャックは、考え方や重要視するものが違うだけであり、それぞれに、互いを否定することなく、生きていてもよかったのです。

 けれども、それぞれがそれぞれの「仕事」をする上では、どうしてもある程度の数の仲間が必要であり、仲間の数と勢力の問題が、特に、ジャックの側の苛立ちを激しく燃え立たせていきます。

 

 そうして、ついに、その危険な対立と迫害は、少年たちすべてを巻き込み、命にかかわる事態を引き起こしてしまうのです。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

雨あがり

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       幼い きみは たどたどしく

       二本の 足で 歩いていく

       草原で すっくと立った あの日から

       ヒトは 大地と はなればなれになった

       その 運命を

       小さな からだは もう 知ってる

 

       伸びたつる草も

       生い茂る緑の とがった葉っぱさえ

       まだ 脅威だ というのに

 

       小さいきょうだいを 抱いて

       先を いく 母

 

       きみは どんどん どんどん 遅れてく

       母に ふりかえってほしくて

       あの あたたかい手と胸を

       もう一度

       自分だけのものに したくて

 

       傘の先で 濡れた土を つついて 歩く

       嫉妬に ひねくれ 強がっている

       必死に あらがい たたかっている

 

       でも

       いったい 何と?

 

 

       ツバメの 親には 

       巣で待つ 子どもに エサをはこぶ 翼がある 

       巣立ちの日

       大きくなった 子どもには 窮屈になった巣を

       こわしてくれる くちばしも ある

 

       さあ これからは 空が お家

       なんでも

       自分で さがして 飛んでおゆき と

       優しく ゆびさす

       最後の メッセージ

 

 

       けれど

       翼もなければ くちばしもない

       よわよわしい ヒトは 

       ただひらすらに 真っすぐ すすもうとしては

       迷宮に 迷い込む

 

 

       両手に あまるほど あるのは

       孤独と さびしさ だけ で

       帰る家も 自分のものも

       なんにも ない

 

 

       未だ 見ぬもの

       きみの 未来

 

       飛んで いける

       不安と 自由の 空は

       いつか どこかで

       みつかるの だろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』 (2)

“無意識の偽善者”

 

 いま、ちょうどNHKで、『未来少年コナン』というアニメが深夜に再放送されています。

 言わずと知れた、あの宮崎駿監督が手掛けた1978年の“名作”ですが、私は、あの中に登場する美少女「ラナ」が、あまり好きではないのです。

 

 彼女の祖父は、(使い方いかんによっては、人類を破滅に導く)太陽エネルギー開発に携わった科学者の一人、ラオ博士で、ラナには、ラオ博士とテレパシーで話す能力があります。

 そのせいで、彼女は、太陽エネルギーをわがものにしようとする「レプカ」を筆頭とする“悪者”たちに狙われ、さんざんな目に遭わされます。

 

 第19話『大津波』では、もともと“やんちゃ”な性格ではあったものの、今ではすっかりレプカの部下モンスリーと手を組んだ「オーロ」が、津波が来ることをみんなに知らせようとするラナの前に立ちはだかって脅すのに対して、ラナは、こんなふうに言うのです。

 

 「オーロ!あなたって、どうしてそんな人間になっちゃったの!」

 

 完全に、上からのもの言いです。

 こんなことを言われたら、たとえオーロでなくたって、その横っ面をぶん殴ってやりたくなるだろうな、と思いました。

 

 自分を殴る者に、ラナは、抵抗一つせず、黙って耐えます。

 それよりも、何よりも、「明らかに悪いことをしている」人間に向かって、ラナはいつも、まばゆいばかりの正しさに輝く強い目で、相手を、じっとみつめるのです。

 

 たとえ、どんな理不尽な、ひどい目に遭わされても。 

 

 なんと、彼女は罪深い人間だろう、しかも、彼女にその自覚はあるだろうか?

 いや、みじんもないに違いない、と、私は思いました。

 

 

 夏目漱石の『行人』の中に、こんな言葉があります。

 

 「一度打っても落付いている。二度打っても落付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、矢っ張り逆らわない。僕が打てば打つほど向(むこう)はレデーらしくなる。そのために僕は益(ますます)無頼漢(ごろつき)扱いにされなくては済まなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒(いかり)を小羊の上に洩らすのと同じ事だ。」

                         夏目漱石『行人』

 

 

 私は、夏目漱石の作品の中で、『行人』がいちばん好きです。

 お互いに、分かり合い、信じ合いたいのにそうなれない、夫の長野一郎の苦悩と、その妻である直の孤独が、いたいほど生々しく伝わってくるからです。

 この二人は、夫婦という形だけでなはい、普遍的に人と人の間に存在する、「まるごと分かり合いたくても分かり合えない」、「まるごと信じたくても信じられない」、人の世に生きる孤独や淋しさを、みごとに描いていると、私には感じられるのです。

 

 上述の言葉は、直に対する一郎の気持ちを表したもので、一郎は、直を「打っていた」のであり、いまでいえばドメスティックバイオレンスになりますが、いわれのない暴力を受ける被害者の気持ちを説明する言葉はたくさん聞きますが、加害者側の心情が語られることは、まだ少ないのではないでしょうか。

 

 「いうまでもなく」、弱いものに手をあげるなど、最低です。

 

 けれども、「いうまでもなく」だからこそ、“善”や“正しさ”は、おそろしいのです。

 

 それに対して、“悪”をおこなうものには、おそらく、“善”をおこなうもの以上に、(たとえ本人は自覚していなくとも)、無意識的な罪悪感が心を責め苛むはずです。

 

 それは、ある種の取り返しのつかなさを感じさせ、“悪者”は、よりいっそう悪者らしく振舞わなければならなくなります。

 たとえば、こんなふうに。

 「ここまでやっちまったら仕方がない。どうせ俺は悪者さ、それならもっともっと、悪いことをしてやろうじゃないか」

 

 

 だからこそ、「正しいこと」を言ったり、やったりしようとするときには、謙虚さと自戒をもって、ひかえめに、でなければならないと私は思うのです。 

 

 

 

「悪」をつくりだす「善」

 

 物語のタイトルとなっている「蠅の王」とは、今でこそ、サタンに匹敵するほどの大悪魔として知られる「ベルゼバブ」(あるいは「ベルゼブブ」)ですが、実はこの「蠅の王」は、もとはカナン人たちが信仰する「バアル・ゼブル」(至高の王)でした。

 

 ところが、この異教の神は、ユダヤ人から嫌われ、嘲笑的に、「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と言い換えられてしまい、キリスト教の普及とともに、悪魔「ベルゼバブ」として定着してしまったのです。

  (荒木正純『知っておきたい 天使・聖獣と悪魔・魔獣』西東社 2007年、

 草野巧『図解悪魔学新紀元社 2010年)

 

 

 実は、“悪魔”という存在そのものが、そうなのです。

 

 唯一絶対神を信仰する一神教では、神は「唯一無二」でなければならず、しかも、完全に善なる正しい存在でなければなりません。

 すると、その反対の「悪」とは何かを明確にしなければならなくなります。

 「善」とは何か、それが信じるに足る尊い価値があるものなのか、まるで説得力がないからです。

 

 なぜなら、人間が、何かを判断するときには、必ず比較の対象を必要とするからです。

 

 比較するものが何もないと、“色”さえも、判断できません。

 視界が全部黒だと「ブラック・アウト」、全部白だけだと「ホワイト・アウト」と言いますが、比較対象となる他の色がない限り、その色が一体何色なのか、わかりません。

 (あるいはまた、比較の対象となる色が何色か、たとえば、となりに来る色が黄色か、青色かによっても、同じ「赤」でも全然違う色に見えます。)

 

 大きいとか、小さいとか、好きとか、嫌いとか、そうした日常的で簡単な判断ですらそうなのです。

 

 ですから、神こそ絶対的に正しい存在であるということを、人々に納得させ、真の深い信仰を引き出すために、悪魔は必要不可欠だったのであり、神は、悪魔なしには存在しえないのです。

 

 

 

 正義のヒーローは、どこかの時代のどこかの世界で、悪さをするものがいて、それで困っている“善良な人々”を救うためにやってきます。

 

 正義のヒーローが、いかに清く正しい(だからこそ強い!)存在であるか、私たちを納得させるために、敵となる悪者は、この上なく卑劣できたないヤツでなければなりません。

 

 しかも、必ず“善”は勝ち、“悪”は負けなければなりません。

 

 人々に、疑うことなく“それこそが唯一無二の善である”と、かたくかたく信じさせるために。

 

 そして、そこに、寄る辺なき人々を“帰依”させ、同一化させ、自我を肥大化させて、まるごとのみ込んでしまうために………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウィリアム・ゴールディング 『蠅の王』 (1)

“過去は未来に復讐する”

 

 地震は、もとの地形をあぶり出してしまうそうです。

 たとえば、もとは湖沼だったり、河川だったところを埋め立てた場所は、どんな強固でゆるがないように見えても、ひとたび地震が襲えばたちまち液状化し、建物の土台をずぶずぶ飲み込んでいきます。

 

 あるいは、油彩で、経年によって、下に描かれていた絵や、直す前の絵や線が浮かび上がってくることを、「ペンティメント」、というそうです。

 

 要するに、表面上、取り繕っていても、もとからそういうものだと見えても、何かあれば、意外と簡単に、もとの状態に戻ってしまい、素の姿があらわになってしまう、ということなのでしょう。

 

 

 人間の心に備わっている「防衛機制」にも、同じようなものがあります。

 

 「防衛機制」とは、あまりに衝撃的な現実を、まともに受け止めてしまったら、心が壊れてしまうので、それを回避し、心を守るために備わっている機能なのです。

 

 が、この防衛機制は、当の本人があずかり知らぬうち、無意識的に作動してしまうものなので、使いすぎれば、やがて、自分の本当の気持ちや欲求、衝動にアクセスすることができなくなるという、危険と隣り合わせの禁じ手でもあるのです。

 

 とはいえ、私たちを取り囲む現実は、実に手に余る、アウト・オブ・コントロールなものばかりなので、たとえ禁じ手といえども、身を守るためには、この“毒”を、少しずつ飲まないでは、生き続けることができません。

 毒は、少量なら薬にもなり、薬は、大量に摂取すれば毒にもなるのです。

 

 

 説明が長くなりましたが、この「防衛機制」には、いくつか種類があり、その中の一つに、「退行」、という働きがあります。

 

 「退行」とは、簡単にいえば、“子どもがえり”のことであり、ものごとをうまく解決できなかったり、目的を、自分の欲求を満足させる形で達成することができない事態が続くと、まったく建設的でない、子どもじみて幼稚な手段にしがみつき、そこから離れようとしなくなる働きです。

 

 万事快調、とまではいかなくとも、そこそこやっていけそうだ、と思っている間は、目の前の現実や問題に、どう対処すればよいのか、合理的に考えようとすることもできるのですが、そうした余裕が失われ、自尊心が傷つき、弱っていると、「子ども」の頃にそれで問題を解決した(気になっている)行動に出るのです。

 

 たとえば、やけ食い、やけ飲み、わあわあ泣きわめく、八つ当たりする、など、その場限りでの自滅なら、さしたる深刻な影響も出ませんが、過去の問題解決法に固執し続け、逸脱し、「問題」さえ見えなくなり、破滅的な事態を引き起こしてしまうこともあるのですから、決してあなどれません。

 

 こうした「退行」現象は、個人の内部で起こるのみならず、当然、その個人の集合体である集団や、社会でも起こります。

 

 そのやり方では、絶対にその問題を解決することはできないのに、魔術的・呪術的思考にとらわれて、過去には、ヨーロッパで魔女狩りが起きたり、ユダヤ人の大虐殺が起きたり、あるいは、もっと規模の小さい集団では、わけもわからず、どう対処してよいかわからない不安や恐怖、怯えから、何の関係もない人がスケープゴートにされ、迫害されることなど、珍しいことでも何でもないでしょう。

 

 ふだん、何もなければ、人間や集団、社会の本質や、その脆弱な部分を隠し、不安があっても抑圧して、平然としていられるというものです。(日常などというものは、それこそ、もともと刹那的で、危うい土台しかもっていないのですが)。

 

 しかし、そこへ、災難がふりかかってきたり、不測の事態に陥ると、恐怖や不安からパニックを起こし、もともとの脆弱な基盤が露呈してしまうのです。

 

 

 

 

楽園の子どもたち

 

 ダイヤモンドのようにきらめく砂浜と、太陽。

 濃青色の海と、珊瑚礁

 孔雀色の、岩石と海草。

 何か、魅力的な秘密を隠しているような、緑濃い、奥深い森。

 

 遠い未来の大戦中、イギリスから疎開した少年たちの飛行機が撃墜され、ある島に不時着した、というところから、この物語は始まります。

 

 大人たちは、みな死んでしまったようで、比較的年齢の大きな子から、小さな子まで、数十人ほどの子どもたちだけが、それまで知っていた世界とは全く異なる世界—周囲から隔絶された孤島―に、迷い込んでしまったのです。

 

 その国の文化や、文明人としてのふるまいを子どもたちにおしえ、導く大人が一人もいない島で、美味な果物も、つかまえさえすれば食べることのできる野豚もいて、子どもたちは、まさに、何ものにも縛られることなく、「自由に」、生きることもできたでしょう。

 

 しかし、人間や、人間の集団というものは、決まりや秩序を欲するもののようです。

 

 決まりや秩序があってはじめて、無駄な苦労を減らし、仕事やものごとの効率化をはかることができるから、でしょうか。

 

 

 物語で最初に登場した「ラーフ」という金髪の少年は、“投票”という文明国の民主的制度でリーダーに選ばれ、仔豚のような容姿から「ピギー」というあだ名で呼ばれる眼鏡をかけた少年が、彼の補佐役のようにして、大抵、一緒に行動しています。

 

 そしてもう一人、自分こそリーダーにふさわしいと思っていたのに、ラーフに負け、自分の狩猟隊(もとは合唱隊)を指揮して野豚狩りを引き受けることになった「ジャック」。

 

 代表的には、この三人を中心として、物語が進んでいきます。

 

 加えて、もう一つ、物語の中心にあって、大切な役割を果たしているのが、ラーフとピギーがたまたまみつけた、濃いクリーム色で、ところどころに淡紅色がまざった、大きくて美しい「ほら貝」です。

 

 ラーフが、このほら貝を吹き鳴らしたことで、その音を聞きつけ、生き残っていた子どもたちがみな、ラーフとピギーのところへ集まってきたのです。

 それからというもの、このほら貝こそが、ラーフにリーダーらしい品格を与え、そのほら貝を持たされたものには、集団の中での発言権が与えられて、これからはじまる、子どもだけの集団生活の、「秩序」の象徴となっていくのです。